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或る小悪党の苦悩  作者: 黒雨みつき
その6『傾く天秤』
26/29

記憶の残滓


 ひゅぅ、ひゅぅ、と。

 妙な音が薄暗い部屋に響く。


『兄ちゃん……』


 そんな音に混じって、聞こえるのは弟の呼び声。


 ひゅぅ、ひゅぅ、と。


 弟がおかしくなったのは、数日前から。


 暑くもないのに体中に汗が浮かんで。

 せきをするのは珍しいことではなかったけど、それもいつもよりヒドイ気がして。


 たぶん、なにかの病気だ。

 どうにかしないといけない。


 弟は大丈夫だと、ぜんぜん苦しくないとは言うけれど。


 ひゅぅ、ひゅぅ、と。


 最近はしゃべることも難しそうに見える。


『兄ちゃん……』


 弟は夜中にときおり、俺の存在を確認するかのように呼びかけてくる。


 ここにいる、と答えると、安心したかのように再び眠りについた。


 ……どうすればいいのだろう。


 ズキズキ、と、昨日あの男に殴られたこめかみのあたりが痛む。


 誰に訴えても、誰も取り合ってくれない。

 話すら聞いてくれない。


 いや、あいつらは最初から、弟がどうなろうと知ったことじゃないんだ。


 俺がどうにかするしかない。


 だけど、一体どうすれば。


『今日は……ずっと一緒だね……』


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 ああ、俺はここにいる。

 心配しなくても、俺がお前を守ってやる。


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 俺が……守ってやる。




 ――拾ったのはマッチ箱だった。


 あの男が落としていった、マッチ箱。

 中にはまだ数本のマッチが入っている。


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 これがあれば、ここを出ることができるかもしれない。


『兄ちゃん……』


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 もう少しの辛抱だ。


『最近、夢を見るんだ……』


 医者に診せれば、きっとすぐに良くなる。


 今はお金がないけど、いつか俺が稼いで。

 お前が病気しても大丈夫なように。


『父さんも母さんも姉さんもいて……みんな一緒に、仲良く暮らす夢……』


 ああ、それは――


 でも……近い内にきっと、現実にしてやる。


 父さんも母さんもいないけど。

 俺がいる。


 俺が代わりにそばにいてやるから。


 ……チャンスは、次に部屋を出されたときだ。


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 昨日の夜から弟は座ってうつむいたまま。


 ひゅぅ、ひゅぅ。


 時折、ぜぇっ、ぜぇっ、という音も聞こえるようになった。


 肩を大きく揺らして、苦しそうにすることも増えた。

 こいつは大丈夫だと言うけれど。


『兄ちゃん……』


 ああ、わかってる。

 俺はそばにいる。


『手を握って……』


 ああ。

 いつまででも握っててやる。


 もう少しの辛抱だ。

 もう少し。


 ……早く医者に診せてやりたい。


 早く。

 早く。


 早く――




 ――ようやくチャンスが巡ってきた。


 今日こそ必ずここを出て、弟を医者に連れていく。

 いつかのように失敗するわけにはいかない。


 見ててくれよ。

 お前を必ず、ここから出してやるから。


『……』


 ああ。

 疲れているのか。


 そういや、そうやって静かに眠るお前を見るのは久しぶりだ。


 朝はいつも苦しそうだったのに。

 今日は静かだ。


 いつもより少し顔色が悪くて。

 最近はあまりご飯も食べてないみたいだけど。


 それでも、いつもみたく苦しいよりはずっといい。

 それに、ようやくチャンスが巡ってきたんだ。


 今日こそ。

 今日こそ。


 今日こそは――




 ……雲ひとつない、キレイに晴れ渡った夜空。

 ……ぽっかりと浮かぶ、丸い月。

 ……パチパチという火の爆ぜる音と、赤く染まる空――




 パチパチ、と。


 燃えていく。

 燃えていく――。


 はぁっ……はぁっ……!


 俺も弟もススだらけ。

 弟は自分で歩けないみたいだったので、俺が背負うことになった。


 ずっしりと重くて走りづらかったけど、それでも、ようやくあの場所を出られたという嬉しさの方がずっと強かった。


 これで……ようやく。

 ようやく弟を医者に診せることができる。


 歩くこともできなくなって。

 しゃべることもできなくなって。

 目を開くこともなくなったけど。


 ああ。

 これでようやく。


 ようやく――


「っ……!」


 視界がぼやけた。

 涙が込み上げてくる。


 うれしいはずなのに。


 なんだろう?

