104話 つ、つられたくまー
特別試験、二日目の朝。
俺は、大きな木のくぼみに身を寄せていた。雨が降り出したのは、夜が明ける少し前だった。枝の間をすり抜けて落ちてくる雨粒の音が、ぽたぽた、ぽたぽたと耳にしみる。
運良くこんな窪みが見つからなければ、酷い夜を過ごす羽目になっていたことだろう。
腹が減った。背中も冷える。足元の泥がぬかるんで、朝起きて用を足す際に転びかけた。
でもまあ、テオドールとギヨム王子を相手にした戦闘のダメージが残っていないだけマシか。こんな陰湿な試験の最中だというのに、不思議と気分も良い。歌い出しちゃいそうだ。
俺は誰に聞かせるでもなく、口ずさんだ。
「なんだ、もう朝かとー。一人~」
別に夜更かししたわけじゃないが、あっという間の夜だったなぁ。意地悪な試験でなければ、キャンプ気分で楽しめたかもしれない。
ふと、歌をやめた。
……みんな、無事だろうか。
クラウスは、ちゃんと逃げ切っているだろうか。王子たちも傷が痛んでないといいけど。誰かが誰かを裏切ったり……そうならない為の手段は講じたけど、心配は心配だ。
そんなことを考えながら、俺はそっと空を見上げた。
雨雲のすきまに、ひとつ、黒い影があった。
羽ばたく、カラス。俺の上を旋回していた。
「……やっぱり、いたか」
ディゴールの目。
あの男は、ずっと俺を見ている。執拗に、執念深く。けれど、それでいい。
……さあ、いつでも来い。
といっても、相手のタイミングなんてわからない。そもそも来るかどうかも。
確証は無いけれど、俺は来ると思っている。
なにせ、そいつは俺をターゲットにしている。
どういう理由か知らないけれど、俺を退学にするためにこんな試験まで用意してくれた。大量10ポイントという旨味で、狙われやすくして。……おかげでクラウスを巻き込む事態に。
来ないはずがない。確実に、自分の手で俺を仕留めに来るはず。俺の待ち人は、試験の仕掛人であるディゴールその人だ。
確信めいたものを予感していた瞬間、肌にゾクリと冷たいものが走った。
いつもの監視とは違う。あのカラス、翼を広げながらまっすぐ、こちらに降下してきた。
「……来る!」
思わず声が漏れる。次の瞬間、カラスは羽ばたきながら弾けるように――黒いしぶきになった。
影だ。
カラスの形を保っていたそれが、雨に引っ付いて液体のようにバラバラと地面に落ちてくる。
地面に当たる寸前、無数の影が俺を囲むように伸びた。木々の影、葉の影、雨の僅かな影でさえぐーんと伸びて森がざわめき始める。
俺はすぐに木のくぼみから飛び出した。滑る泥、濡れた苔、すべてが足をとる。
それだけじゃなかった。
足元から、影が伸びていた。その影の中から、まるで地獄のダンスパーティーに招待するように、俺の足首をがしりと掴む人の腕が出現する。
「きしょっ!」
か、影から急に手が! 夜中に通り魔に会うような気分。誰か男の人を呼んで!
あまりにも異質なスキルに、ちょっと失礼な感想を口にしてしまった。
グッと引きずり込まれる。
老人とは思えない膂力に、少し戸惑ったが、相手もこちらを見くびっていた。
力比べなら、こちらに分がある。パン、沢山食べてますから!
