70.兄
――皆が浮かれ騒いでいる雰囲気は好きだけど、お酒を飲まないリディアは入り込めない。
喧騒を眺めながら一度建物に戻り化粧室を使用したところで、腕を掴まれた。
反射的に腕を払い、警戒と共に距離を取る。
「――わ、なんだよ?」
鋭く眼差しを向けたら、驚いた顔。
見たことのある顔だった。
そうだ、先程ウィルに声をかけられる前にすれ違った男性――。
どこかで見た――。
「久しぶりだな! ――なあ」
リディアは記憶をたどり、目を見開く。
「……アンダーソン? 」
「そうそう、ジェイでいいって! マジ何年ぶり? お前変わったなー」
「ええと……そう?」
彼は、ビール瓶を手にして、気さくにリディアに肩を回してくる。少し酒臭い、随分飲んでいるみたい。
ジェイ・アンダーソン。三十代の上級魔法師、新人指導のチームリーダーによくなっていたけれど、それ以上の昇級はなかった。
(確か、ディアン先輩の同期だったよね)
チームを組んだときには、リディアにたまにお菓子をくれた。そしてリディアのお菓子をゴミ箱に捨てた人だ。
まさか、こんなところで会うなんて。
思い出したら会うなんて、なんの偶然だろうか。
「お前、どうしてたんだよ?」
「ええと」
むかしは痩せていたけど、少し肉がついたかな。
彼はディアンと一緒にいるところをみたことがない。
リディアもディアンやディックのチームに入れられることが多く、深い付き合いをしたことはない。
だから、疑問だ。――この肩に回された手は何?
「たしか、ずっと見なかったよな?」
「その――」
リディアが辞めた顛末も、そもそもこの集まりの主役がリディアであることも知らない。
「いやあ、女ってわかんねーな。美人になったじゃん。俺、すげえ好みなんだけど」
すげえ、で声を潜めて口を近づける。
「――なあ、俺の部屋来ない?」
「……悪いけど」
リディアは、その手から身体をずらす。
「私、そろそろ行かなきゃ」
「な? 少しだけ。なんもしねーから」
何もしない、そう言う口が不自然に歪んでいる。
仲がよかったわけじゃない、それでも何回か一緒に働いた同僚だ。
なぜ、そんなことをいわれなきゃいけないのだ。
彼は――リディアの名前を呼んでいない、覚えていないのだ。そういう相手でも誘う。
(また、だ)
「なあ」
「――リディア」
リディアの名を呼び、場にスッと入ってきたのは、キーファだった。
眼鏡の下の眼光鋭く、ジェイに有無を言わせない態度で、リディアの腕を取る。
「行きましょう、皆が待っています」
「はあ? お前何?」
「彼女の付き添いです。それでは失礼します」
「ちょ――」
リディアも頭をさげて、強引に背を向ける。背後で大きな舌打ちが響く。リディアはその音を聞いて、僅かに顔がこわばる。
キーファがかばうように背に手を当てて、歩くように促す。
しばらく歩いてから、リディアは口をひらいた。
「――ありがとう」
「暗いし、気になって」
「追いかけて来てよかったです」とキーファはつぶやく。魔法師団の中だから大丈夫、そう言えない現場を見られてしまったリディアは、キーファに背に回された腕をそのままにした。
その手に、温もりと確かな感触に、支えられているような気になる。
「平気ですか? もし今後も構ってくるようなら話をしておきますが」
リディアは、キーファを驚いて見上げる。
彼の暗がりに沈んだ青い瞳は、深い湖みたいで、真剣な眼差しだった。
「昔の知り合いだけど、私のことは覚えてないみたいだから」
そんなものだろう、リディアはつい本音を漏らす。大して覚えていない相手に、あの誘いはなんなのだ。
「あんな失礼なやつのことは、気にしないでください」
リディアは前を向いたまま、頷いた。
あの気軽な誘いは、男性にとっては割合普通だと思う。魔法師団では――当たり前だ。
キーファはすごい。
男性なのに、それをおかしいと、失礼だと言えてしまうのだ。
キーファの憤りを感じさせる声に、リディアは口を開く。
「昔、お菓子をあげたことがあるの。私が作ったものを」
キーファが顔をあげる。その顔が驚いているようで、慌てて付け足す。
これじゃあ、特別なプレゼントをあげた相手だと言っているみたい。
「よく食べ物を貰っていたから、その御礼に。――でも迷惑だったのかもしれない、捨てられていた」
キーファが眉を潜めて口を開きかける。
リディアは苦笑を浮かべようとして失敗する、顔が笑えていない。
「何かをした時に相手の反応を期待するのは図々しいとは思うけど。たぶん、間違えたことをした自分が恥ずかしかったの。気づかなかったこと、それが情けなくて」
ショックではない、そう思っていた。
でも覚えていたのは、やっぱり気にしていたから?