 どうして、泣いているんだろう?


 涙が、止まらない。


 止まらない。


 ……ああ。いや、そんなことはどうでもいいんだ。


 とにかく、すぐに弟を医者に預けなきゃ。

 そしてすぐにお金を集めなきゃ。


 弟がまた、俺のことを呼んでくれるようになるまで。

 弟がまた、自分の足で歩けるようになるまで。


 弟がまた。


 また目を開いてくれる、そのときまで――






 ――あの日と、同じ――


「ぁ……ぁ……!!」


 彼は、顔に両手を当ててうずくまっていた。


 いつか見た光景。

 彼の見開いたその両眼が、徐々に輝きを失っていく。


 ……崩壊していく。


 ドクンッ……。


 心臓が大きく跳ね上がった。


 ……やはり、ダメなのか、と。


 手紙を握りつぶしたまま、爪が食い込むほどに力を込めた手がじっとりと汗に濡れる。


 その光景は、私が彼を見つけたあの日と同じ。


 彼の心に根付いた『それ』は相当深い。


 真実は彼の心を傷つけ、思考を停止させ……そして忘れさせてしまうのだ。


 それを知ったあの日――私がなにも知らないまま、やはり彼に真実を突きつけようとして失敗したあの日以来、私は徹底的にそれを避けてきた。


 私と出会ったことまで忘れ去った彼に、まるで初めて会うかのように接して。


 そしてただ、そばで見守り続けた。

 いつか、彼自身が自らそれを克服してくれることを願って。


 ……だけど。


「カール……」


 このままでは、彼はいつまでたっても自分のために生きることができない。


 幼いころ、自分勝手な両親に捨てられ。

 たどり着いた孤児院では虐待の限りを尽くされ。


 そして今日まで、すでにこの世にいない人物への罪悪感に押しつぶされて。


 ……もう十分だ。


 これ以上、見ていられない。

 私の仮面も、もう限界だ。


 この子はもう、この地獄から抜け出してもいいはずだ――。


「目を開けるんだ」


 呼びかける。


 私の声に応えてくれないのは、あの日すでに実証済みだった。

 けど、今は違う。


「君がまた忘れてしまったら、あの子は本当に不幸になってしまう」


 あのとき。


 友人を失った怒りを理不尽にぶつけられながら、それでもこの子の優しさを信じてくれた、あの姿を見たとき。


 彼女なら力になってくれるんじゃないかと思った。

 この子を悪夢から解放してくれるんじゃないかと思った。


 だから。


「このままでいいのか?」


 私は最後の最後まで彼女を利用する。


「昔は君も幼かったから、それは仕方のないことだった。でも、今は違う」


 聞こえていなくても構わない。


 ……いや、聞こえているはずだ。


 なぜなら彼女はこの子にとって、失った弟と天秤に架けて比較するほどに大きな存在となっていたはずだから。


 そう自分に言い聞かせながら、拳を強くにぎり締めて。


 私は声を張り上げた。


「本当にいいのか!? また同じことを繰り返すつもりかッ!!」


 それがひどく自分勝手な言い草だという自覚は十分にあるが、それでも。


 この子を助けるために。

 そして、私自身の想いを遂げるためにも。


 この最後のチャンスを。

 この子が乗り越えてくれることを願って。


 私は、叫んだ――






 痛い。

 痛い。


 痛い――!


 血液が流れ込むたび、こめかみに強烈なパンチを浴びたかのような衝撃が襲う。


 体の感覚もどこかはっきりしない。


 立っているのか。

 座っているのか。

 それとも横たわっているのか。


 それさえもわからない。


 いや……そもそも、俺は今どこにいるのか。

 なにをしていたのか。


 ……薄暗い視界がグニャリとゆがんで、強烈な吐き気が込み上げてきた。


 なんだ?

 なにが起こっているんだ?


