約束
……ガタァンッ!!
盲目である彼女の視界は、朝でも夜でも、夏でも冬でも、どんな時であっても等しく暗闇で。
だからそのときも一体なにが起きたのか、すぐには把握できなかった。
動き出してからずっと、ほぼ一定のリズムで揺れていた馬車。
同じ空間にいる見張りらしき男性も、どうやら彼女と同じ境遇らしいふたりの少女も、それまではずっと一言も発することはなく。
そして彼女自身も、この先待っているであろう運命に思いを巡らせていて。
くじけそうになる心を誤魔化すために、何度も髪留めに手を伸ばして。
……それは、その矢先のことだった。
ガタンッ!
馬車が大きく揺れて。
響いたのは、パンパン! という立て続けの炸裂音。
「っ……!」
誰かがかすれた悲鳴を上げた。
外からは御者らしき男性の怒鳴り声。
馬車が急に減速してようやくその動きを止めると、中にいた男性が外に飛び出していった。
……なにが起こったのだろう。
急ブレーキでバランスを崩し、荷台に横になった体を直すこともなく、もう一度髪留めを強く握る。
聞こえるのは外の怒鳴り声と、おそらくは近くにいる同い年ぐらいの少女たちの悲鳴と泣き声。
なにか大変なことが起こったのかもしれないと思いつつも、盲目である彼女にはそれ以上の状況を把握するすべもなく。
金属音。
外で誰かが激しく争っている。
もしかしたらここで死んじゃうのかもしれない、なんてことも考えていた。
ひとつ深呼吸。
そして彼女は、それ以上は考えないようにした。
意外にも恐怖はほとんどなく、心は穏やかだ。
それは、これ以上どうなろうと大して変わらないだろうという諦めのような気持ちと。
もうひとつ。
あるいは――
もしかしたら――
そんな、まるでおとぎ話のような奇跡の展開を頭の片隅で妄想していたから。
……おとぎ話。
そう、まさにそんな感じだ。
お姫様のピンチに駆けつける白馬の王子様。
……いや。
彼女はこんな状況にも関わらず、小さな笑みを浮かべていた。
どちらかというと、みすぼらしい村娘のピンチを気まぐれで助ける浪人さんかなぁ――と。
……ガタァンッ!!
いつの間にか争いの音は止んでいた。
激しい物音は、馬車のドアが乱暴に開けられた音だろう。
ぎしっ……と、床が鳴る。
(……?)
その瞬間、彼女は顔を上げた。
ぎしっ……
足音。
誰かが馬車の中に入ってきた音。
……いや、彼女にとって重要だったのはそこではない。
「ひっ……!」
「やぁぁ……!」
そばにいる少女たちが小さな悲鳴を上げた。
そこから察するに、入ってきたのは最初からここにいた男性ではない。
……そんなはずはない。
なぜならば――
「ぁ……」
その足音は、彼女がよく知っている人物のものと、非常によく似たリズムを刻んでいたから。
そして次の瞬間、
「ちっ……あの野郎、木槌なんて必要ねえじゃんか……」
声。
今度こそは、どうやっても間違いようがない。
彼女にとっての『明白な』状況。
「よう、ファル。平気か?」
彼女の『妄想』がそこにいた。
……まったく現実味のない妄想だったはずなのに。
「……あ、えと」
その展開にどういう反応を返せばよいものやら、彼女にはとっさに思いつかなかった。
「そ、その……あ……」
そしてかろうじて口をついた言葉は、
「危ないところを助けていただきまして……せめてお名前だけでも――」
「なんだそりゃ」
あきれたような声がして。
手が触れた。
グッ……と力がこもって、自然と少女の体は彼の腕の中に収まる。
「あ、あのー……」
まだいまいち状況が把握できていない。
いや、把握はできているのだが、脳がそれを吸収しきれていなかった。
「騒がせて悪いな」
彼が発した言葉は、どうやら彼女ではない他のふたりに向けたもののようだ。
同時にパサッと、なにかが床に落ちる音がして、
「ついでに悪いんだが、俺にはお前らの面倒まで見てやる余裕がない。このまま連中が起きてくるまで待つのもいいし、その金を持って逃げてもいい。お前らの自由だ」
「えっ……」
「あ……」
戸惑ったような声。
だが、少女たちからの返事を待つことはなかった。
「行くぞ、ファル」
「わっ……」
そして彼女がようやく状況を理解したのは、強引に馬車の外に連れ出されてから。
しかも、しばらく走った後のことだった。
「もっ、もしかして……カーライルさんですかッ!?」
「誰だと思ってたんだよ、お前」
声質。
口調。
反応。
何度聞いてみても、それは彼女がよく知っているものだ。
おそらくは誰かの声マネでもない。
