55.リディアの中
突如、ウィルを更なる異常な感覚が襲う。
「うっ」
――ザザザザアアアアアアア
「っわああああ」
ウィルは叫んだ。
おぞましい、不快な感触。全身の肌を虫が、這い上がる。
あらゆる場所を登りつめ、頭が狂いそうだ。
気が狂いそうなほどの怖気、ウィルは身を縮め、上げかけた声めがけて寄ってくる虫にさらに発狂しそうになる。
慌てて手で鼻も口も押さえて、息を殺す。
―――ザザザザザアアザ。
肌をカサカサカサカサと何かが這いずり回る。
吐気、おぞけ、悪寒が走る。手足をばたつかせてもがいて、みっともなくてもいい、這ってでも逃げたい。
いやだいやだいやだいやだ。
(ひっ……!)
息ができない、心臓の動きも自分のものじゃないようだ。どうやって息をすればいいのか、わからなくなる。
心臓の音も聞こえない。
虫が入ってくる、身体の中に入って、侵入して、臓器を喰らおうとしている。
逃げたい、いやだ、逃げたい。
――たすけてたすけてたすけてたすけて。
「落ち着け」
ウィルの顔の横で、ディアンが指を鳴らした。
何もされていないのに、鋭くパチリと静電気のような痛みを伴う音に、ハッと意識が戻される。
「あ――」
「お前の恐怖じゃない」
「あ……おれの?」
ウィルは自分の声が掠れて、出ないのを意識する。
感覚がおかしい。まだ自分のモノじゃない誰かの動悸が激しい。恐怖が残っている。
身体を見下ろすと、虫などどこにもいない、それを確認してようやく息ができる。
虫が肌を這うおぞましい感覚は残っているが、どこかなにか膜を挟んでいるようで、直接のおぞましさはない。
ちらりとディアンを見返すと、いっそう怜悧な眼差しがウィルを貫く。睥睨するように彼が指し示す先を見てウィルは肝を冷やした。
もうひとりの己が構える火矢の炎が消えかけている。
慌てて集中する、が、またもや腹の底から這い上がる恐怖心が、集中をうばう。
手足が不随意に震える。
虫が這い上がってくる感覚が残る。いやだいやだいやだ。
皮膚の上を何かが這い回る。おぞましい、耳の穴、鼻、口、目、尻の穴、あらゆる穴から入り込もうとしている。侵される、犯される。助けてくれ。
(なんなんだよ、これ)
ふとウィルは、小さな泣き声を聞いた。いや、泣いてはいない。
ただ漏れる吐息が泣いているように聞こえるのだ。
(……誰だ?)
声を潜めて、嗚咽をこらえているのは、女の子だ。
(……リディア?)
不思議なことに、ウィルにはそれがリディアの声に聞こえた。
そうだ、リディアは、リディアはどこに行ったのだ。
意識して探すと、小さくて弱い光が見えた。
怖がって、けれど必死で息を殺して耐えている、小さな女の子がいた――リディアだ。
これは――リディアの恐怖なのか。
(ああ、これか)
ディアンが、全感覚を回せと言ったのは、このことなのだ。
ディアンは、ウィルの魔力派のスキャンをしろと彼女に言っていた。リディアはウィルの魔力派だけを伝えられないとディアンに訴えていた。
その結果がこれだ。
(……つまり。リディアの感覚が、全部来ちゃっている)
どういう機序かは不明だが、ウィルの魔力をスキャンして、それも含めてリディア自身の感覚すべてをディアンに伝えているのだ。
が、スキャンされている影響からか、そのリディアの感覚は、自分にも伝わってきているようだ。
ザワザワザワザワザワという不快な感触は、リディアの肌を這う虫。
そして今にも発狂しそうなほどの恐怖。
微妙な拘束感と触手の肌をなでる、ゾクゾクと背筋をよじらせてしまいそうな感覚もある。
息をこらえるリディアが、時々引きつけのように不規則に息をあげる。同時に嗚咽のような声も混じる。
切ない声、でもそれを上回るほどの恐怖とおぞましさ。
(――リディア!!)
しゃくりあげる声。発狂の一歩手前で踏みとどまっている意識。
このままじゃ、リディアが壊れる。
小さな女の子は息を殺して、自分も殺して、意識を最小限に閉ざして心の奥底に避難している。
でもそれは脆いバリアーだ。今にも、この子は壊れてしまう。
(ちっくしょう、リディア!!)