 どうして俺はこんなところに――


「……! ……!」


 誰かの声が聞こえる。


 ……誰だろう、聞き覚えがある。


 ずっと、ずっと、遠い昔に――


 ……いや、そうじゃない。


 これは、そう。

 あいつの声だ。


「……カール!」


 そう。

 ちょっと前から一緒に暮らし始めた情報屋の女。


 いまいち得体の知れない奴だが、腕は確かだし色々と役に立つ。


 ……ああ、そうか。


 よく見るとここは町のどこかだ。空は暗くなってるが、おそらく日が沈んでそれほど経ってない時間だろう。


 どうやらいつもの頭痛に襲われて、一瞬、意識を失っていたらしい。


(……ふぅ)


 状況を把握すると、頭痛も徐々に収まってきた。

 吐き気も引いていく。


 やれやれ、よりにもよってこの女の前でこんな情けない姿を見せてしまうとは。


 とんだ失態だ。


 とにかく、ここは適当に取りつくろっておくしかないだろう。


「レベッカ……」


 俺は口を開いた。


 ……だが、その直後。


「――!」


 レベッカがなにかを言葉にした瞬間、再び激しい頭痛に襲われる。


「……――を助けたくはないのか――!?」


 なんだ?

 なにを言っているんだ、こいつは。


 聞こえない。

 聞き取れない。


「――は君にとって――!」


 やめろ。


「――しないと、君はいつまで経っても――!」


 やめろ。


「――……――!!」


 痛い。

 痛い。


 痛い!


 とっさに耳を塞いだ。

 いや、塞いだつもりだった。


 だが、それでも頭に響いてくる声は途切れない。


 頭が割れそうだ。


 ……やめてくれ。


「カール!! ――を――!!」


 やめろ。


「――!」


 やめろ。


「――!!」


 やめてくれ。


 耐えられない。

 もう、耐えられない。


「やめろ……!」

「カール!!」


 そして――――




「……――ヤメロォォォォォォォォォォォォォッ!!」




 聞こえたのは、まるで断末魔のような叫び声。


 俺が……発したのだろうか。


 わからない。

 なにも……わからない。


 頭の中をスプーンでかき回されているかのようだ。


 グルグル。

 グルグルと。


 吐き気が止まらない。


 ただ……それでもひとつだけ、はっきりとしていたのは。


「……カール」


 その直後、なんとも言えないつぶやきとともに。

 俺を『攻撃』していた意味不明な言葉の羅列が途切れたということ。


 ……再び、ぐにゃりと意識が混濁して。


 一瞬、遠のいて……また明るくなる。

 ふと、気が付いて。


「……」


 辺りにあったのは、奇妙な静寂。


「くっ……はぁっ……!」


 荒い息。

 これは……俺の呼吸音か。


 こめかみから冷たいものが首筋に流れ落ちる。


 ……汗。


 頭痛が少しずつ収まってきた。

 ようやく視界もはっきりしてくる。


(くそっ……)


 いつにも増してひどい頭痛だった。


 俺はもともと原因不明の頭痛持ちだが、こんな前後不覚になるほどの頭痛は滅多にあるものじゃない。


(なんなんだよ、一体……)


 そもそも、俺はなにをしていたんだったか。


 のどがカラカラに乾いている。

 というか、痛い。


(ああ……)