なにより……つないだ手のひらのあたたかさが、それを明確に証明している。
だが、どれだけ明らかなことであっても、にわかには信じられない状況だった。
「ど、どーして! カーライルさんは今ごろ大金を手に、ゆうゆうじてきの生活を送っていらっしゃるはずでは!」
「……それ、遠回しに非難してるよな?」
「そ、そーではなくて……」
カーライルに少し早足で引っ張られて、ファルは転ばないように懸命になりながらも、
「だ、だって、こ、こんなことしたら……」
うまく口が回らない。
「カ、カーライルさん、お仕事なくしちゃって、そうしたら弟さんが……」
「……あいつ、そのこともしゃべったのか」
ひとり言のようにつぶやいて舌打ちすると、それでも足を緩めることはなく、
「それはもういいんだ」
「もう、いいって……」
うれしくないわけではない。
それどころか、かなり、ちょっと言葉では言い表せないぐらいうれしかった。
だって、おとぎ話だと思っていたことが現実になって。再びこうして触れて、言葉を交わすことができたのだから。
だけど、うれしいだけで済むわけではない。
そのために彼が大切なものを犠牲にしたのであれば。
「だってカーライルさん、弟さんのことあんなに――」
「それは……」
答える口調は少し苦々しげだった。
「俺の勘違いだった」
「え……?」
「俺には弟なんていなかった。それに気付いただけだ」
はぁ、はぁ、と。
荒い呼吸が混じる。
彼女がどうにか付いていけているほどだから、それほど速いペースではないはずだったが、どうやらそれ以前にかなり体力を消耗していたようだ。
「……納得できないのか?」
「でっ……できるわけがないです!」
「だったら……」
ふっ……と。
盲目である彼女には確認できなかったが。
彼が小さく笑ったような気がした。
「弟よりもお前の方が大事だと気付いたから、っていうのはどうだ?」
「は――」
一瞬なにを言われたのか理解できず。
だが理解した直後、早足で駆けているのとは別の意味で全身に熱い血が巡った。
「そっ……そんなのは絶対嘘に決まってます!」
「……いや。少なくとも嘘じゃあないな」
「で、ですが!」
どうしたらいいのだろう。
転ばないよう走りながら懸命に返す言葉を考えたが、頭の中がグルグルと回って。
グッ、と、つないだ手に力を込める。
それは二度と戻らないと思っていた、彼女にとって唯一の温もり。
悲壮な決意とともに手放したそれを、もう一度捨てられるほどに彼女の心は強くはなかった。
ただ、その一方で――いや、だからこそ、彼にとっての弟の存在がどれだけ大事だったかというのも理解できていて。
ジレンマだ。
いっそのこと、考えることを放棄してしまいたかった。
だが。
「ファル」
そんな彼女の苦悩も、すぐに吹き飛んだ。
「だから言っただろ。またすぐ会えるって。これでも約束は守るほうなんだ」
「――」
ギュッ、と。
もう一度、つないだ手に力を込める。
カァッと熱くなった頭は、もはやなにかを悩むことすら難しくて。
「にしてもさすがに早すぎたか。1ヵ月ぐらいは子守りから解放されてゆっくりしたかったんだけどな」
「そ、そんなの……」
軽口に反論しようとして、急激に涙が込み上げた。
また会える、だなんて。
おそらくどちらもが嘘だとわかっていて。
叶わないことがわかっていて交わした約束だった。
それなのに。
「っ……!」
言葉にならない。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに、なにも言葉が出てこなかった。
いや、もう言葉を口にする必要もないのかもしれない。
どこに向かうのかも。
これからどうなるのかもどうでもいい。
すべてをゆだねて、こうしてついていければそれだけで――
はぁ、はぁ、と。
はぁ、はぁ、と。
ふたり分の吐く息が静かな路上に響く。
涼しげな風が吹いて。
少し、速度が落ちた。
「……ファル」
はぁ、はぁ、と。
息を切らせていた。
「この先は……お前の……よく知っている場所だ……」
そう言って、導かれた手の先。
触れた冷たい感触は、ツタに覆われた廃屋の壊れかけた塀だった。
それは彼女がこの町での1年間を暮らした家から、公衆浴場へ向かう途中にある目印のひとつ。
つまりそこは、すでに自宅の近くのようだ。
「……?」
それを理解して、少し怪訝に思う。
彼女が聞いていた話と少し食い違っていた。
彼はこうすることによって、住む場所も仕事も失うはずだったのに、と。
はぁ、はぁ、と。
荒い呼吸音が止まらない。
