72.呪詛の相手
「……」
ウィルは、ただ二人を見ていた。
リディアの叫び声は、強烈だった。
魔法陣強化の請願詞を唱えようとしたその瞬間、背後からの突然の絶叫に、ウィルは振り返る。そして絶叫するリディアの元に走り寄ろうとした。
何もわからない。ただリディアが壊れる、そうとしか思えなかった。
だが、リディアを抱きしめる奴と目が合った瞬間、ウィルは足が動かなくなったのだ。
「やろう」そうバーナビーに言われて、ウィルはようやく足を動かし、そして魔法陣に戻った。
そして今、リディアの絶叫は終わっていた。
寝ているのか、それとも気絶しているのかわからない。ただ奴の中でリディアは大人しく抱かれている。
リディアを抱きしめているディアン。それは押さえ込んでいる、ともいえるが、だったらどうしてそんなに――強く、抱いているのか。
わずかに見せたディアンの顔は――痛ましげに苦く歪み、そして眼差しにはいたわりの思いがあふれていた。汗でぬれた前髪をかき分ける指はそっとで、その髪に唇を寄せても自然に見えた。
(そんな顔――)
まるわかりじゃないか。
奴が、あの人が、リディアをどう思っているか、なんて。
「――それで、どうすればいいの」
バーナビーがウィルの後ろから、リディアを抱きしめているディアンに声をかける。
もうとっくに魔法陣の補強は終わっていた。リディアから教えられた文言をウィルが唱えた途端に、軽く何かが抜けて行く感じがして、魔法陣は赤く強く光り、それで終了。
直前に鋏を振り上げた蠍だが、バーナビーが念動力で止めて、新しく出来た魔法陣の中では騒ぐばかりで何もできない。
「――そうだな」
ディアンはリディアに腕を回したまま、何も動じていない様子で顔を上げる。
腕の中に女がいるとか、そういうのを一切気にしていない、まるでいつもしているかのような自然なな動作だ。それにウィルは苛立ちが募り、歯を食いしばり、掌を握った。
「リディア、聞こえているか?」
ディアンの呼びかけに魔法師団の白い制服の背を掴んでいたリディアが身じろぎする。
その頭が微かに動く。何かを呟いたのか、ディアンが口を開く。
「俺は、こないだの実習の件でここの学部長に魔法師団の総意を伝えに来た。その帰りに、お前の魔力を辿っていたら、キーファに出くわした。あのホワイトというやつから隠しているモンを出させらしい」
それは、折りたたまれた紙片のようだった。ウィルには何か、わからなかった。
「ずっと捉えていたお前の魔力がいきなり消えた。なんらかの空間に閉じ込められたのだろうとわかった」
リディアがようやく声を発し身じろぎして、顔をあげる。ディアンの胸に手を置いて、離れようとしているが、出来た距離は拳ひとつ分ぐらいじゃないのか。
「――先輩、そこにいるの?」
「ああ」
ディアンに対するリディアの声はかすれていて、力ない。あれだけ絶叫したのだ、無理はない。だがそれよりも、リディアの台詞だ。
「リディ、リディア、まさか?」
「ウィルも、バーナビーもそこにいる? 無事なのね」
「……見えて、ないのか?」
リディアの目は開いてはいたけど、視線が定まらない。思わず足を踏み出し拳を掲げたウィルの手を掴んだのはバーナビーだった。
ディアンを殴ろうとしたウィルを止めたバーナビーは首を振る。
「じきに、元に戻る」
「っ、なんだよ、それ!! アンタはっ――」
そしてなんでもないことのように元凶が言うからウィルはかっとなり、声を荒げる。
「ウィル。心配してくれてありがとう、ねえ、ここに来て」
なのに、リディアがそういうから。
奴は、一瞥しただけだった。
そばによって手を握る。小さな女の子の手だ。大きな魔法を操るわりに、自分のに比べてあまりにも小さい。
大人しくしたのはリディアのためだからな、そう心中に奴をにらみつける。
「私は呪いをなんとかする」
「は? ちょい待ってよ」
声に出して反対したのは、ウィルだけだった。バーナビーは静観しているし、ディアンも黙ったまま。
「先輩、ホワイトさんが隠したのって呪詛板?」
「――ああ。ただし、半分だ」
