23、愛しい人
「……落ちつけ。大したことやない、そう言い聞かせるんや。俺が言った言葉と、おんなじくらい強く体に言い聞かせ」
「離して!!離してよ!!」
「離したらまたどっか行くやろうが!ええか、よく聞き、俺は卒業したらあの家を出る!」
逃れようと身をよじる私を、兄はむりやり押さえながらそう言った。
「に、兄さん…」
「幸い、バカの一つ覚えで、サッカーだけはよう出来る。いくつかクラブから話も来とるし、もしかしたら、国を出るかもしれん。…そしたら、二度とお前らの前に顔見せへん。今日みたいな迷惑もかけへんようになる。…それでええやろが」
何を自分勝手なことを言っているんだろう。
いなくなる?
こんなに私を打ちのめして、粉々に砕いておきながら、何も責任を取ることなく出ていくというの。
それこそ、そっちの方が迷惑極まりないと、どうして気付いてくれないのだろう。
「家族ごっこなんぞ、よう出来ん。きょうだいごっこもや。俺は兄貴とちゃう。お前は、俺にとって妹やないねん、最初っから…」
逞しい兄の腕できつく抱きしめられながら、私は、必死に胸を落ち着かせていた。
そして軽く錯乱しながらも、どうして私たちに血の繋がりがあるのかを考えた。
それさえ無ければ私たちは、例えば普通に出会って仲良く友達になることが出来たのだろうか。
もしくは義理の兄妹であれば、もし恋愛感情を抱いても、その先に肉体関係を結んだとしても、何も不自然なことはなかったのだろうか。
「私も……そうだった」
「お前はそうやないやろ。兄貴がほしかったんやろ」
離そうとしない兄の腕を、私はゆっくりとほどいた。
今度は兄も抵抗せず、されるがままになった。
少しだけ隙間を開けて兄に向き合うと、兄は少し苦しそうに、何かを我慢するように目を細めて私を見つめている。
あんなに不誠実でふしだらな兄が、今、こんなにも誠実で理性的になっているのが、少し可笑しい。
「俺が気持ち悪いやろ。怖いんやろうが。せやから、関わらんどけ、言うたんや」
「うん。そうだね……本当に、その通りだった」
残酷にも正直にそう言うと、兄の野生動物のようにしなやかな筋肉が、瞬時に強張るのが分かった。
愛おしかった。
これを変態と呼ぶのなら、もうそれで良かった。
生温かい吐息が、濡れきった頬にかかる。
兄の顔を間近で見るなんて貴重で、じっくり眺めていたいのに、怖くてそれもできない。
視線を反らしがちに仰ぎ見たその先で、射るように、飢えたように私を見る兄の瞳を見つけた。
その中では、兄と同じように餓えた瞳の女が、こちらを見つめている。
似ている。
確かに同じ血が流れていると、私はここでようやく認めることができたのだった。
けれどその事実は、今の私たちにとっては苦いだけで、何の救いにもなりはしない。
そのことだけが、すべてを否定してきた私たちの唯一の繋がりだ、虚しくて、悲しい繋がり。
「兄さん、私、兄さんが…」
だって、今目の前で、同じような表情でいるこの人が、こんなにも好きだと思う。
いったい、恋愛感情であるのか、家族愛であるのか、判断もつかないけれど、愛おしいと思う気持ちだけは確かにあって、こんこんと溢れだすのだ。
あんなに嫌いだと思っていたのが嘘のように、私は兄さんが好きで、好きで、仕方がなかった。
そんな私の前に横たわる血の繋がりは、もう、忌まわしいものでしかなくなっていたのだ。