「……情けないな……」
「え……?」
進む速度はすでに、歩いているのとほとんど変わらなくなっていた。
「カーライル、さん?」
ギュッ、と握る手に力を込める。
……だが、反応が返ってこない。
力なく。
風を切る音が小さくなって。
――ポタッ。
「え……?」
かすかに。
ほんのかすかに彼女の耳に届いたのは、水滴のようなものがしたたり落ちる音。
「最後の最後まで……あいつに頼ることに……なっちまうとはなぁ……」
はぁ、はぁ……、と。
肩で息をしている。
「え? なんで……?」
速度が落ちて、彼女の息はとっくに落ち着いていた。
元からそれほど全力で走っていたわけではない。
そんな速度で、彼女よりもずっと体力のある彼が、こんな状態になるのはどう考えてもおかしいことだった。
「なんで……! カーライルさんッ!!」
足を止めて彼の前に回り込む。
つないでいた彼の右手を離して。
「……おい、ファル……」
最初に触れたのは、おそらく彼の右脇辺り。
異常は、ない。
次に触れたのは、その逆の左脇。
ぬるっ……という、嫌な感触がした。
「っ……!」
苦悶の声。
「あっ……!」
なまあたたかい液体が彼女の手を伝う。
「これ……カーライルさん……」
自らの手のひらを見つめる。
見えるはずもない、手のひら。
――なぜかはっきりと、視界が赤く染まって見えた。
「血が……出て――!」
「……ファル」
ゆっくりと。
彼の右手が頭の上に。
「約束は……守ったからな……」
がくん、と。
膝が落ちて。
「……カーライルさん!?」
だらりと力なくぶら下がった左腕が、彼女の体に触れる。
同時に嗅覚を覆い尽くす、紛うことなき血の匂い。
「な、なんで……! どうしてこんなっ……!!」
怪我をしている。
それも、彼女のとぼしい知識ですら異常だとわかる、それほどの出血。
頭の中が熱くなった。
「ど、どーすれば! どーすればいいんですか!? カーライルさんッ!!」
なにも考えられない。
「お、お医者さん! お医者さんはどこに――!!」
「……ファル……」
頭に乗せられたままの右手が、ゆっくりと動いた。
髪の上をすべって、首筋に触れ、それからグッと力がこもって顔が近付く。
そして、言った。
「家に戻れ……後のことは、きっとレベッカの奴がどうにかしてくれる……」
「レ、レベッカさんですね!?」
その言葉に、大きく反応する。
「レベッカさんなら、カーライルさんを助けてくれますよね!? レベッカさんなら――っ!!」
「……行け、ファル」
「そしたら……そうしたら、今度はずっと一緒に……!!」
「……行くんだ……」
ゆっくりと。
触れていた手が離れる。
「いや……いやです! カーライルさん!!」
返事をして欲しかった。
大丈夫だと。
約束を交わして欲しかった。
そうすれば、彼は必ず約束を守ってくれるはずだったから。
だが、
「……ファル」
おそらくは、小さくほほ笑んで。
返ってきた言葉は、彼女の期待していたものではなかった。
「実を言うと、もう結構キツいんだ……だから、これ以上、俺にへたな荷物は背負わせないでくれ……」
「カーライルさん……!」
「ったく……約束なんてもんは……軽々しくするもんじゃねえよな、ホントに……」
「っ!!」
ファルはハッとして首を振った。
どうにもできない。
ここにいても、どうにもならない。
……これは現実だから。
都合のいい妄想でもおとぎ話でもないから。
約束だけじゃ、どうにもならない。
約束を果たすためには、行動しないといけないのだ。
……きっと彼もそうしたはずだ――と。
グッと拳に力を込めて。
胸にあったのは、ひとつの決意。
「……行きます!!」
だから今度は、自分が行動しなきゃならないのだ――と。
「レベッカさんを連れてきますから! だからここから動かないで! 絶対に動かないでください――!」
行動しなければ、なにも始まらない。
やれるだけのことをやる。
現実を動かすにはそれしかないのだ。
それでも思うとおりに動いてくれないのが現実なのだけど。
「ああ……わかったよ、ファル……」
まるで力のない彼の返事を背中に聞いて。
なごり惜しさの鎖を懸命に振りほどいて。
最初から諦めるよりはよっぽどマシだと。
そう、信じて。
そして彼女は暗闇の中を懸命に駆け出した。
……晴れ渡った夜空。
……ぽっかりと浮かぶ月。
……静まり返った夜の町。
あふれ出しそうになる涙をこらえ。
息を切らしながら。何度も転びそうになりながら。
走って。
走って。
走って――。