リディアの目は、いつもと同じ翠玉。闇の中でも綺麗に光る、なのに焦点があってないからか、頼りない怪しさがある。守りたくなるようなか弱さというか。
リディアが唇を指で撫でている。誰かに見られているという意識がないのかも知れない、ひどく――かわいらしい。
(おれ、ばかみてー)
さっきから、リディアのことしか考えられない。
リディアが唇に指を当てたまま考えて、その小さな口を開く。
「呪詛をかけた持ち主が持ち去ったか、誰かがいたずらで持ち去ったか」
「ホワイトは業者から渡されたのはこれだけだったと言っていたな」
「なぜ、ホワイトさんは隠したの?」
「適当に机に置いて、なくしたらしいな。隣の席の女がシュレッダー用の箱から探してきた」
リディアの唇は、ありがち、と呟いた。
「ホワイトは犯人じゃねーって?」
「そうね。呪詛をかけた犯人じゃない、と思う」
リディアがウィルのいる方向に向けて笑みを向ける。その無邪気な様子に、ウィルは急に心臓が跳ねた。
なんで、そんな風に笑うんだよ。見えてないほうが素直ってどういうことだよ。
「ひとつ聞く。あいつを倒したらどうする? 呪いが呪いをかけた本人の元に行くのか?」
問われて身じろぎしたリディアだが、ディアンの腕の中でずるずると沈み込みそうになる。すると、彼が脇を支える。
(いつまでくっついているんだよ!)
ウィルが睨んでいても、ディアンはこちらを見ないし、優越感をちらつかせもしない。
ただ、リディアしか見ていない。
「ディアン先輩、呪詛版はありますか?」
さっきよりリディアの口は話せるようになってきている。死にそうだった顔色も、気だるげだが、生気を感じさせる。
「羊皮紙?……じゃない。模造品となると」
「つい最近の紙だな。経年劣化はあるが、ここ数年だろう」
「文字のインクは?」
「赤。血じゃないな、赤いインクだ。掠れは自然のものだ、時間経過によるものではなく、天然の羽ペンか何かだろう。リュミナス古語だな、逆さに呪詛が書き連ねてある。だが後半はない」
ディアンの説明にリディアが、思案する。
「読めますか?」
「――我は呪縛する、我は深く埋める、我は消滅させる。マチルダ・エルガーの腹より生まれし娘、ベニーは毒の矛に突かれ、皮膚がただれ、毒の血を吐き、血の海に沈み、身を震わせて、身が腐り、魂は永遠の地獄の鎖に縛られる。この呪いを偉大なるお方、百の悪魔を統べる――ここで終わりだ」
読み進まれるうちにリディアの顔色が悪くなり、驚愕の眼差しで息も止めていたかのようだった。ようやくディアンの腕の中で身体を起こして、その紙片を奪うようにして、顔を近づける。
「本当に、マチルダ・エルガーって? 娘ベニーって」
「ああ」
「え、なあ? なんかその名前」
聞いたことあるような、とウィルが顔を引きつらせていると、バーナビーが「教授だね」とあっさり告げた。
「ベニー・エルガー教授。母親の名前は知らないけど、同姓同名の人物がこの敷地内にいるとは思えないし」
「何で母親?」
「詳しく講義している余裕はないけど、呪詛にはたいてい呪う対象の母親の名を書くの。それが、所在になるからかしら。昔は住所なんてなかったから」
「こええええ。なんかマジ、怖い文章だったけど。そこまで呪ってるって!」
「呪詛板が流行った数百年前は、呪詛を行う代行の専門家がいたの。彼らは依頼を受けてお決まりの文言を刻んでいたから、この呪詛も呪う本人が考えるわけじゃない――と思う、けど」
「模倣だな」
「ええ、たぶん。過去の資料からまねして作り上げたもの」
「誰がそこまで恨んで…・・・?」
リディアも首を傾げる。
「思い当たるのは……私? 私が無意識にやったとか?」
一瞬ウィルもそう思った。教授と准教授からけっこうひどい扱いをされてるのは見た。
「リディアはしていないよ」
バーナビーが、リディアの傍らに座ってその頭に触れる。
「そういうこと、言ってはだめだ。言霊になる。リディアは本当は優しいのだから」
リディアは顔を赤らめて、うつむいて「ありがとう」、と呟いた。
なんだよ、なんだよ! 褒められると弱るってどういう性質だよ!