リディアは首を無意識に振る。
傷ついていたら何もできない。でも、気づかないといけない。
そうだ、相手に対しての恨みではない、迷惑と思われていたことをしてしまった自分への自嘲。
でもそんなことを気にしていても、相手は自分を覚えていない。
人との付き合いは難しい。
「あなたにあげたもの、迷惑じゃなかった? ごめんなさい」
「――どうして謝るんですか?」
キーファの声は苦いものを噛んだみたいだった。
横を歩く彼、背が高くリディアは見上げる形になる。
「私は自分勝手にやりすぎてしまうから、時々振り返らなきゃいけないって」
不安になったのだ。自分の行動はみんなの迷惑じゃないかと。
「あの人がどうだったかはわかりませんが。俺は嬉しかったです。――とても」
リディアはふと泣きたくなるような思いがこみ上げて、堪えるように俯いた。
自分はなんなのかと。結局、他人にとって自分はそういう相手でしかないのか、と。
僅かによぎった嫌な記憶が、思いが、溶けていく。
だめだ。自分のために開いてくれた会で、こんな思いを持つなんて。
みんなの思いが嬉しくて、だから浸るのが怖くて、自分を戒めるように変な思いがよぎってしまうのだ。
たかが、あんな些細な誘いのせいで。
(ううん。――お酒のせいかも)
「――あのね、虫のことだけど」
ごまかすようにリディアは口を開いていた。
「昔、落とし穴に落ちて。その中に虫の死骸がね、たくさんあって」
足を止めて振り返るキーファの瞳が真剣味を帯びる。
深刻そうな表情に、笑い話にできない話だったと焦る。
「あ、ええと何でもない」
「話してください」
慌てて、首を振る。
「まだ背が小さかったから、自分で抜けられなくて。見つけられたのは半日後。そのトラウマだと思う。ただの――死骸なのにね」
キーファの手が伸びる、リディアの頬に触れる手。彼の手の温かさに目を瞬く。
「ただの、じゃないですよね。何があったんですか?」
驚いた、目を見開いていると指が頬を撫でる。
「怖かったのでしょう? 今も」
キーファの指が離れて、目を覗き込んでくる。
その青い瞳の優しさに、息を呑む。彼の手が離れた頬に触れてみると、濡れていた。その手をキーファの手が押さえるように包み込む。
「その虫はね――死霊術がかけられていたの」
キーファの瞳が驚きで見開かれる。
リディアはそれが見たくなくて、俯く。
「記憶はないの、子供の頃だから」
リディアが目を閉じると、兄の顔がちらつく。それを打ち消すようにリディアは顔を振る。
リディアは、五歳だった。彼はあの頃、覚えたての死霊術をリディアで試したのだ。虫の死骸にかけた術がどのくらい持続するのか、彼はただその興味だけでリディアを庭に呼び出し、虫の死骸で満たした穴に落として、閉じ込めた。
誰がどう説明をしたのかは不明だが、召使いがゴミを埋めるために掘った穴に、リディアが不注意で落ちたことにされた。父はその報告に「穴に落ちるとは相変わらず鈍重な娘」だと不快感を漏らし、母は「女の子なのに、なんてお行儀が悪いの」と嘆いた。
「そんなの――誰が」
リディアは首を振る。誰がなんて。――兄のことを伝える気はない。
キーファのこわばっている顔に、リディアはなんでもないと笑う。でも笑えていたのか自信がない。
「その時の記憶はすっぽり抜けているの。ただ、大量の虫を見ると、体が動かなくなって――ちょっと混乱しちゃうの」
わざと軽く言う。
幸いにも、リディアにはその記憶がすっぽり抜けている。
よほどの恐怖だったのか、子供の記憶というのはそういうものか、その時のことは記憶になく、覚えているのは底に突き落とす前の兄の顔と、助けられた後の両親の嘆きの顔。
「魔法師としては致命的よね。魔獣のうち、虫系は三十パーセントを占めるのに」
「大抵の人は大量の虫を生理的にうけつけません。ましてやそんな経験をしたら、当然です。自分をそんなふうに責めないでください」
キーファの厳しい口調に、リディアは頷いた。
――リディアの恐怖は、兄と結びついている。
兄は別に死霊術にハマっていたわけではない。ただ手に入れた禁書を試しただけ。あの頃、リディアは兄の禁術の実験台にしばしされていたのが日常。だが家族は兄がそんなものを試していたことは欠片さえも知らない。
リディアはでもね、と続ける。
「魔法師団に入ったときにね、あまりにも虫を怖がるから事情聴取されて、幼かったから全部話しちゃったの。それからは、時々――免除してもらって」
あの時、幹部の人たちがざわついていた。流石にひどいと思ったのか、絶句して、以降虫系魔獣の任務は、考慮されるようになった。
それまで虫を怖がるリディアに「お嬢さん育ちはこれだから」と揶揄されていたのが、一変した。
そんな甘いことでいいのかと、一部では言われていたことも知っている。免除されていたのに、わざと虫系が大量発生していた現場に取り残されたこともある。
でも、ディアンが激怒した。
キーファのリディアを握る手に力が込められる。その目がリディアを真剣に捉える。
「――リディア!!」
背後からかかる大声は、ディックのもの。リディアは悪いことをしているのを見られたかのように、肩を揺らして、慌てて離れる。キーファの手が外れて、落ちる。
「あ、の」
うろたえるリディアに、キーファがうなずき返す。
「行ってください」
「あ、ありがとう」
慌ててそちらを向かおうとするリディアの背に声がかかる。
「――リディア」
彼がリディアの名を呼んだ。聞き間違いかと振り返ると、彼は真っ直ぐに見つめていた。
「話してくれて、ありがとうございます」
「ううん。変なこと話してしまってごめんなさい」
キーファは、少し黙って、強い決意を宿してリディアを見つめる。
「もっと話してください」
「コリンズ?」
「抱え込まないでください。俺は、もっとあなたのことを知りたい。あなたと話すたびに思います。その時にそこにいたら、俺が守れたらと」
瞳にはやりきれないような切なさがあった。
「きっとこれからも、そう思うのなら。俺は――何度でも勝手にあなたを守ります」