ぬかるんだ大地は踏みしめるのに苦労したが、脚を思いっきり蹴り上げて、影の中より引っ張る陰キャを釣り上げて見せる。
「んん!! 出て来いよ! 爺さん!」
「ぐぬっ!?」
影から引っ張り出されて、宙をくるくると回転し、地面に降り立つディゴール。
ローブ姿でフードも被っているが、その特徴的なわし鼻で見間違うはずもない。
「……ふぇっふぇふぇふぇ」
顔を上げるや、不気味な笑い。
試験官側がこちらへと降りて来た。全て予定通りだ。
「ようやくこうして直接お話ができますね、ハチ君」
「悪いけど、話すことなんてないよ。今は大事な選抜試験中なので」
変刃を構える。
息を整え、雨粒一つの音も聞き洩らさない程、集中力を高める。
顔を伝う水が目に入っても、ディゴールからは視線を外さない。相手がレジェンド級だということは、小物の俺が誰よりも実感していることだった。
「君の考えていることは大体わかっていますよ。でもそのクリア条件には高い高いハードルがあることも理解しているはずでしょう?」
「出来れば勘弁願いたいけど、理解はしている」
最後のハードル、そして最大のハードルと言ってもいいだろう。
この高すぎるハードルであるディゴールを倒すことで、試験の真の合格ルートへと至る。
けどな、ディゴール。
あんたはわかっていない。
ハードルってのは下が空いているんだ。
俺みたいな小物は、飛ばずに下をくぐるタイプです。ええ、はい。
そして、悪いが、足腰の弱った爺さんをいたぶる卑怯な行いも小物の得意技です!!
――ぐちゃり。
泥の中で、何かが這った。
俺は、反射的に跳んだ。さっきまで立っていた地面を、鋭い爪のような影がえぐっていた。
「おっと、危な……!」
まだ話してる途中でしょうが!
泥が跳ね、視界が遮られる。その向こうで、ディゴールが一歩踏み出すたび、彼の足元の影が波打った。
地面に、木々に、雨のしずくにすら影はある。
そのすべてを操れるのだろうか? スキル格差がますます広がる今日に、小物ハチは警鐘を鳴らしたい。
「ふぇっふぇふぇ。あれを躱すかえ。反応はいいね」
ディゴールは冷静に呟いた。どこか愉しんでるような口調だった。
「でも、動きが軽いな。君のスキルタイプは戦闘ではないと見た。スキルで対処してこないのだもの」
「まあね。そんな恵まれたものがあったら、ひねくれてなかったかも」
足元に、影がまた走った。さっきと同じ手。わざと同じパターンを使って、反応を見るつもりか?
いや、違う。今度は複数。
咄嗟に腰の変刃を引き抜き、棒状のそれを地面に突き立てた。即座に、刃が地面側に出現し、鎌の形に展開される。
スッと振るえば、泥をえぐって跳ねさせ影を乱した。
「ほう。可変か。器用な武器だ」
「予想通りだね。あんたの影に対抗するには、新しい影で乱してやればいいらしい。日頃から陰日向に生きる俺は、影には詳しい」
「思考が柔軟だねぇ。若いって素晴らしい」
両者軽口を叩きながら、地面を見た。
雨で出来た凹凸のある泥の中を無数の線が走っている。普通の水の筋じゃない。これ……影の流れだ。雨で濡れた泥が、ディゴールの魔力を通して、影の網に変わっている。
「……あんた、手ぇ込んでんな。俺の足元、全部あんたのテリトリーって訳だ」
ディゴールはにやりとした。
「観察力もあるようですね。だが、それだけでは死にますよ」
次の瞬間、真下から大地を割って影が噴き出した。見えてない場所からも!?
先程よりも影がこまかく、本数がけた違いに多い。斬撃の威力は軽いだろうが、これはかわしきれない。
動かない。かわさない。かわすふりも、しない。
こちらだって一応スキルは持っている。
影の鋭い爪が足を貫こうとした瞬間、宙に跳ねていた泥が集まり――硬化した。
散っていた泥が、俺の魔力を吸って補修された。土は締まり、石はつながり、影の行先を塞ぐように立ちはだかる。
「……なに!?」
「泥は、修理対象です」
「……面白いことをしますね、君は」
細い影ままでは固い泥を押しきれないと悟ったのか、影の爪が止まって引いていく。
ディゴールの影はそれ以上襲ってこなかった。
雨に濡れたハンカチを取り出して額を拭う。拭く意味……ないと思うんだけど。意外とマメなお人かも。
「地形を修理して、防御に転用。普通の学生には到底できないですねぇ。君の修理スキルの本質は、構造理解にある。直せるということは、壊れ方を知っているということだ。全ての判断が早い。敵ながら、見事です」
「お、おう。……ありがとう」
小物はあんまり褒められることがないので、ちょっとだけ嬉しい。
いやいや、相手はめっちゃ悪いやつだから! 勘違いしないでよね!