 そうだ。

 思い出した。


 俺は確か、いつものように仕事をしていて……それで。


 目の前のいる人物……そう、レベッカだ。


「ああ……レベッカ」


 どうやら俺は地面に膝をついていたらしい。


 妙にダルい体をゆっくりと起こして。


 声はかすれていたが、しゃべれないほどじゃない。

 もしかすると風邪でもひいていたのだろうか。


 ……それはいいとして。


「なんだ、お前。珍しいな、お前と外ではち合わせなんて」

「……カール」


 レベッカはなぜだか、ひどく動揺した様子だった。

 一瞬だけ、まるで泣き出しそうな顔をする。


「君は……君は――!」

「なんだ?」


 わずかな沈黙。


「……いや」


 そして次に彼女が見せたのは、悲しみと諦めの表情。

 こいつがそんな顔をするなんて滅多にないことで、俺は少し驚いた。


 だが、それも一瞬のこと。


「なんでもないよ……カール」


 その表情はいつものそれに戻った。


 捕らえどころのない、まるで仮面のような表情に。

 目にともっていた感情の色が姿を隠して。


「なんでもないんだ……」


 いつもの表情に。


 ひょうひょうとして。

 捕らえどころのない。


 いつもの彼女。

 別にどうということもない。


 いつもの。


「……」


 怪訝には思ったが、なんとなく追求する気にはなれず、


「……で? こんなとこまでなんの用だ? 俺は仕事中なんだがな」


 そう尋ねた。


 正直なところ、今日はなんの約束が入っているわけでもなく、それほど忙しいわけではない。


 ただなんとなく、これ以上彼女とは話をしていたくない気分だった。


「……ああ、そうそう」


 レベッカは思い出したようにうなずいて、そして左手に持っていた包みを俺に差し出すと、


「君にプレゼントだ」

「……プレゼント? お前が、俺に?」


 突然のことに驚く。


「いったいなんの冗談だ? まさか命に関わるようなモノじゃないだろうな」


 そう言って、レベッカに疑惑のまなざしを向けた。


 今日は特になんの日というわけでもないし、仮に俺にとってなにかおめでたい日だったとしても、こいつからプレゼントなんてもらう筋合いはない。


 だが、レベッカはそんな俺の疑問に、


「私からじゃないよ」


 淡々とそう答えた。


「頼まれたものだ。君に救われて、君に感謝していた、とある女の子から」

「女の子?」


 ますますわからない話だ。


 最近人助けをした覚えはない。というか、基本的に慢性的な貧乏人である俺には、人助けなんてしている余裕はないのだ。


「ぜんぜん心当たりがないな」


 まさか客の誰かが……なんてことはないと思うのだが。


「別に怪しいモノじゃないから」


 そんな俺の反応にも構わず、レベッカは不格好に包装されたそれを俺に押しつけた。


「中身はまともなものだよ。警戒する必要はない」

「なんでお前が中身を知ってんだよ」

「それは」


 少し。

 不思議な反応を見せた。


「それを作るのに、私が少し手を貸したからだ」

「作る?」


 受け取った包みはひどく軽かった。

 感触も柔らかい。


 怪訝に思いながら、とりあえず不格好な包装を開ける。


 中から出てきたのは毛糸で編んだらしい、細長い物体だった。


「……マフラー、か?」

「そうみたいだね」

「そうみたいだって、な……」


 手にとって眺めてみると、ところどころがほつれていてひどいシロモノだ。


 かろうじてマフラー本来の役割は果たすかもしれないが、正直言って人と会うときに身につけていられるようなものではない。


「ずいぶんと手の込んだ嫌がらせだな、おい」

「嫌がらせじゃないよ」


 相変わらずレベッカの答えは淡々としていた。


 こいつのこういうところは、冗談なのか本気なのかひどく分かりにくい。


「嫌がらせなんかじゃない。それはプレゼントなんだ。ちゃんと心のこもった、ね」

「……」


 確かに。

 こいつはこんな手の込んだ嫌がらせをする奴じゃない。


 とすると、いよいよ意味がわからなかった。


 まさか本当に、俺に感謝する何者かの贈り物だというのだろうか。


「大事にしてあげるといい。できれば一生、ね」


 ひどくマジメな顔だった。


「大事に、ねえ。よくわからんが」

「わからなくてもいいよ。……そうでなければ、あの子があまりにも」

「……なんだ?」


 変な奴だ。


 いや、もともと変な奴ではあるが、いつもはこんな感傷的な表情なんてめったに見せない奴なんだが。


(マフラー、ねえ)


