千葉県船橋市。カワハギの肝と刺身、日本酒。
「お隣さん、ですよね?」
マンションのエレベーターで、大きなクーラーボックスを肩にさげた女性から声をかけられた。
「ああ、はい」
タスッタさんは曖昧に頷く。
「多分、そうですね。
和田さん、でしたっけ?」
自信がなさげな語尾になってしまったのは、引っ越しの挨拶のときに一度挨拶をしたっきりだったからだ。
あのときは相手もかなりラフな格好で、今のような完全な釣り人スタイルではなかったし、かなり雰囲気が変わっている。
「はい、和田です」
その釣り人スタイルの女性は、小さく頷いた。
「今、おかえり、なんですよね?」
「はい」
タスッタさんも頷いた。
このエレベーターは昇っているわけだから、他に解釈のしようもない。
そこでエレベーターが目的の階に着いたので、二人は会話を中断してエレベーターを降りた。
「なかなかお会いする機会がありませんね」
「いつも留守がちなもので」
それぞれの自宅に向かいつつ、そんな風に会話を続ける。
「日本語、お上手ですね」
「ありがとうございます」
そんなことをいっている間にも、二人は自宅の玄関前に到着してしまう。
「その、タスッタさんはお魚は食べられますか?」
玄関前で、和田さんは意を決したように、そんなことをいい出した。
「今なら、釣りすぎたお魚が山ほどあるんですけど」
「お魚は好きだし食べますが、釣ったばかりのいただいても自分で調理ができるとは思えません」
タスッタさんは小さく首を振った。
「それじゃあ、調理も込みで」
和田さんはそういって身を乗り出した。
「今日はですね、カワハギが食べきれないほど釣れたんですよ。
釣れてから半日も経っていませんから、おいしい肝が食べられますよ!」
「肝、ですか?」
「カワハギの肝はですねえ、寒くなると大きくなって、おいしくなるんです!
今年はもうシーズンが終わる頃ですよ、最後のチャンスですよ!
この肝をワサビ醤油で溶いたものにお刺身をつけて、こう、食べたらですね。
これが実にたまらなくて!」
和田さんの熱弁にほだされたわけではないのだが、和田さんに捌いてタスッタさんの部屋に持ってきて貰うことにした。
半時間くらい経っただろうか。
チャイムが鳴って出てみると、ラップをかけたお皿をいくつか持った和田さんが立っていた。
「どうぞそのままおあがりください」
和田さんからお皿を受け取りながら、タスッタさんが中に招く。
「なんにもありませんが」
謙遜でもなんでもなく、外出していることが多いタスッタさんは、この部屋ではあまり家具を増やさないように心がけている。
「お邪魔します」
和田さんは遠慮がちに周囲を見回しながら、タスッタさんの部屋に入ってくる。
「シンプルないいお部屋ですね。
間取りは家と同じですけど」
タスッタさんは和田さんから受け取ったお皿をテーブルの上に置き、グラスと小皿を二人分用意した。
「和田さん、お酒は飲みますか?」
醤油差しを用意しながら、タスッタさんが訊ねる。
「日本酒でよかったら、旅先で買ってきたものがあるのですけど」
「はい、お酒は好きな方です」
和田さんは背筋を伸ばして答える。
「旅先で、というと、地酒なんでしょうか?」
「どうなんでしょうね?」
タスッタさんは首を傾げる。
「飲んで見ておいしかったものを購入してきてているだけですので、そういった区分は、わたしにはよくわからないのですけど」
そういってタスッタさんはシンクの下にしまい込んでいた一升瓶を持ってきた。
「一升瓶ですか」
和田さんがいった。
「持って帰るのに、重たくありませんでしたか?」
「少し重たいくらい、問題ではありません」
タスッタさんは姿勢をただしてそう答える。
「おいしいもののためには、それくらいの不便は我慢をするべきです」
「釣ったその場ではらわたを抜いてきているので、寄生虫の心配はしなくてもいいですよ」
いざ箸をつけようとするところで、和田さんがそんなことをいい出した。
「寄生虫?」
タスッタさんは伸ばしかけていた箸をさっと引っ込める。
「いるのですか?
そんなものが?」
「アニキサスっていうんですけどね。
カワハギに限らず、いろいろな魚介類にくっついてきます」
和田さんは、澄ました顔で答える。
「普段ははらわたにいるんですけど、寄生主の温度があがってくるとはらわたから逃げ出して他の部位の方へと移動する習性があります。
だから新鮮なうちにはらわたを抜いて、その上で氷でガンガン冷やして、なおかつ調理のときにも細心の注意をしているので、まず心配をする必要はありません」
「そ、そうですか」
そう説明をされても、タスッタさんの表情は晴れなかった。
「いや、本当。
大丈夫ですよ」
和田さんは気軽な口調でそういって、カワハギの肝を箸で摘まんで自分の口の中に放り込む。
「なんたって、海のフォアグラっていわれるほどのものなんですから。
一応、旬は九月から十二月までといわれていますけど、今の時期だって決して悪くはない」
「海のフォアグラ」
タスッタさんはそう呟き、意を決してカワハギの肝を自分の口の中に入れた。
「あ」
そういったまま、タスッタさんは絶句してしまう。
口の中で、さっと溶けていくような感触。
まったりとしているようで、それでいて決してしつこくない。
「これは」
「絶品でしょう」
和田さんが、そのあとを引き取った。
「新鮮だから、なおさらおいしい。
あ。
このお酒もおいしい」
「このままでもいいんですけど、燗をつけるとさらにおいしくなりますよ、これ」
タスッタさんは、そういった。
「この肝にも、きっと合うと思います。
つけますか?」
「つけましょう」
和田さんは真面目な表情で頷いた。
「その、手間でなければ」
「徳利に注いで、あとはレンジ任せですから」
タスッタさんは立ちあがりながらそういった。
「手間というほどのこともありません」
タスッタさんはすぐに燗酒の徳利を持ってテーブルに戻る。
「今度は、このお刺身をこれでにつけて食べてみてください」
すると、即座に和田さんがそういった。
「さっきいっていた、山葵醤油に肝を和えたものですね」
「そうです」
和田さんは表情を崩さずに断言した。
「世界が変わります」
そこまでのものか。
そう思いつつ、タスッタさんはお刺身を山葵醤油と肝に浸してから、口の中に入れる。
うん。
これは。
「お刺身自体が、すでにおいしいんですけど」
タスッタさんはしばらく無言で余韻に浸ったあと、ようやく口を開いた。
「これ、合わせると、さらに重層的になりますね。
味と香りが」
「そうです、そうです」
和田さんが、重々しく頷く。
「この後味が消えないうちに、日本酒を煽るとこれがもう格別で」
タスッタさんは、そうした。
燗酒をくっと煽ると、なんというか、もう。
「なんか、しあわせーって感じになります」
「そうでしょう、そうでしょう」
和田さんが、真面目な顔をしたまま頷く。
「お刺身もいいんですが、この切り身を大葉と和えたり、なめろうにしたり、肝と身を味噌で和えたりしてもいいんですよ。
カワハギは」
熱心な口調で、講釈をしだした。