「……スキルは、進化します」
「……え?」
ディゴールの言葉に、俺はつい聞き返してしまった。
「進化です。熟達すれば、より効率的に。理を知れば、より精密に。拡張も変質もありうる。魔力をただ紋章に使われているうちは“初期スキル”でしかない。使いこなした時、初めてそれは自身のスキルになる」
「自身のスキル……?」
つまり、それって。
俺の修理スキルも、ディゴールの影みたくもっと格好いいことができるってこと?
修理、修復……。
恋の修復屋、始めました! そんなアホみたいな想像すら浮かんだ。
「私のような使い方を見ると、理解できるだろう。私の“影”も、進化している」
ディゴールが広げた手のひら。そこから、影がじわりと湧き、雨粒のひとつひとつに絡んでいた。
影は、ただの黒ではない。反射、屈折、流動。影をよく理解して操っている。
「実は大昔だが、私はこの学園の正式な教師でした」
「……給料低くてやめたんですか? それともセクハラ的なあれでクビ?」
「栄転ですね。大臣になりましてね、ふぇっふぇふぇ」
ちっ。
「グランとは犬猿の仲でしたよ。彼は魔力の理を重んじる方だ。魔力にこそ未来があると思っている。だが、私が学長なら、スキルを全面的に学ばせる。これは“力”だ。感情にも、環境にも左右されない精霊より与えられた奇跡の“純粋な力”」
ディゴールの瞳は、真剣だった。
すまない、豊饒のスキルタイプの前であまりスキル、スキルって言わないで貰えないか? コンプレックスが刺激されて!
「その話って正解があんの? それにグラン学長と議論したら?」
「何度もしたさ。それこそ数えきれない程に。お互いにもう100年以上は生きていますからねぇ」
100年! 重い!
想像してたよりも遥かに話し合っていた。
またハンカチで額を拭き拭きするディゴール。
「雨が鬱陶しいですね」
「同意」
「では、お遊びはここまでです。早めに終わらせましょう」
「それまた同意」
ディゴールが両手を指揮者のように上げた。空気がどっと変わったのが分かる。
周囲の影が、ざわりと立ち上がる。雨粒が空中で黒く染まり、地面の泥に、細く鋭い刺のような影が走る。
まるで、このバトルコート内全部が敵になったみたいだった。
「さあて、平和な時代が長く続き、今時の若者は実力が落ちて来ました。悲しい事です。そうではないと、君が証明して見せなさいハチ君」
言い終わるより早く、影が襲ってきた。
まずは足元から。尖った影の槍が突き上げてくる。
地面を蹴るように弾いた。泥ごとぶっ飛ばして跳躍する。
「ぬるいですねぇっ!」
次は真横から、木の影が太い大剣のように伸びてくる。
変刃を鎌に変えて受ける。ギギッと鈍い音。
受け止めたけど、重い。影のくせに、重い!
これじゃあ、まるで本物の剣じゃないか。
「まだまだ行きますよ!」
影が途切れない。連続、連続、連続――。
四方八方、ぬかりなく、無駄もない。
一手受けたら、二手目が刺さる。三手目で終わり。
このままじゃ、詰む。
だから、かわす。受けない。止まらない。
逃げるしかねえ!
