【番外編3】 終わらない夢を見る
紙片は勢いよく青い炎を上げて、ディアンの手の上で燃え尽きた。漂う灰さえもディアンのひと睨みで、空間からかき消える。
背後の背もたれから、心配げに覗き込むリディアの手を、ディアンは肩越しに握りしめる。
「リディア。問題ない」
「……」
一拍おいて、リディアは小さく声に出した。
「……うん」
冴えないリディアの反応に、ディアンが肩に置かれたリディアの手を強く握る。
「私はいいの。でも――」
「おまえだけじゃない。守る、必ず」
「わかってる」
「来いよ」
ディアンに手を引かれて、リディアは彼の前に回る。椅子にもたれた彼に腰を引き寄せられて、リディアは彼の膝の上に腰を下ろす。
「重いよ」
「んなわけあるか」
リディアの腹部に置かれたディアンの手の上に、リディアも自分の手を重ねる。彼の手がリディアの手を取り、その甲に口づける。
「ディアン……」
「信用しろ」
「ごめんね……」
「お前のせいじゃないし、お前だけの問題じゃない」
ディアンがリディアの金髪の髪に顎をうずめて、口づけを落とす。
――その感触は好きだ。
髪越しでも、唇を感じる。触れる感触に、かかる重みに、彼の確かな存在を感じる。自分は今ここにいる、彼に守られている。
この場所を失いたくない。
リディアはディアンの手を握りしめた。
***
芝生の上にしゃがみこんでいる少女は声を掛けられると、ぱっと振り向く。
「ティア」
後ろから呼びかけた父親の足元に駆け寄ると、その足に向かい短い手足をのばす。
「――だっこっ!」
その背はいくら手を伸ばしても彼にとても届かない。それまで花を見ていたのに、唐突な興味の転換だが、今はもう自分の大好きな存在に対する絶対的な信頼と甘えを見せている。
ディアンは目の前の小さすぎる存在に、少しかがんでその腰を片手で引き寄せ自分の肩の高さまで軽々と抱き上げる。
途端に鈴を鳴らしたような高く楽しげな笑い声が響き渡る。
「パパ。だいしゅき!!」
水色のドレスのパフスリーブの袖から、見るからに柔らかそうで、ふくふくとした両腕が、ディアンの首に絡みつく。それは陽だまりのような匂いがした。
ドレスの裾がめくれ、パンツまで見えたお尻にディアンは布地をひっぱり隠すように直す。
そんな動作にも構わず、ディアンの頬に柔らかい肌を擦り寄せてきた存在は、少し高い体温を伝えてくる。
こんなにも柔らかくて脆くて、でもエネルギーに溢れている存在があるのかと、いつも驚く。
それ以上に、自分にこれほどまでにも慕う存在がいることに、ディアンは驚きと嬉しさで息を漏らす。
「パパは? パパは?」
見事としか言いようのないほどの輝きのあるプラチナブロンドは、クセがなく真っ直ぐで腰の長さまである。サラサラとすべりがよく、結ぼうとしてもゴムが滑り落ちるほど。
その髪と同じ色の睫毛は長くふさふさとしていて、カーブを描いていて、愛らしい。
それに包まれた瞳は鮮やかな翠。けれど中央に近づくほど水色となり不思議なグラデーションを描く虹彩。
純粋さしかない、汚いものを何も知らない眼差しは、まばたきを忘れたように閉じることなく、ディアンの顔を覗き込んでくる。
「パパは、ティアのことしゅき?」
「ああ。大好きだよ」
「ティアも! ティア、パパのことだあああい、しゅき!!」
ふくふくとして落ちそうなほっぺた、顔は満面の笑顔。その存在は太陽のようだった。
「ちゅーして!!」
ディアンは、笑ってその頬に唇を寄せてキスをする。
「ティアも!!」
満面の笑みで、小さくて柔らかい両手でディアンの頬をつかんで、唇を寄せてくる存在にディアンはさらに笑みをつくる。
だが少女はくいっと唐突に首を巡らせ、横顔を向ける。ふとした時に、娘にその母親の顔立ちと重なる時がある。
「ママ?」
娘の声に、ディアンがもう片方の繋いだ手の先の顔を見ると、歩くリディアがそらすように横を向く、少しだけ膨れた頬。
その足がよろめくから、ディアンはもう片方の空いた手で腰を引き寄せる。
「何か言いたいことが?」
「……何もないよ」
長い時を重ねて、ようやく結ばれて、家族を作った。
子供たちの親となり、拙い恋人だった関係は、より濃くなった。
リディアはより素直に感情を見せるようになった、すなわち嫉妬。
娘に対してたっぷりと愛情を示すディアンに、嬉しそうにしながらも複雑そうな顔。
以前は不機嫌という感情しか見せなかったディアンの顔は、リディアや家族を思うときは、柔らかい顔をしていると部下に言われる時がある。緩んでんじゃねーの? とまで。
そして今は、余裕と同じ満足感が胸をこみ上げてくる。
ディアンは含むように笑って、体を屈み、耳に囁く。
