北海道札幌市。蕎麦屋の牡蠣蕎麦。
この時期の北海道といえば当然のことながらかなり寒いわけだが、その寒さにもめげず、タスッタさんは札幌に訪れていた。
タスッタさんが北海道を訪れたのはこれがはじめてではない。
だが、札幌に来たのはこれがはじめてであり、当然のことながらタスッタさんはこの周辺の土地勘を持っておらず、札幌市場外市場の周りを先程からうろついている。
地方都市にありがちなことに、地元の人たちはだいたい車で移動しているようで、路上に歩行者はタスッタさんくらいしかいなかった。
しかし、寒い。
と、タスッタさんは思う。
歩道や車道部分はしっかりと除雪されているのだが、それ以外のそこそこに、雪が残っている。
本州とは比較にならないくらいの寒さだ。
ああ、こういう寒い日には。
しみじみと、タスッタさんはそんな風に考えた。
なにか体が暖まる物を、食べたい。
もう午後二時を回るというのに、この日、タスッタさんはまだ昼食を摂っていなかった。
寒さと空腹とで、タスッタさんの気分はだんだんと沈んでいく、ような気がする。
よし、と、タスッタさんは顔をあげて決意をした。
どこでもいいから、これから最初に見かけた飲食店に入って、そこでなにかお腹の中に入れる。
ただし、暖かい食べ物があるところ限定で。
幸い、そう決意をした地点からいくらも歩かないところで一軒の蕎麦屋さんを見つけることができた。
車道を挟んで向かい側にそのお店の駐車場があるのだが、そのほとんどが車で塞がっている。
ああ、これは。
と、タスッタさんは不安に思った。
かなり人気があるお店のようですね。
ひょっとすると、満員で、あるいは予約制で来店を断られるパターンかも知れない。
それでもまあ、試しに。
意を決してタスッタさんはそのお店に入ってみた。
一歩中に入ると店内の暖かい空気がわっとタスッタさんの全身を包み、ついで、店内の様子、ほぼ満席の状態であることをタスッタさんは把握する。
すぐにタスッタさんの姿に気づいた店員が声をかけてきて、
「お一人様ならば、すぐにご案内できます」
とそのままカウンター席まで誘導してくれた。
手打ち、十割蕎麦。
蕎麦は、地元摩周産のキタワセソバという品種を使っているらしい。
これはどうも、想像していたよりも本格的なお店ですね。
壁に貼られた案内書きやメニューに記された内容を見て、タスッタさんはそう判断する。
店員さんは忙しそうに動いているし、お客さんたちも満足そうな様子でお店を出て、すぐに、入れ替わりに別のお客さんが入って来ていた。
忙しないながらにも一種の秩序に沿ってお店の中全体がキビキビと動いているというか。
こういう雰囲気は、タスッタさんも決して嫌いではない。
地元の客さんに愛され、大事にされているお店というのはこういう雰囲気であることが多かった。
さて、なにを頼みましょうかね。
さり気なく店内の様子を観察するのをやめて、タスッタさんはメニューに目を落とす。
お店の雰囲気から推測して、このお店ならばなにを楽しんでも大きくは外さないように思う。
こうなると、かえって目移りしますね。
暖かいお蕎麦を頼むことは決まっていたが、なんのお蕎麦にするべきか。
むむむ、と、しばらく吟味をした結果、タスッタさんはある料理名に目を止めた。
牡蠣、ですか。
「牡蠣蕎麦」という名称が目に入った途端、
「ああ、それもありだな」
と、すとんと腑に落ちる感じがした。
お蕎麦というと、天ぷらとかの種物のイメージが強かったが、こんな寒い日にはかえってそういうシンプルでストレートなおいしさを持つ物の方がいいのかも知れない。
タスッタさんは片手をあげて、店員さんを呼ぶ。