逃げは得意だ。修理スキルを駆使して、とにかく爺さんがスタミナか魔力切れを起こすまで逃げる。
足元の崩れた土を修復。滑らない地面をぐっと踏み込む。
折れかけた木の枝を修復。手を引っ掛けて跳躍する。
自分の道は、自分でつくる。これまでも、これからだってそうだ。
「ふぇっふぇふぇ。おもしろいですね……随分と器用なことだ」
ディゴールの声が遠くで響く。
少し距離を取れた。
奇襲から始まり、ようやくあの恐ろしすぎる爺さんの視線から外れることができた。
ここはジャングル。幸いにも雨。
小物が忍ぶには最適だ。
チャンスは少ない。けれど、虚を突ければかならず勝ち目はある。
しかし、その時、また影が俺の背中を追って飛び掛かって来る。
「影に目でもついてんのかよ!?」
また全力命がけ鬼ごっこの開始だ。
一撃でも貰うと危険だ。毒を使う姑息な相手。スキルにだって何が仕込まれているか分かったものじゃない。
その時だった。
俺が逃げる先に、クロネコが登場した。
クロネコが横切ると不吉だというが、そんなの関係ない。
俺の後ろからはもっと不吉なものが迫ってる!
走り去るついでに猫ちゃんをキャッチして、胸元に抱き寄せる。
「にゃーん」
「はろー」
……あれ?
この猫ちゃん、顔が真っ黒なんだけど……。
まさか。
気づいたときには遅かった。
猫ちゃんが俺の胸の中で、勢い良く爆ぜて影の棘となる。
ぐさりと体を突き抜ける斬撃が、全身に寒気を催した。
鳥肌が立ち、激痛が押し寄せ、脚が止まった。
つ……釣られたクマー!!
衝撃もすさまじい。爆発の衝撃が腹から背中を貫いた。
気づけば、地面にうずくまって倒れていた。
泥の冷たさすら、遠い。呼吸がうまくできない。肺が、割れたみたいだった。
「……ぐ……っ」
動かない体を無理やり起こそうとしていると、足首が――引かれた。
「引かれている」というより、「引きずられている」感触。
見れば、地面の影が、まるで手のように俺の足首を握っていた。
そのまま、泥の上を引きずられ、木々の隙間を抜ける。
目的地は、ディゴールのところだろう。
体はボロボロ。武器も落とした。
そのまま、俺の体は吊られた。
足を上に、逆さまに。木の枝にでも引っかけるように、影の手が俺を持ち上げた。……なんか昔、カトレア姉さんにこんなことされたなぁ。
宙づりの視界に、あの男が現れる。
「……やはり、まだレベルが低い」
ディゴールは、ため息をつくように言った。
淡々と。呆れるように。だけど、怒ってはいなかった。
どこかで、わかってたのかもしれない。俺が、ここで詰むって。自分には勝てないだろうって。
そのときだった。
ぬう、と、黒い何かが視界を横切った。
あの、クロネコ。
影でできた、ちっぽけな猫。
「にゃーん」
猫なで声そのもの。
ディゴールの足元に歩いてきたクロネコを、腰をいたわりながら抱きかかえる。
そして、何の警戒もなく頭を撫でまわす。
「私の愛猫に似せて作った影猫だ。可愛いだろう。それに決め手となる仕事もしてくれたみたいだね」
ローブで、雨に濡れた猫の顔をなぞる。大層な可愛がりようだ。
「あれ……? そういえば、君はなぜ生き残ったのか?」
宙づりになった俺がニヤリと笑う。
爆ぜたのは、その直後だった。
音よりも早く、影がディゴールの体を貫いた。
「……っ!?」
爆発。
ディゴールの手の中で、クロネコが膨れ、弾けた。
爆発の余波が雨を吹き飛ばし、木々をしならせた。
泥が舞い、熱風が抜けたその中心――そこに、ディゴールがいた。
