千葉県船橋市。レトルトのおかゆと桃缶。
おや、珍しく灯りがついている、と、和田さんは思った。
お隣の部屋の、だ。
和田さんのマンションのお隣には、いつの頃からか外国人の女性が住んでいる。
住んでいる、といっても、その女性は留守がちであり、このマンションに帰ってくることはむしろ少ないくらいだった。
その女性、タスッタさんは国籍その他なにかと謎が多い人物であったが、ひょんなことから今まで心許ないくらいに細いつき合いが続いている。
部屋に居るんなら、おすそ分けでもしようかな、と、和田さんは思い、気軽な気持ちでドアフォンの呼び鈴を押した。
この週末は近づいてくる台風の影響だとかでかなりの大降りとなると天気予報でいっていたので、和田さんは帰りに寄った精肉店でコロッケを大量に買ってきたところだ。
和田さんのつもりとしては、このコロッケを数日かけて一人でゆっくりと消費していくつもりだったのだが、隣人、タスッタさんが在宅をしているのならおすそ分けをしてもいい。
和田さんは、そんなことを思っていたのだ。
呼び鈴を押すと、
「はぁーい」
と少し間延びした声が帰ってきた。
しかし、かなり待っていてもドアが開かない。
「タスッタさん、和田ですが」
和田さんはもう一度呼び鈴を押して呼びかける。
「大丈夫ですか?」
いつもは、なにをするにしてもハキハキとしているくらいの人なのだ。
この反応の鈍さは、明らかにタスッタさんの常態ではない。
「あー、どうもー」
和田さんがそんなことを思ったとき、ようやくドアが開いた。
「ちょっと、体の調子が悪くてー」
そこに立っていたタスッタさんの顔は赤く、目が潤んでいて、声は明らかに鼻声だった。
「風邪、引いたんですか?」
「ああ、はいー」
訊ねると、タスッタさんは不明瞭な発音で答える。
「お医者さんにも見てもらったんですけどねー。
しばらく安静にしていれば治るそうですー」
休んでいるところを起こしてしまったのか、と、和田さんは悔やんだ。
「すぐに寝てください」
和田さんは即座にいう。
「なにか食べていますか?」
「いえ、あまりー」
フラフラと体を左右に揺らしながら、タスッタさんが答える。
「食欲がないものでー」
「すぐになにか用意しますから、まずは寝てください」
和田さんはタスッタさんの背中を押すようにして、タスッタさんの部屋の中に入る。
そういえばここ数日、寒暖の差が激しくて雨が多かった。
それで、タスッタさんも体調を崩したのだろう。
タスッタさんの部屋は家具類がほとんどなく、かなり寒々しい様子をしている。
ワンルームの真ん中に布団が敷かれ、タスッタさんはどうもそこで寝ていたようだ。
枕元にお盆が置かれ、そこに水差しとコップ、それにどうやら医者から貰ってきたものとおぼしき薬が入った袋が置いてある。
「もしよければ、ここの鍵を貸してください」
タスッタさんの背中を押してその布団にまで連れてきたあと、和田さんはそういった。
「必要なものを買ってすぐに戻ってきます」
「鍵、ですかー」
そう返答するタスッタさんは、なんだかぼんやりとした表情をしている。
「ええと、そう、そこの上着のポケットの中に……」
和田さんは壁にかけていたハンガーにかかっていたジャケットのポケットをまさぐって、この部屋の鍵を見つけた。
「そのまま寝ていてくださいね」
和田さんはタスッタさんにそう声をかけて、部屋をあとにする。
そのうしろで、タスッタさんがパタリと倒れる気配がした。
「風邪を引いているときに油っこいものは受けつけないだろう」
自分の部屋に戻った和田さんはそう思い、コロッケが入ったビニール袋をそのまま冷蔵庫の中に放り込み、再び雨の降りしきる外へと飛び出していく。
まだスーパーが開いている時間だったので、まずそこに行ってみるつもりだった。
外は相変わらず強い雨が降り注いでいた。
足元が濡れるのも構わずに和田さんは近所のスーパーへと急ぐ。
あまり大きなスーパーではなかったが、それなりに品揃えが充実しており、なにより住んでいるマンションからあまり遠くなかった。
