17.獣の記憶
そして、激しい音をたてアロガンスを拘束していた鎖が砕ける。
アロガンスがウィルに距離を詰め、飛びかかってきたのは一瞬にも満たない時間だった。
地獄と呼ばれるものがあるならば、この炎こそそこから生まれたのだろう。
全てが灼熱の炎、隙間はひとかけらもない。永遠に消えない業火。
その火に包まれて、どのぐらいたっただろうか、身体も骨も焼けつくされて、ただ意識だけが残されている様に感じる。
獣の大きさは測りしれない。巨大な炎を空間ごと焼き尽くすかのように、ただウィルに炎をまとう塊としてのしかかり、時間を増すごとに更に重みを増してくる。
もう意識が殆どない、このまま心も、何もかも消されてしまうのか。
自分は仰向けになっていた。
炎が口を開ける。とうとうウィルを飲み込もうとしているのか。
更に炎が増し、大きく開かれた口に、かろうじて腕と感じるものをかざして必死で押し止める。
だがヤツにとっては何の障害にもならず、ただただ獲物にしかなりえない。
“――お前の力などそんなものか”
「うる……せえよ」
“――その程度で、我を支配しようなど、片腹痛い!”
舌打ちして、ウィルは腕をぐっと上げた。目の前の塊を見上げる。ぐうっと自分の魔力を高めて、それを覆い尽くすかのように力を込める。
やり方などわからない。ただ、相手が小さくなれば、潰してやればと思う。
ぐっと――獣――アロガンスが揺らぐ。ほんの、わずかばかりだ。
「……なあ。――憎しみばかりで……辛くないか」
“――憎しみは我の力。怒り、腹立ち、苛立ち、憤怒、憤り、憎しみ、不満、鬱憤、殺意、――破壊衝動。それこそが我という性”
ウィルの身体は炎につつまれる、同時に流れ込んで来る映像。
彼の怒り怒り怒り。憤り、すべてを壊したい欲望。
“――我は破壊の獣なり。
己がひとつ身動ぎすれば大地が割れ、人が飲み込まれる。
一度目覚めれば、大陸中を燃やし続け、一つの文明さえ滅ぼしていた。
人々は恐れ、彼を封じ込める。
太陽の主がいた。
彼は、圧倒的な力で暴れまわるアロガンスを制した。そして、支配下に置いた。
――一人の少女がいた。
美しく長い黒髪が地面まで流れている。なぜか悲しそうに泣いていた。顔を覆っていた手が外れる。まだ幼き可憐な顔。卵型の輪郭、華奢な肩、その美しい瞳からはらはらと涙を流す。強烈な灼熱の光は、彼女が庇護するすべての生き物さえも飲み込んでしまう
彼女は闇の主だった、だがその闇はもう残り少ない。
そしてついに光が迫る。彼女は飲み込まれそうになる、己の運命を呆然と受け入れ、けれどまだ諦めたくないと言うように周囲を見渡す。
光は彼女を包み込む、己の中に閉じ込めて永遠に逃さない檻をつくる。溶けて一つになろうとする。
不意に彼女の肩に触れる手。大きな手は筋張り、長い爪が生えていた。顔色は悪く、両方の角は鋭く、彼女の知る世界にはない異形の姿。
だがその瞳は、哀れみを含む優しい眼差しだった。彼は、彼女の住まう闇のものたちを受け入れて救いを与えてくれた。
一人太陽に飲み込まれようとしていた彼女を押し留め、彼の世界に誘う。飲み込まれ一つになるのではなく、ただ共にあろうと言ってくれた。
太陽に呼ばれる彼女は、戸惑うように可憐な顔でその手を見下ろし、そして背後を振り返る。
強大な光が迫っている。
彼女は怯えたようにその光から後ずさる。消えてしまう、すべて。
それは諦めず、強大な力で、彼女を執拗に追いかけてくる。彼女は逃げようか踏みとどまろうか迷い、首をふる。
嫌だとも、逃げられないとでも諦める顔。
だが伸ばされた手は、彼女を見捨てなかった。闇も、光に追い出された哀れな生き物も庇護するその優しい暗黒。
彼女はその伸ばされた手を見下ろして、掴んだ。
その手に引かれながら、彼女は何度も光を振り返る。ためらい、何かをいいかけ、けれど見捨てられた哀れな生き物たちが住まう領界に足を踏み入れる。
ごめんなさい、とその可憐な唇がつぶやく。
そして、彼女は暗闇の中に佇む魔の王と共に光に向き合う。決意を秘めた顔で、その光に立ち向かう。大きな戦いだった。