「――それで! お前が解くのか?」
若干ディアンの声が鋭かったように聞こえたのは、ウィルの聞き間違いではないだろう。
「一度かけた呪いの解き方はわかりません。けれど呪いをかけた当人は生きている。この呪いを返せば教授は助かり、呪いをかけた本人に災いがもたらされる。ただ――」
リディアは続ける。
「呪詛板が半分になったことで、実行者としての蠍が迷うことになっている」
リディアは、地面に図を書く。犯人から教授へ向けた矢印は、反対向きになる。
「本来であれば、呪い返しはベクトルを反対にすればいいだけなのに、今の呪いはループになっている」
今度はメビウスの輪を描いた。目が見えてないからか、メビウスの輪はつながってなかったけど。さりげなくバーナビーがその輪をつなげていた。
「そもそもなぜ呪詛が発動しなかったのか……。何かが足りなくて発現しなかったのか、埋めておいただけで実行する気はなかったのか」
リディアは、首をかしげてため息をつく。
「たぶん、犯人は初心者というか素人だと思う。呪詛板が割れたのは、工事が入ると聞いて、慌てて隠しておいた呪詛板を取りに来て、破いてなかったことにしようとしたから」
「それで呪いの蠍が発現したのか」
「そして迷っている。だからこんな地下で、穴をあけているのね。獲物を求めて」
リディアは顔を上げた。今度はぐいっと身を乗り出して、すごく近いんだけど。
「ウィルは、あの蠍を倒して。私はその隙に、この呪いをなんとかする」
「だってあんなに魔力なくて調子悪かったのに!」
リディアは口角を上げて笑う。
どこか気弱そうにみえたのは、ウィルの気のせいじゃない。
「呪いを解くのには、魔力は要らないから」
そして、ディアンのいるほうに顔を向けた。
「ディアン先輩――お願いが、あります」
ディアンがリディアを見下ろしている。無表情だが、わずかにわかる。困惑だ。けれどリディアの言葉は特別なんだろう、今はすっげーよくわかる。
「ウィルを、ウィル・ダーリングを導いてください。お願いします、私じゃ、できない」
「はあ?」
ウィルの声のほうがディアンより早かった。ただ洞窟内に響いた声の大きさに、ウィルは口を閉ざす。
「――御免だ」
そして、奴の返事は予想通り。
「ウィル、こっち」
リディアが差し出す手を思わず握り、膝を地面につく。
「ごめん、ごめんね。こんな機会もうない。私じゃ能力が足りない、だから……ディアン先輩に頼むことにしたの。勝手にごめんね」
「ちょい、ちょい待てよ!」
な、なんか、目が潤んでないか。おかしいよ、おかしい。
「なあ、落ち着いて」
「ウィル。あの蠍を、倒して。先輩が、あなたを導いてくれる」
そして、リディアはディアンを見上げた、腕の中から焦点の合わない目で、潤んだ目で、ディアンの居場所を見当をつけて見つめる。
「ディアン・マクウェル団長。彼の能力は、中途半端に扉が開いたままなんです。私じゃそれを開ききることも、閉じることも出来ません。もう――持たないと思う。お願いします」
ディアンは唇を固く閉じたままだった。何かを言いたげな顔で、リディアを見下ろし、ウィルのほうなんて見やしない。
「お前はどうしたい? ウィル・ダーリング」
そして淡々と問う声。ウィルはしばらく声を閉ざしたままだった。
(俺は、リディアに、頼ませたままで……)
リディアに教わりたい、そう思うのは――わがままなのだろう。ただ一緒にいたいだけ、ただ構って欲しいだけ、自分の能力の開花なんて二の次だった。けれど、女に、リディアにそれを頼ませて、俺は――。
「自分で、したい」
ディアンの片眉がわずかに上がる。
「だけど、どうしていいかわからない。だから――頼む。お願いします」
ウィルは、立ち上がりディアンに向かい頭を下げた。