スーパーに入った和田さんは、まずレトルトのおかゆを乱雑な動作で何袋か買い物かごの中に放り込み、ついで、缶詰が置いているコーナーに移動して桃缶など、いくつか果物の缶詰もかごの中に入れた。
ぞれから少し考えて、玉子も一パック、かごの中に入れて会計を済ませる。
タスッタさんは自宅にいるときには自炊をしているようだったが、なにしろ留守にすることが多い。
今現在、タスッタさんの部屋の冷蔵庫にはなにも入っていない可能性の方が大きかった。
急いでタスッタさんの部屋に戻ると、タスッタさんはちゃんと布団の中に入って寝息を立てている。
それを確認してから和田さんは、ワンルームに備え付けの小さなキッチンを物色してどうにか食器と鍋を見つけ出した。
鍋は一人暮らしにふさわしく小さなものであったが、どのみち大量に料理を作るつもりのわけでもないので、これで十分に間に合う。
その小さな片手鍋をざっと洗ってからレトルのおかゆのその中にぶちまけ、一基しかないIHコンロで加熱する。
少し湯気が立ってきたところで玉子を割り入れて、かき混ぜながらさらに温めた。
十分に温まったと判断したところで、和田さんはその中身を丼の中に移して、レンゲを添えてタスッタさんの元へとむかう。
「タスッタさん、起きられますか?」
枕元からそう声をかけると、タスッタさんが薄めを開けた。
「おかゆを作りましたから、それを食べましょう。
つらいでしょうけど、なにか食べないといつまでもよくなりませんよ」
「あー、はいー」
赤い顔をしたタスッタさんが、のそのそと上体を起こす。
「すみませんねー、わざわざー」
「病気のときくらい、いいですよ」
和田さんはおかゆの入った丼を差し出しながらそういった。
「これ、自分で持てますか?」
「ああ、はいー。
それくらいならー」
いいながら、タスッタさんは丼とレンゲを和田さんの手から受け取った。
「アツアツですねー、これ」
「風邪を引いているときは、熱いのを食べてたっぷりと汗をかくのがいいんです」
和田さんは、そう答える。
「食欲がなくても、ちゃんと食べてください」
和田さんに促されて、タスッタさんはレンゲで掬ったおかゆを何度か口で吹いて冷ましてから、口の中に入れた。
「これ、なにも味がしませんー」
「おかゆとはそういうものです」
正確には味が薄いだけなのだが、今のタスッタさんはおそらく舌と鼻が効かなくなっているであろうから、なおさら味がわからなくなっているはずだ。
「おいしくなくても、とにかく全部食べてください」
和田さんが見ている前で、タスッタさんはゆっくりとであるが、どうにか全部丼の中身を完食する。
「このおかゆ、余分に買ってきましたからあとで食べてください」
空になった器を片付けながら、和田さんがいった。
「面倒くさかったら、パックの中身を器にあけてレンジでチンするだけでいいですから」
体調が悪いときは、とにかく暖かい食べ物を食べなくてはいけない、というのが和田さんのポリシーだった。
「食べたら汗をかいたので、失礼して着替えさせてもらいますねー」
そういって、タスッタさんが布団から起き上がる。
そういう口調は、気のせいか先程よりはいくらかしっかりとしているような気がした。
丼とレンゲを手早く洗ってから元置いてあった場所に収納したあと、和田さんは桃缶を開けてガラスの小鉢に移す。
フォークを添えてふとんのところにまで戻る頃には、タスッタさんは着替えを終えていた。
「寝汗で、服が重くなっていましたー」
布団の上に座ったタスッタさんが、そんなことをいう。
「十分な栄養を取って汗をかいて、しばらく寝ていればすぐに治りますよ」
いいながら、和田さんは缶詰の桃が入った小鉢をタスッタさんの前に差し出す。
「これも、食べてください。
日本では風邪を引いたとき、こういうものを食べるんです」
おかゆだけでは味気ないだろうからな、と、和田さんはそんなことを思う。
「缶詰ですかー」
タスッタさんはそういって、フォークで桃の果実を刺して口の中へと運ぶ。
「あ。
甘いですねー、これー」
どうやら、甘味はわかるようだった。
そんなことをいうタスッタさんを見ながら和田さんは、
「この調子なら、何日か寝ていれば回復するだろう」
と、そんなことを思う。