「愛してるよ、奥さん」
リディアの顔は赤く、そしてまた足がよろけるから、ディアンは再度支える。
「お前も、抱きあげてやろうか?」
「いいよ!」
「で。さっきの返事は?」
「……」
リディアの背けられた顔は変わらない。でもあと一押し。
「ママ?」
「ママも返事しなきゃ、いけないよな? ティア」
「うん!!」
二人の共謀に、リディアはようやくディアンにそっと非難の目を向ける。その顔には照れが含まれていた。
「……言えないよ」
子供の前では、と声に出さない言葉が隠れている。
「ふーん」
「な、なに?」
「じゃあ今晩、寝室で、聞かせてくれんだな?」
リディアが顔を赤くしたまま、踵をあげて背伸びをして向きなおりディアンの口を手で塞ぐ。
その手をディアンは先制して掴んで、リディアの手の甲に口付ける。
「んもう!」
「お前が俺に勝とうなんて、早いんだよ」
「だから子供の前で――」
「ママは、パパのことしゅき?」
ティアが身を乗り出して、ディアンの顔にしがみつくようにリディアの顔を覗き込む。ディアンはそのよく動く身体を、落ちないように支えた。
そしてリディアの顔を見下ろす。
二人にじっと見つめられて、リディアは顔を赤くする。
「……好き、だよ」
「ティアも!!」
即座に同意する言葉は、素直で無邪気。
リディアも、ようやく苦笑を浮かべて、ディアンに視線を向ける。繰り返されるやり取りは、幸福でしかない。
「ティアね、でぃーもしゅき!」
「……は?」
「でぃーの、およめさんになるの!」
は? とディアンが眉を寄せて嫌な予感を浮かべながらリディアに視線で問う。
「ディックって言えないのよねぇ。だからディー」
「――じゃなくて!!」
いつからそんな話になった!? なんでリディアは笑ってるんだ?
「こないだまで、パパのおよめさんになるって言ってなかったか!?」
「ティア、でぃーのおよめさんになるの!!」
「ダメだ!!」
「やああああ」
「だーめ」
「いやあ!!」
いやいやが、始まった。こうなるとティアは絶対に引かない。この頑固さは誰に似たんだ? というか、なんでこんな話になった?
「ティア、ディックのこと大好きだもんね?」
「うん!!」
「リディア!! 何歳差だよ。ていうか、なしだ、絶対なし!!」
「やあああ」
ティアが背をのけぞらし、腕の中で暴れだす。泣き出し暴れだす娘を、ディアンは落とさないように抱えながら、宥める。
こうなると何で泣いているのか、本人もわからなくなっていく。
その様子を全然止める様子もなくリディアは笑って、それから、道の先を見た。
「――レオン?」
自然公園の中は、緑と土の匂いが濃い。
遊歩道は踏み固められた土。
三人が行くその先、木々の影が差し込む下で佇む少年――レオンが、黒いモヤを握りしめると、それはすぐに空間に溶け込んでいった。
リディアがディアンの手を離し、駆け寄る。ディアンはティアを抱き上げたまま、少し足を早める。
「レオン」
「母さん、走っちゃダメだって」
「そうじゃなくて」
「――弱い魔獣の思念体、消したよ」
少年も駆け寄るリディアを制するように戻ってくる。黒い髪質はディアンに似ていて癖もなく真っ直ぐ、だが瞳の瞳は濃く鮮やかな青。
リディアの祖母の瞳の色だという。
リディアが少し億劫そうにしゃがみこんで、レオンと視線を合わせる。
「どうして、消したの?」
「どうしてって……」
困惑の眼差しのレオンが、ディアンを見上げる。ディアンは顎で頷いて、自分で説明するように促す。
「――目の前に敵がいたら全て滅ぼせって」
「お父さんが言ったからね。でも今のは敵?」
「……敵になるかも」
「そうね。でも何もしてこなかったわよね?」
「何かして来てからじゃ遅い」
ディアンが背後から言っても、リディアはレオンの前で視線を離さなかった。
「魔獣も生きているわ。敵なのか敵じゃないのか。倒す必要があるのかないのか」
リディアは、レオンの両肩に手をおいて顔を覗き込んだまま続ける。
「そして、それを倒した時に負うべきリスク、命を奪うということの重み、それを常に考えて」
「……」
「もちろん、お父さんの“先制攻撃”に従っているのはわかる。けれど、考えることは忘れないで」
ディアンは、常に「考えるな」「考える前にやれ」とレオンを鍛えている。その矛盾をリディアは知っている、でもレオンにそれを教えることも大事だと思っている。
「でもね。私達を守ってくれたのよね。ありがとう、レオン」
リディアはそう締めくくって、強くレオンを抱きしめる。
「大好きよ」
リディアが付け加えると、困惑を浮かべた瞳が嬉しそうに輝き、そして頬が桃色に染まる。レオン――息子はリディアの首に手をまわして抱きつく。