ウィルはただそれを感じるしかない。
(これって、……アイツも、感じてるんだよな)
顔色ひとつ変えない鉄面皮の男――ディアン。
リディアの拘束も微妙な愛撫の感覚も、嗚咽も、息遣いも聞いていて。恐怖も感じていて。
全部、無視だ。
自分には真似できない。したくもない。
そう思うウィルの脳裏に、何かが映る。
(ひと? 人間?)
よくわからないが、金髪の美しい少年が時折ウィルの意識にちらつく。
見たこともない顔だが、なんだろうか。
端正な顔は、一度見たら二度と忘れられない美しさ。全てのパーツが完璧で、神の化身ともいえるまばゆさ。
ただ、瞳の色と形がリディアにも似ている――、リディアの家族だろうか。
そう思えた瞬間。その顔が笑みを浮かべる。
それは――どこか酷薄さを感じさせるものだった。
「……ひっ!」
リディアが叫んだ。いや、悲鳴そのものを押し殺したひきつけ。
そして意識が絶望に変わる。意識が、視界が真っ暗になり、息ができなくなる。
(――っ、苦しい。息が)
天上の神をそのまま体現したようなその顔が笑みを作る。
壮絶な微笑だ、だが美しい顔なのに、口元がいびつに歪んでみえる。
「いや……っ、いやっ、やあああっ――!!」
まるでリディアの恐怖に引き寄せられるかのように虫が這い寄る感触に、ウィルも怖気をこらえるのが精一杯だった。
「――リディア!」
ディアンが低くも鋭く名を呼び、音を発する。
「――ᛍᚮᚿᚿᛂᛍᛐ ᛐᚮ ᛆᚿᚮᛐᚼᛂᚱ ᛒᚮᛑᛦ(つなげ)」
ディアンが右手を宙に伸ばす、そして何かをねじり潰すかのように拳が握られる。
その前腕の筋肉は盛り上がり、彼の血管が青く浮かび上がるほど、力が込められている。
(……っつうう)
突如ウィルは、ディアンの存在に押しつぶされそうな重圧を感じ、地面に膝をつく。
まるで巨人に頭から押さえつけられているようだ。
縦からも横からも分厚い石壁が迫り、潰されそう。
弓を引く自分の火矢が、暴風の中で消えそうになる。ウィルはそちらに意識を向けて、ただ炎を維持することに力を注ぐ。
ディアンの姿が揺らぐ。
恐ろしいほどの魔力が彼を取り巻き、ウィルは目を反らすしかない。
――直視できない。
ディアンを取り巻く全身の魔力が密集する。ウィルは自分も魔力を高めてそれに備える。
「――ソイツから……離れろ!」
ディアンが低く唱え、いきなり魔力が放たれる。ウィルは地面に爪をたてて、頭を低くたもち、周囲に放たれた魔力をやり過ごす。
それでもかなりの魔力が持っていかれた。
凄まじい装撃破が、ネットワーク内を超過し、余波で震えている。
他の魔法師の魔力も一切存在していない。ディアンに持っていかれたのか、それとも怯えて逃げ出したのかはわからない。
それは遠くリディアに響いたようで、その衝撃波を受けてリディアを取り巻く虫が一斉に吹き飛ばされるのを感じた。
ウィルにもリディアの肌から虫がいなくなり、ただ触手に拘束されている感覚だけが残る。
凄まじい魔力にさらされて震える足で立ち上がると、自分の皮膚がビリビリと麻痺しているような感触が残る。
「いってえ。な、っなんなんだ」
「集中しろ」
ディアンにウィルは睨み返す。
「触手は、はずれねーのかよ」
「――意識をもたない奴に効かない」
気がつけば、リディアの恐怖が薄らいでいた。
震えている存在は小さくしゃくりをあげて、怖がっているのに、先程より落ち着いている。
それに添えられている魔力は――。
まだ子供のように怯えるリディアをなだめるように、ディアンが柔らかく魔力で包んでいる。
その魔力は力強く、けれど先程の暴力的なモノとは違い、明らかに守るために力を抑えたものだった。
ウィルの胸に、鋭い痛みが走る。
「――で。お前は何をするんだ?」
冷ややかな声にウィルは意識を戻す。
そうだ、俺は――。
複雑な感情を堪えて、ウィルは己の姿を見据えた。




