この祈りが届きますように
ダラダラと過ごしていると、夕方になってようやく客足が途絶えたらしく商人が珍しく疲れた様子で俺達の元に来た。
「お疲れ。マトモに働いているんだな」
「そりゃあ、ふんぞり返ってるわけにもいかないでしょう」
「……まぁそうなんだけど、お前が普通に働いているのはなんか違和感がな……」
「いや、なんでですか。いつもランドロスさんを相手にしてるのと仕事の一環ですよ」
「そうならもうちょっと丁寧に接しろよ。夕飯時だが……飲むか?」
「そうですね。明日には帰ってるかもしれませんし」
孤児院の中の子供がこなさそうな書斎のような部屋に連れられてくる。
商人は大袈裟な箱に入った酒瓶を取り出し、皿を机の上に置く。
「あ、シャルは食べないものとかあるか? 何かあれば買ってくるが」
「えっと、なんでも大丈夫です。それより、飲みすぎたらダメですよ。ランドロスさん、案外酒癖が悪いんですから」
「……割とシャルに無理矢理飲まされてそうなってることが多い気がするが……まぁほどほどにするよ。ギルドじゃないしな」
商人はツマミなどは用意していないようなので、適当に食べられる物を取り出して机に並べる。
商人が俺の前にグラスを置いて酒を注ぎ、特に乾杯などをすることもなくそれに口を付ける。
「どうですか? 旦那」
「どうと言われても……普通だな。いつも飲んでいるようなのとあまり違いを感じない」
「まぁ安酒ですからね」
「なんでだよ。このタイミングでそれはなんだよ。なんで感想を聞いたよ」
「いやぁ、ペラペラ批評を始めたら面白いなぁと」
悪質な悪戯はやめろ。嫁の前で恥をかくのは耐えられないんだよ、俺は。
ツマミを口にしながら安酒をちびちびと飲んでいると、シャルは俺の方を見て首を傾げる。
「お酒って美味しいんですか?」
「シャルにはまだ早いぞ。俺は安いのしか飲んだことがないから、味はあまり……。酔うといつも朧げに感じる不安とか悲しみとかそういうのが減って、陽気な気持ちになるな」
「……いいですね」
「ダメだぞ。……ほら、チョコレートやるから」
「むう……」
シャルの口元にチョコを持っていくと、シャルはパクリとそれを食べる。柔らかい唇がふにりと指先に触れて、思わずどきりと緊張してしまう。
「……まぁ、そういうことなら、飲みたくなるという気持ちはよく分かります。院長先生のことも、日記のことも、お辛いでしょうから」
「……シャルほどじゃないだろうけどな。……まぁ、俺は心があまり強くない」
グラスが空くと商人の手が伸びて酒を補充していく。
俺がそれを口にすると、商人が先ほどと同じように尋ねる。
「どうですか? 旦那」
「ブドウジュースだな。これ」
「よく分かりましたね。流石はランドロスの旦那」
「舐めてんのか」
酔うに酔えないと、日記のことが頭に浮かんでしまう。……まぁ、忘れたりせず、ちゃんと受け止めるべきなのだろうが。
紅暦220年1月1日
私は死ぬことにした。
自殺ではない。自殺は神によって禁じられている行為であるし、命を無為に失うことはきっと母も悲しむからだ。
私の学のない頭では、ランドロスを少しでも長く生きさせるにはそれが一番であるように思えたから、それを実行するのである。
この街の、この国の魔族に対する敵意は日に日に高まっており、このまま街で生きることは不可能だろう。かと言って以前のネヘルトさんのように森の穴蔵で暮らすには私が足を引っ張る。
ランドロスは彼に似て空間魔法と高い身体能力がある。まだまだ甘えん坊だけど、最低限の知識さえあれば狩人として生きられることだろう。
私は別だ。ネヘルトさんとの生活でもたびたび体を壊していたし、あの時よりも老いたのだからなおさらだ。
共に森で暮らそうとすれば、ランドロスのとってきた物を奪うことになる。そうなると共倒れだ。
だからと言ってこの家から追い出しても、ランドロスは戻ってきてしまうだろう。戻って来なくても、きっと人の街に住もうとしてしまうだろう。
優しい子に育ててしまった、警戒心のない子になってしまった。それは私がネヘルトさんがすぐに戻ってくると信じていたから、彼がいたら大丈夫だと思っていたからだ。
「人間は敵だ」などと言い含めても、きっとランドロスは人と関わろうとしてしまう。だから、私は死ぬことにした。
このままこの街で暮らしていれば、いつか私達は襲われて殺される。私が目の前で人間に襲われ殺されれば、あの子は人間を恨むだろう。人の街に行こうとはしなくなるだろう。
そうすれば、一人で森の中で生きてくれるはずだ。
自分の立てた策ながら、あまりにも残酷なやり口で、卑劣な方法だ。
長く生きてほしいという、ただの親の身勝手だ。「人の愛を知らぬまま、恨みと憎しみを抱えて一人で生きろ」なんて……そんな最悪な願いがあるだろうか。
私はどうしようもなく、身勝手で卑怯で、子供を苦しめてばかりの最悪な親だ。ランドロスが「お母さん」と呼ぶたびに胸が締め付けられる。
私は間違っている。それだけはよく分かった。
神よ、私に罰をお与えください。けれど、ランドロスをお救いください。あの子はとても優しい子なんです。こんな私をいつも気遣っている子なんです。どうかこの祈りが届きますように。
紅暦220年5月14日
死ぬと決めてから、結構な時間が経った。
生きようともがくには短すぎる時間ではあったけれど、死を受け入れると長い時間だ。
色々なことをランドロスに教えて森で生きていけるようにして、子供だけが通れるような逃走の道を少しずつ作っていき、神に祈る。その繰り返しの日々だった。
祈りを捧げているうちに、より多くの人に救われてほしいと思うようになっていった。
自分勝手だった私は、いつのまにか友や家族のために祈るようになり、次第に世界が良くなっていくように祈るようになっていった。
私を殺すであろう街の人々がとても心配だ。彼らの強い猜疑心と根深い恐怖、きっととても苦しいものだろうと、彼らの救いを祈るようになった。
もう彼らへの憎しみはなくなっていた。
神は何故このように、人が人を憎み、殺し合い、疑り合い、分かり合えないように作ったのだろうかと、考えることが増えてきた。
何故完璧な世界を作らなかったのか、どうして全員が幸せな世界にしなかったのか。憎しみにも似た問いかけの答えが、よくやく出てきた。
完璧な世界、というものは矛盾しているのだ。私はネヘルトさんやランドロスを深く愛している。愛を向ける相手がいれば、その向ける相手に多くの物を渡すだろう。夫や息子でないものには余裕がなければ施さないだろうし、いざとなれば……息子や夫のために奪おうとするだろう。
国や民族でも同じだ。多くの人が友を、家族を、知人を守ろうとすれば戦争となる。
だから愛こそが、悪なのだろう。
最も良いとされる愛が悪なのであるという矛盾。故に神が万能であろうと、人は救われることはないのだ。
きっとそれは……優しい神にとって、とても苦しいものだろう。
だから私は祈ろう。
ああ神よ、いつかきっと、あなたが救われることを心からお祈りいたします。
あなたを救ってくれる人が現れますように。
この祈りが、届きますように。