「俺が。母さんもティアも守るから」
そこにディアンの名がないのは、わざとだろう。
「それから、弟か妹かわかんないけど、そいつも」
付け加えられたのは、リディアのまだわずかに膨らんだ腹の中の存在のこと。やはりディアンのことを付け加える気はないらしい。
その言葉に、リディアは嬉しそうにまたぎゅっとレオンを抱きしめる。
「お願いね」
レオンはリディアに似て、甘い。冷酷になれないところがある。それは育て方と気質にあるだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
リディアの子供だから。
そう思い見下ろしていると、ディアンを見上げる瞳に勝ち気な色を宿す。
「――父さんは、自分の身は自分で守れよ」
「お前に言われる筋合いはない。つーか千年早えよ」
「千年? 残念だね、あと五年で抜かすよ」
甘いが生意気だ。カチンときたディアンの耳元で、愛娘が笑う。
「じゃあパパはティアがまもるー」
抱きつく腕は暖かく愛しい。
「あとあかちゃんも」
ティアの頬がディアンの頬にすり寄せられる。
「ありがとな」
リディアが腹部を撫でてほんのり笑う。
「ティアも、レオンもありがとうね。それから、ディアンも」
「あかちゃん、おんなのこ?」
「どっちだと思う?」
三人目は、生まれるまで性別は訊かない。
家族で決めたことだった。それを言い当てっこするのはいつもの日課。
「おんなのこ!」「妹」
二人の子供がディアンを見つめる目に、ディアンは呟く。
「女」
リディアは愛しそうに腹を撫でて、囁きかける。
「どっちでもいいからね。あなたは、あなただよ」
「――俺も、どっちでもいい」
ディアンが付け足すと、リディアは笑って立ち上がる。その手をディアンは引き上げる。
――魔力が皆無な娘と、ディアンを凌ぐほどと言われる魔力を持つ息子。
対極なものを持つ子供たちはどういう将来を辿るのか。そしてこれから生まれる命はどういう人生を送るのか。
どんな子供でも、どんな人生を送ろうとも。
この家族を、全員を、守り抜く。
何度でも、人生の最後まで。
この瞬間、この胸を満たす感情を。
――命の終わりまで、けして忘れることはないだろうと思った。
***
ディアンは髪を掻き上げて、鏡を見つめ返す。殺気にみちた眼差し、いや血走り狂気じみた瞳。頬は年齢を重ね、尖ったというよりもむしろ頬がこけたのか。
悪魔だと魔王だといわれていた自分は、いつしか本当に人であることを捨てた。
――両頬を挟みこみ、穏やかな笑みを浮かべる翠の瞳。自分はその翠の色が、誰よりも好きだった。その手の柔らかさに、いつも安堵を覚えるようになっていた。
首に抱きつく温かな腕、子ども特有の柔らかさ。舌っ足らずな高い声で「だいしゅき」と言う声。
その存在に、この世には愛しい以上の気持ちがあるのだと、初めて教えられた。
――筋張った太い首筋に、ジャケットの襟を重ねジッパーをきつく締める。
目を閉じれば、何度も何度も蘇る感触。その声、その匂い、その言葉。
いつまでも消えない。消えるわけがない。
記憶から一つたりとも消すものか。
時折見せる二つの似た顔立ち、異なる翠の色の瞳を持つ、二人の重なる笑い声がまだ記憶の中で響く。
最愛の娘と、リディアと。
そして見ることが叶わなかった我が子。
――半年前のあの日には、失うなど思いもしなかった。
肩に黒いバッグを背負い、ドアを開けるとレオンがディアンを見上げていた。リディアに似た甘さを、今は捨て去った息子。
強く鋭い眼差しは、自分の分身を見ているようだった。
彼が差し出すまだ小さいながらも、固くなった手の平には、彩色されたアンティークのフィブラがあった。
リディアが昔生徒からもらい、大事にしていた古アレスティア王国の意匠。失われし魔法の黄金時代の産物だ。
ディアンは屈み、レオンの黒い魔法衣の合わせにそれをつける。
二人とも無言だった。
ディアンはその肩を叩いて促す。
二人で歩き出し、転移陣への扉をくぐる。
――取り戻すまでは、二度とここに戻ることはない。
長らく、お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました!!
これで、この連載は本当に最後になります。
この話は番外編なので、数あるラストの一つ。
あくまでもディアンルートのラストの話だと思ってください。
その先に続く展開(話)のために、書かせていただきました。
現在「天の城のティアナ」でこの続きを書いています。
よろしかったらそちらもお読みくださいませ!