光に制されたアロガンスと獣たちは、魔を帯びた獣たちも、闇で眠る弱き存在も屠る。
光に命じられて、光の種族とともに闇に住むものたちを貪り食う。
対峙する可憐な彼女の姿は、獣である自分にも何らかの感情を覚えたが、それだけだった。倒すだけ、だが少しだけそちら側が羨ましかった。
その手のもとに庇護される異形が羨ましかった。その瞳は優しく、だがアロガンスがそのもとに下ることはない。
――自分は破壊神、そしてすべてを焼き尽くす。
それを阻むものは、倒す。
なのに、悲しげに見つめるその美しい瞳に魅了される。
だが、彼女とそのとなりにある存在――魔の王は負けなかった。アロガンスもそれの強大な力に大きな痛手を追う。
やがて、強き光さえも、屠られるほどの衝撃を得る。
大きく力を削がれ世界に散らばり、残ったのはわずかな欠片。
獣たちは痛手を癒やすため、そして光が削がれたために、眠りにつく。
夢の中で可憐な娘が、そっとアロガンスの頭を撫でる。眠りなさいと癒やしを与える。
まどろみの中で、アロガンスは瞼を半開きにして、その後の行く末を見ていた。
――ああ、もし。もしも次の目覚めでは、その存在のもとにあれたら。その美しい慈愛の瞳に見下されたら。その手でまた優しく撫でられたら。
それを願い、長い眠りにつく。
夢の中では大地が長い戦いから少しずつ回復に向かおうとしていた。光の欠片が、大地に栄光をあたえ、光のもとにある命が芽生え始める。太陽の主の配下ではないものたちが、次々と命を繋ぎ始める。
――そして戦いを終えた彼女から、一つの娘が生まれる。
あどけない娘の顔は少しだけ、彼女に似ていた。
彼女はもう子どもではなかった。母親のような慈愛を浮かべて、その子どもの額にくちづけを落とす。
そして、共にいた存在の手を握りしめ、二人で顔を見合わせ、まだ幼き生命の人間たちの世界へと降りていった。
まだ幼く未熟な人を導くために、慈愛の光を与えるために。
アロガンスはまたまどろむ。あの優しい手、慈しみの眼差しを請いながら夢をみて、眠りが覚めるの待っていた。
――ウィルは、ハッと意識を取り戻す。アロガンスの記憶が流れ込んでいた、いや同調していたのか。これは過去にあったことなのか。彼の夢なのか。
その黒髪の少女の顔は初めてみた。
なのに、その少女の顔がリディアに重なる。
闇の主であった彼女は、太陽に追われ、魔王と結ばれる。創世記の神話とは若干違うが、これが真実なのか?
(リディアは――どうなる、何に巻き込まれる?)
まだアロガンスの意識の中だった。
光が強大になり、明滅する。まるで呼びかけのように四方に散らばる力を集めていく。アロガンスの鼓動も応える。散らばる獣があちこちで唸り声をあげる。
――今度こそ、世界を滅ぼそうぞ。世界をまた配下に治めようぞ。
太陽は得られなかった娘を、己の手に取り戻すために。
――獣は命じられる。あの娘を手に入れろと。そのために、世界を滅ぼせと。
――我の性は滅び。
その強烈な意思はウィルの小さな命など、簡単に消し飛ばす。
(――させるかよ!!)
不意に景色が流れ込んでくる。
ウィルの知らない美しい黒髪の憂いの美女が、キーファと何かを話している。
――ああ、と思った。かの美女は、闇の彼女が残した娘だ。
あれとキーファは契約をしたのか。固く意思を秘めた瞳で、キーファも世界に立ち向かおうとしていた。
(――負けてらんねー)
少なくとも、かの創世記の神の力を得たのだ。ここで苦戦している場合じゃない。
”――我の喜びは、世界の滅び”
歓喜の声をあげる獣を遮る。
「――ならもっと楽しいことを俺が見せてやる」
“――何?”
「怒りの感情を糧にするって? けどもっとやれることあんだろ? 俺が世界を変えてやるよ。ずっと地下にいたんだろ」
“――くだらぬ戯言を”
「光だか太陽だか、目覚めたらあんたもただの配下だ。思う存分暴れられる? ただの獣扱いだ。師団にやられるだけ」
“――我の力を甘く、見るな!”
