京都府京都市伏見区。蕎麦工房のもりそば。
あら、こんなところに。
通りかかった細い路地に忽然と現れた、ように見えるそのお店を目にしたタスッタさんは、なんだか狐にでも化かされているような気分になった。
決して大きなお店ではなかったが、印象的な看板がいくつかと、それに店の前に列をなしているお客さんたちの存在が、そのお店が営業中であることを示していた。
列、とはいってもせいぜい十人くらいしか並んでいなかったが。
「蕎麦工房、ですか」
タスッタさんは小さく呟く。
年末のこの時期、こんな人気がなさそうな場所にこれだけの人が並んでいる、というのは、ちょっとした驚きでもある。
タスッタさんはスマホを取り出し、今がまだ午前十一時半をいくらか越えただけの時刻であることを確認した。
お昼には少し早いが、かなり肌寒く年末のなにかと忙しいこの時期に列をつくるだけの価値がこのお店にはある。
そう判断をする人たちが存在したわけだ。
そうですか。
タスッタさんは心の中で一人頷いて、その列の最後に加わった。
お客さんの回転はかなり早く、十分も待たないうちにタスッタさんもお店の中に入ることができた。
カウンターだけの細長い店内は、清潔であるのはもちろんだったが、ほとんど茶色系統でまとめられていてなんだかとっても渋い印象を受ける。
そのカウンターに座ってから、このお店で提供しているのは「もりそば」の一種類のみであるということを、タスッタさんは店員さんに告げられて知った。
もりそばか。
悪くはないのだけど、寒い中、外で待っていたことも考えると、暖かい物も欲しくなりますね。
とか、店員さんから貰った熱いお茶を啜りながら、タスッタさんはそんなことを思う。
とはいえ、ここまで来てなにも食べずに帰るつもりもなく、タスッタさんは素直にその場でそのもりそばを注文した。
時折お茶を啜りながらしばらく待つと、すぐにタスッタさんの前にもりそばが出てくる。
外見的には、なんの変哲もないもりそばに見えた。
「こちら、細挽きになります」
と店員さんに説明をされる。
どうやらこのお店では、細挽きと粗挽き、二種類のもりそばを一食で食べ比べられる趣向のようだ。
本当に、そばにこだわったお店なんだな。
そう感心をしながら、タスッタさんはまず薬味の刻みネギとわさびをめんつゆの器の中に入れて、箸で攪拌する。
それから、細挽きの麺を箸で取り、軽くめんつゆに浸してからずっと音を立てて啜る。
あれ。
と、タスッタさんは思った。
口に入れただけで、そばの香りが。
かなり、香りが高いそば粉を使っている。
それに。
と、タスッタさんは思った。
わさびも、これはおそらく本わさびだ。
ほんのりとした甘みを感じた直後に、つんと、しかし嫌みではない、鼻に抜ける例の感じが来る。
そしてそのわさびの風味とそばの風味とをいっしょに感じると、なんともおいしく感じられた。
おそばだ。
と、タスッタさんは感じた。
かなり本格的な、おそばだ。
食感やのどごしまで楽しみつつ、あっという間にその細挽きのおそばを食べ尽くした直後に、もう一種類の、粗挽きのもりそばが出て来た。
見た目はほとんど細挽きの物と変わらない。
でも、味や食感の方は。
そう思いつつ、タスッタさんは早速そのそばを箸で手繰る。
ずっと一口啜って、噛んでみて、
「あ。
歯ごたえが、全然違う」
と、そう思った。
香りに大差はないように思ったが、食感は、まるで違う。
歯ごたえだけではなく、のどごしの食感も。
おそばという食べ物は、こんなにも繊細な物だったのか。
タスッタさんはそう納得をし、感心もした。
そば粉の目の粗さだけで、ここまで違いが出てくるとは。
感心をし、堪能をしつつ、タスッタさんはその粗挽きのもりそばもあっという間に完食してしまう。
そもそも、もりそばなどという食べ物は、そんなに時間をかけて食べる物でもない。
こんなに本格的なおそばをいただいたのは、ひさしぶりのことになりますね。
かなり目減りしためんつゆの器にそば湯を注いでいただきながら、タスッタさんはかなり満足していた。
小細工なしに、正面からそばという素材に挑んだ、そんな感じの実直さをタスッタさんはこのお店の料理に感じた。
通りかかった店員さんから、
「おかわりはいりますか?」
と確認される。
一品しか提供していないお店だから、おかわりをするお客さんはそれなりにいるらしかった。
少し考えてから、タスッタさんはおかわりをしないと店員さんにはっきり伝え、カウンター席を立つ。
満腹だったから、というよりも、細挽きと粗挽き、二種類のもりそばをいただいただけで妙に満足してしまっていた。
それに。
と、レジのところで勘定を済ませながら、タスッタさんは思う。
まだ待っているお客さんもいますしね。
店の外には、まだ数人のお客さんたちが待っていた。
勘定を済ませてお店の外に出ると、行列を作って待っていた人たちの会話が漏れ聞こえて来る。
どうやらこのお店は、金曜日、土曜日、日曜日の週三日間しか開けておらず、その三日も用意したそばがなくなれば、そこでお店を閉めてしまうのだという。
ずいぶんとストイックな方針だな、と、タスッタさんは思う。
このお店の営業だけではまともな収入にはならないはずだった。
蕎麦工房、の看板にある通り、お店を開けていない日は、そば粉の製粉とか販売をやっているのではないか、と、タスッタさんは想像する。
その想像がどこまで当たっているのかは確かめる術はなかったが、たまたま通りかかったタスッタさんがこのお店でもりそばをいただけたのは、かなり幸運なことに思えた。
うん、いい年末。
そのお店から遠ざかりながら、タスッタさんはそんなことを思う。