牡蠣蕎麦が実際に出てくるまで待たされたような気もしたが、実際には注文してから十分も経過していなかった。
この手のお店としては、むしろ早いほうだろう。
出て来た牡蠣蕎麦は湯気を立てていて、いかにも熱々でおいしそうだった。
実際に目の前にどんぶりが置かれると、濃厚な出汁の匂いが鼻腔に入ってくる。
あ、これ、絶対においしい、と、タスッタさんはその出汁の匂いだけでそう判断してしまった。
どんぶりの表面にはぎっしりと牡蠣がそのまま無造作に密集しており、その下にあるはずのお蕎麦が見えないほどだった。
まずはレンゲを手にとって、出汁汁だけを啜ってみる。
あ。
と、タスッタさんは驚く。
なんと、濃厚な。
おなじみの、鰹節ベースのお蕎麦屋さんの出汁汁に加えて、牡蠣の旨みまでもが出汁汁の中に溶け込んで、なんとも濃厚なスープになっていた。
なんか、凄い。
タスッタさんは、本気で関心をしてしまった。
この汁だけ飲んでも、それだけでも満足してしまいそうな。
そう思ってしまうほどに、濃厚な味だった。
熱いし、おいしい。
文句のつけようもなく、おいしい。
この旨みは、やはり牡蠣の働きが大きいんでしょうね、と、タスッタさんは推測する。
フライや焼き物などでは味わえない、牡蠣そのもののエキスが出汁汁に染み込んでいた。
おいしいし、それに、体が暖まる。
タスッタさんはしばらく夢中でその出汁汁を味わったあと、今度は箸を取って牡蠣をひとつ摘み、食べてみる。
はふはふいいながら噛むと、しっかりとした、ぷりっとした歯ごたえとともにじんわりと例の、牡蠣の味が口の中に広がっていく。
かなり大粒で、旨みの強い牡蠣だった。
味もおいしいのだが、この歯ごたえや確かな感触も含めて、大きな満足感がある。
これは。
と、タスッタさんは思う。
かなりいい牡蠣を、使っているのではないか。
この牡蠣単体でも、かなりおいしいのだ。
出汁汁の方が薄口に感じるのも、この牡蠣の味を引き立てるためなのかも知れませんね。
また熱い出汁汁をレンゲで味わってから、タスッタさんはそんなことを考える。
これは、これだけでもいいものだ。
しばらく牡蠣と出汁汁とを堪能してから、タスッタさんはようやく蕎麦に箸をつけた。
かなり細い麺で、そして色はかなり黒い。
蕎麦粉の色がそのまま出ているようだ。
この蕎麦を箸で摘んで啜ってみると、確かな歯ごたえがあり、喉ごしもいい。
これまでタスッタさんが食べてきたどこの蕎麦と比べても遜色がない、これまたしっかりした、立派な蕎麦だった。
そしてこの蕎麦が、啜ってみると出汁汁に負けないほどの存在感がある。
わあ、しっかりした仕事をしているなあ、と、タスッタさんは関心をした。
この汁に負けない蕎麦は、なかなか作れないのではないか。
ふと入ってみたお店であったが、かなりの大当たりだった。
しばらく夢中で牡蠣蕎麦を啜り、食べていくうちに、タスッタさんの体はすっかり温まってしまった。
途中でハンカチを取り出し、何度か汗を拭いながら食べ続ける。
そして食べ終わる頃に、店員さんが蕎麦湯と蕎麦猪口、蕎麦粉クッキーを持ってきた。
どうやら食後にこれが来るのが、このお店の決まりであるらしい。
タスッタさんはどんぶりの中に残っていた出汁汁を、若干ねっとりとした蕎麦湯で割って飲んでみる。
うん、これはこれで。
蕎麦湯独特の、うっすらとした甘味が強調されているような気がした。
そして最後に、蕎麦粉を使ったクッキーの、しっかりとした甘さを、蕎麦湯で流し込むようにていただく。
ああ、いいお食事だったと、タスッタさんは、本心からそう思う。
すっかり体が温まったし、なにより、おいしかった。