倒れていた。膝をつき、胸を押さえていた。
顔を上げた彼の表情には、いつもの余裕がなかった。鋭い視線が、真正面から俺を貫いてくる。
ようやく、その目に怒りと本気が宿った。
鍋をかき回していた不気味な魔女から、ガキにリンゴを盗まれて全力で追いかけまわす魔女への変貌みたいな感じ。おー、こわこわっ。
「……やっと、本気だね」
俺は、宙づりだった足首を掴む影が緩んだのを感じ、地面に落ちた。よっと。丁寧に着地。
痛みに顔が歪むが、それでも勝手に口が笑った。してやったり。
「つ、つられたクマー。……ハチ君、何をしました?」
ディゴールの声は低く、震えていた。怒りではない。理解を求める、焦りのようなもの。
まあヒントをくれたのはディゴールだし、返答しよう。
「……言ってたじゃん。スキルって、進化するんだろ?」
俺は、先ほど聞いた言葉をそのまま返した。
「爆発した直後、偽物の猫を、俺の修理スキルで再利用した。それだけだよ」
ディゴールの目が、ほんのわずかに見開かれる。
「スキルを修理するなんて発想、一切持ったことがなかったよ。でも、あんたがスキルは進化するって言うから、可能性を考えていた」
呼吸は荒い。肺が焼けるように痛い。けど、喋るのは止まらなかった。へへっ、してやったり。最高だぜ。
「まさかあんたのスキルを修理して、自分のものにできるとは思っていなかったよ」
ディゴールが、口元に手を当てた。
そして血を吐いた。咳とともに、濃く赤い血が、地面に垂れる。
でも。
「ははっ」
あちらも笑った。
この状況で。
影を震わせながら、顔をしかめて、歯を剥いて――でも、確かに笑っていた。
「……いいですね、君。とても、いいです。咄嗟にそんな判断が出来る人間が、100年生きて来た中でも一体何人いたでしょうか……。グランくらいですかね」
その顔は、どこか嬉しそうだった。
ほんの少し、期待すら感じるような奇妙な笑顔だった。
立ち上がってまだまだやる気満々のディゴール。傷の深さくらいでは、このレジェンドの戦意を削ぐことは出来なかったらしい。
小さく咳を吐いたその拍子に、体勢が崩れる。雨が少し強くなり、ぬかるんだ地面に足を取られたらしい。やっぱりダメージあんじゃん。
「へへっ……」
少し笑う。
俺は、泥まみれの体を起こして、口元を拭った。
「笑っている程、有利ですか? 武器を落としたのは知っていますよ」
ディゴールが呻きながら身を起こし、こちらを見据える。
「絶望的な状況から勝機が見えて来たんだ。そりゃ笑うよ。お互いに満身創痍だ。このままなら、体力差で俺が勝つ」
「ふぇっふぇふぇ。あまり、修羅場をくぐり抜けて来た老人を舐めない方がいい」
「修羅場をくぐり抜けてきた小物の粘り強さもな」
俺は、さっきディゴールが滑った地面をちらりと見た。
雨はますます強くなる。
おれは使えるね。
影に押し込まれる前に、こちらから攻める。
ディゴールへと近づく勢いで、軽く地面に触れておく。
そして、一気に距離を詰めて、身体強化の籠った拳で殴りかかる。
「うおっ……らああっ!!」
全身の痛みに構わず、俺は拳を突き出す。
ディゴールはその拳を、片手と影とでなんとか受け止めた。
受けた――けど、余裕はなかった。
影が揺れている。
さっきまではその影で場を支配している感じだったのに、今は必死に補ってる感じだ。
「……!」
それでも、この老人は動いた。
膝のバネ。重心のぶれなさ。体勢を崩したと思わせての捻り返し――
全然、じじいの動きじゃねぇ!!