 手の中のそれに視線を落とす。


 ……見れば見るほどひどい出来だ。


 同じ色の毛糸で編まれた中に、まるで古代文字のように歪なふたつのイニシャルが描かれている。


 初めて母親に教わった子供でも、もう少し上手に編むだろうに。


「ああ、そうそう。それともうひとつ」


 手にしたそいつを首に巻く気も起こらずにもてあそんでいると、レベッカが付け加えるように言った。


「そいつは餞別ではないそうだよ。餞別だと言ったら、本当に二度と会えない気がして嫌なんだそうだ」

「……はぁ?」


 あまりに唐突すぎて、言ってる意味がわからなかった。


 だが、レベッカは俺の疑問には答えず、


「だから、それは誕生日プレゼントだって」

「誕生日?」

「私も知らなかったよ。明日が君の誕生日だったなんて」


 その、瞬間。


「……誕生日だって? 明日が?」


 ドクン、と。


 ほんのかすかにくすぶっていた『なにか』が、頭の中で鼓動を打った。


「そんなはず……ないだろ」


 引きつったように口元をゆがめて答える。


 そう。

 そんなはずはない。


 絶対にそんなことはありえない。


 なぜなら、


「だって俺は、自分の誕生日なんて知らない」

「……そうなのか?」


 レベッカは本当に不思議そうだった。


「けど、それなら」


 ゆっくりと目を閉じて答える。


「なぜかその子は、明日が君の誕生日だと勘違いしていたらしい」


 ――ドクン。


 どうして。

 どうしてだ?


「なんだよ、そりゃ……」


 なにをどうしたら、そんな勘違いをするってんだ。


『……誕生日?』


 明日なんて俺にとって特別な日でもなんでもない。


 たとえ冗談で誰かにそういう話をしたのだとしても、そんな脈絡もない日を指定する意味がわからない。


『……そんなに知りたいのなら教えてやる』


 ドクンッ。


 なんだ。

 なんなんだ。


『俺の誕生日は――』


 ドクンッ……


 遠くに声が聞こえる。

 目の奥の、脳の中の、そのさらに奥底で。


 どこか遠い過去、どこか遠い場所で、見知らぬ誰かに語った真っ赤なウソの言葉。


『俺の誕生日は、お前に会った日の前日だ――……』


「……っ!?」


 とっさに耳をふさぐ。


 その奥で聞こえたそれは、まぎれもなく俺自身の声だった。


 ……なんだ。

 なんなんだ。


 会った日の前日だって?

 明日がその日だとでもいうのか?


 いや。


 そもそも『お前』ってのは、ダレのことだ――


「……カール?」


 怪訝そうなレベッカの声が聞こえている。

 だが、それに言葉を返す余裕はなかった。


「なんでッ、こんな――っ!?」


 ズキズキと痛み始めた頭の奥でなにかがうごめいていた。


『兄ちゃん――』


 その声はよく知っている。


 それは、俺の弟だ。

 最愛の、この世にたったひとりの、俺のかわいい弟。


 だけど、それと重なるように聞こえる、誰かの声があった。


『……さん――』


「っ……!」


 ズキズキと。


 頭が痛む。

 吐き気が戻ってくる。

 抑えきれないなにかが、うごめいている。


 ……ダメだ。


 それは。

 それは――


『……じゃあ、カールさん、ですね』


 奥底に沈めたはずのそれが、きっかけをつかんで浮かび上がってくる。


『……――です。酒場の親父さんには――って呼ばれてます』


 重りを外して、ゆっくりと、ゆっくりと。


『あの――……』


 そしてなぜだか少し、遠慮がちに。


『ファルって、呼んでいただければ――』


「っ……!!」


 ……ファリーナ。

 ……ファル。


 ――ああ。


 それは。

 それは、思い出しちゃいけない。


 それは、俺の大事なものを奪ってしまう。

 俺のもっとも大切なものを幻に変えてしまう。


 思い出しちゃいけない。


 それは。

 それは――


『……私、カーライルさんと出会えて幸せでした――』


 知らない。

 知らない。


 俺はなにも見てない。

 なにも聞いてない。


 すべては幻覚だ。

 すべては幻聴だ。


 すべて――すべては幻だ。


 荷物を載せた俺の天秤はいつだって診療所にいる弟だけのもので。


 比べるものなんてあるはずがない。

 それより大切なものなんてあるはずがない。


 だから。

 だから――


『……だから、絶対……絶対に……』


 ――ダメだ!

 ダメだ、ダメだ!


 俺はあいつを守ってやると誓ったんだ。

 あの暗い部屋から連れ出してやると約束したんだ。


 心配するなって。

 夢を叶えてやるって。

 必ず助けてやるって。


 ……いつまでも一緒にいるって。


 だから。

 だから。


 だから――


『……絶対に、忘れないでください――』


「っ……あああぁぁ――ッ!!」


 傾く天秤。


 そして、彼女の記憶があふれ出した――。


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