「これから、俺はあんたのボスをボコる。そしてあんたの仲間のやつらもな。楽しいだろ、反逆ってのは」
“――”
「面白くね―と思えば俺を殺せばいい。俺はどんどん強くなる、お前の炎を打ち負かすくらいに。だから俺と契約したんだろ。俺を見つけたんだろ」
“――一つ、条件がある”
「あん?」
“――あの可憐な娘に合わせてくれ”
「あ? もういねーだろ」
“――蘇ったと聞いた。会わせてくれたらそれでいい”
ちょっと待てよ、とウィルは思った。これ、大事な話だろ。世界を制するとかそんなものだろ。なのに、娘に会わせろとか。
そういや、こいつ記憶の中でもやけに闇の彼女に執着してたな。まるでわんこのように。
アロガンスの記憶も感情も流れ込んでいたのだ、ウィルにも感じていたのだ。
こいつ、撫でられて喜んでいたな。
しかも、いっちばん最初に、契約したときもディアンに「娘とあわせろ」とか言ってたな。
それって、リディアのことだろ。
神は雌雄がないって言ってなかったか? でもこいつ、どちらかといえば雄だ。
(なんつーホイホイ)
獣まで呼び寄せるとか、どういうアレだよ。
「こういうのって、本人の了承がなきゃ受けらんねーの」
”……じゃあ、聞いてみてくれ”
「聞くだけ、な」
(言う気ねーけどな)
リディアなら簡単にいいよ、っていいそうだ。
ならいっそう言うもんか。
こんなくだらない話をしていたせいか、炎はもう気にならなくなっていた。アロガンスの炎とウィルの炎は一体化していた。
気を取り直して、深呼吸する。吸気さえも、やすやすと胸に流れ込んでくる。
抗う必要なんてない。すべて自分のものだ。どちらか一方じゃない、自分と戦っていただけだ。
「なあ、名前を考えてやった」
“――なんだと”
やつの声に喜色が混じる。やっぱ名前がほしかったのか。
――なら。
「おまえ、弱い人間を喰らって強くなった気でいるなよ。そんなの弱っちいやつがすることだろ。どうせなら敵わないヤツに――逆らってみろ!!」
“――言ってくれるが人間風情がっっ”
「なら、逆らってみろ!!」
“――しゃらくさい!! 我の力、見せてやろうぞ!! どんなものにも我は屈せず、我は最強で災厄の破壊の獣なり!!”
「ならば――神さえも倒すと誓え!! 抗え!! お前の主は俺だ、俺の主はお前だ。俺の魔力を与えてやる。神を倒して最強を示してみせろ」
獣が咆哮を上げる、それはウィルに対しての応えだった。
ウィルは叫ぶ。
「アロガンスよ―― 反逆者となれ!! お前に名を与えてやる―― Elleber Dieu エレベデュウと!!」
獣が全貌を現す、雄叫びを上げる。それは歓喜の咆哮だった。
“――力は満ちた。我は解放された。我は自由なり――!! ソナタの目的のため、我は力を奮うなり!!”
ウィルの中に力が満ちる。炎の中で生まれ、また炎に返る。炎は己の血、己の血脈。
アロガンスの姿が溶けていく。だが全てはウィルの意のまま。
――ウィルが奮然と立ち上がると、炎はウィルの中にアロガンスと共に凝縮され、吸い込まれ、飲み込まれ、そして忽然と静寂が満ちる。
突如、ウィルは反射的に身をかがめて、胸を丸めて咳き込んだ。
とてつもない疲労感。吐き気さえ催すほどの圧倒的な力、だが自分の中にそれはあった。
――全てが消えて残ったのは、ウィルとディアンのみ。先程までの業火が嘘のように、今は冴え冴えとした寒さが、身体に染み込んでくる。
ウィルは冷えきったまま身体を濡らした汗をシャツで拭う。
そして身体を丸めたままディアンを見上げる。
ディアンは迷惑とも言える表情を隠そうともしていない。だが、その身体をつつむ衣装も汗に濡れていた。
(――ヤツだって、苦しくなかったわけじゃない)
あの炎の中で耐えていたのだ。ウィルの炎は自分のもの。だがディアンには保護するものなど、なかったはず。
「――今日は仕舞か?」
これだけのことをして、無反応、なんの言葉もなしかよ。が、期待なんてしてねーつーの。
「――待てよ」
ウィルは立ち上がり、去ろうとするディアンを呼び止めた。
「訓練、つけてくれんだろ?」
「――」
「いつものように、容赦なしでいいぜ」
ディアンが目を細めてウィルの方を振り向く。
すっげえしゃくに触るし、ありがたいとも死んでも思わない。でも訓練をつけてもらうことは、どうしても必要だ。
毎回、徹底的に打ちのめされる。
「これまで、手加減なしだったのかと思うのか」
「じゃ。もうされねーよにする」
(いつか――それで、リディアももらう)
そう言いかけてやめた。自嘲したくなる。
まだ、相手にもされてない。こいつにも、リディアにも。
アロガンスとの本契約は済んだ。だが、まだ足りない。
ウィルの目を見て、ディアンは向き直る。
「それは、お前次第だ」
ウィル呼吸を整えて、意識を全て切り替える。そして構えた。本当に乗り越えるべきはこの相手だと。