「マジであんた、どこが年寄りなんだよ……」
俺の蹴りを、低い姿勢で受け流しながら、ディゴールが言った。
「ふぇっふぇふぇ。グランはもっとやるぞ」
知ってる。
そのまま、影が俺の視界をふさぐように伸びてきた。
対処は出来ているが、狙いは明白。時間稼ぎしたいのは見え見えだな。
流石にダメージが効いているらしい。だって、それは俺も同じものを貰ったからよく理解している。めちゃくちゃ痛い。辛い。すぐに辞めたい。でも、止まらない。
バックステップ。地面を蹴って距離を取る。
ディゴールが影を飛ばす間に、俺は背を向ける。
先ほど落とした変刃がある方向へと走り出す。
爆発で吹き飛ばされた、俺の相棒。
時間をくれるなら、取りに行くまで。
背後から音がした。振り返らなくてもわかる。ディゴールが後を追って来た。この状況で変刃を手にされるのはまずいと感じたらしい。
冷静に影で追えばよかった。もしや、それすらできない程ダメージを負ったか?
どちらにせよ、駆けだした瞬間、その先には俺が準備していたものがある。
「解除」
小さくつぶやいた。
地面にかけていた修理スキル。
ドロドロにぬかるんだ地面をガチガチに固めておいた。
勢いよく踏み込んだディゴールが、修理スキルを解除して泥に戻った地面に足を取られる。
ズルッ。
湿った音がして、何かが崩れるような音がして、そしてドサッ、と鈍い音がした。
「っ……ぐっ……!?」
ディゴールが倒れた。
足を滑らせ、アタリどころが悪かったのか、呻き声を漏らしていた。
その隙を、俺は見逃さない。
飛びかかるようにしてディゴールの体を押さえ込みそのまま、腕を回して、首元をがっちりと抑えつける。
「あんたの言う通りだ。スキルってのは本当に便利だな!」
「……ぐぬっ!」
息が切れてる。腕も震えてる。
でも、俺の体重が全部ディゴールにかかってる。そう、易々と脱出させるかよ。
「……!!」
ディゴールが、下から俺の体を押し返してきた。
体が浮いた。肋骨がきしんだ。
信じられない力だった。さっきまでフラついてたはずなのに。
「バケモンかよ」
「影を使えば、まだ勝機はあります」
「……やらせるかよ!」
足を絡ませ、腰を落とし、全体重をかけて、腕に力を込める。
喉元を抑え、肩で押さえつけ、体をずらして、動きを封じる。
泥にまみれた体。雨に濡れた服。呼吸も限界だった。
それでも負ける訳には行かない。
「いい表情です。……若き日の戦場を思い出しますね」
必死であがくその顔が、間近にある。
少し怖い。
「わりーな。ディゴールさん。これからは俺ら若者の時代だ。今年は大物の粒ぞろいなんだ。彼らの邪魔はさせないよ」
ギリギリの力で、拳を振り上げた。
「だから、失礼!」
そして――思いきり、殴った。
ごっ、と鈍い音がして、ディゴールの体から力が抜けた。
そのまま、ぬかるんだ地面に、沈み込む。
動かない。もう、影も、這い寄ってこない。
……勝った。
手が震える。足も震える。全身が痛む。
それでも俺は、ゆっくりと顔を上げた。
空は、まだ雨だった。
灰色の雲。冷たいしずく。世界が静かになる。
俺は、泥にまみれた顔を上げ、ぽつりとつぶやいた。
「……みんな、終わったよ」
雨が頬を伝う。涙じゃない。ただの雨だ。たぶん。
気を失ったディゴールの体をまさぐる。
金目の物を探っている訳じゃない。いくら小物の俺でも、そこまで落ちぶれてはいない。
そして、予想していた物を発見する。
「……ディゴール、あんた。やっぱり、準備してたんだね」
この試験、やはり全部ディゴールの思惑通りだったんだという確信めいたものを見つけた。それをポケットに仕舞うと、目当ての者を見つけた箇所からもう一枚紙が出て来た。
それを手に取り、雨から守るように広げた。
そこには目を疑う内容が書かれていた。





