第19話 悪夢の始まり
ユダは森を抜け、さっさと村を離れようとしていた。
「……終わった……やっと解放される」
あの日から、私の悪夢は始まった。
───
二年前、ユダの自宅。
家の扉が乱暴に蹴り開かれ、数人の男たちが雪崩れ込んできた。ユダはとっさに前に出たが、横から飛んできた拳が頬をえぐるように命中する。
「ぐっ……!」
身体がよろめき、唇の端から赤い雫が零れて床を染める。血の一粒が広がるのと同時に、妻エミリと娘リリは男たちに押さえつけられた。
「動くな……! 家族がどうなってもいいのか?」
「やめろ! 金なら渡す! 家のもの全部持っていけ! だから、妻と娘には手を出すな!」
「金などいらん……お前の知識がほしいだけだ」
「知識……だと……?」
男の言葉に、言葉を失う。だが男は冷たく続ける。
「お前が俺たちの言うことを聞けば、この二人には手を出さない」
ユダは震える声で従った。家族は布をかけられ、馬車に押し込まれ、何日も揺られ続けた。
──
森の奥。鬱蒼とした木陰に月光が差すころ、馬車は荒々しく引き戻された。フードを深く被った男が一歩前に出る。
「……やっと連れてきたか」
冷たい声が響く。男は命令するように合図を送り、妻と娘は引き離された。
「あなた! 科学で人を傷つけないで!」
「黙れ!」
エミリの叫びは切り裂かれ、リリは泣きながら父に手を伸ばす。
「お父さん!」
その小さな手は無情に引き剥がされ、乱暴に抱え上げられていく。
「やめろぉっ!!」
ユダは必死に追おうとしたが、背後から拳が飛び、顔面に鈍い衝撃が落ちる。赤い雫が落ち、世界が波打つように歪んだ。
「お前はこっちだ……」
気を失う直前、ユダは「家族に手を出すな」と繰り返した。
──
目を覚ますと、湿った石壁に囲まれた薄暗い地下室だった。階段の燭台が揺らめき、フードの男が静かに話す。
「リザエルのために、化学兵器を開発しろ」
(こいつは隣国か?)
男の口調は冷酷だ。
「サハラ王国の王都中心に――即死ではなく、二日後に致死する時間差の毒を作れ、そして解毒剤も用意しろ」
「私にそんなことは……。私はこの国のために科学を学び、貢献してきた。できない――」
ユダの声は震える。だが、フードの男は淡々と告げる。
「いいだろう。どうせお前は私の指示に従う。お前は常に監視されている。忘れるな」
その一言が胸の奥に突き刺さった。
──
三日後の夜。ユダは監視が手薄になった瞬間を突いて、階段を駆け上がり扉を開け、森へ飛び出そうとした。だが一歩も外へ出ないうちに捕らえられ、力尽きた。
翌日、暗い地下に投げ込まれたものがユダの目に入る。膝が崩れ落ちるような寒気が走った。
それは――柔らかな金色の髪束。娘リリの髪だった。
「次は……髪では済まないぞ」
冷たい声が地下に響く。ユダの顔から血の気が引き、腿が崩れ落ちる。
「研究に必要な物は用意する。さっさと作れ」
「わかりました……」
──
やがて小麦畑の実験が行われた。毒の広がり方、作物の枯れ方の経過を計測するための冷徹な観察。
一年前、化学兵器と人工隕石の“発明”は成功した。
理屈の上では、霊獣では浄化できないはず――だが。
まさか、ダンゴムシの霊獣が浄化してしまうとは。
重金属を体内でイオン結合出来る生物がいるとは……。
科学がどれほど進んでも、この世界には未知の力が存在した。
「……失敗してしまった」
フードの男が階段を降りる足音が、冷たく石を叩く。
(あの男だ……私は殺されるのか……)
フードの男の口元がニヤリと笑う。
「ユダ……お前の娘、歳は10歳くらいだったな……綺麗な顔立ちだったな」
「──!」
「海外に売っても良いな」
ユダは震えた声を漏らす。
「ふざけるな! 霊獣に効く毒の開発は成功したはずだ!」
ユダの言葉を遮るように、フードの男は冷たく吐き捨てる。
「だが……失敗した」
「結果、最弱と見下したダンゴムシに浄化されてしまった。すべて計画が台無しだ」
男の目は暗い。続けて低く言った。
「今回のお前の失敗で、どちらか一人を殺しても良かった。だが次は許さん。さらに浄化できない化学兵器を作れ。解毒剤も必ず用意しろ。――あんな最弱の霊獣に浄化できない毒をだ……」
ユダの胸を締め付けるような沈黙。男の声が、さらに冷たく付け加える。
「そして、あのダンゴムシと霊獣使いを始末すれば、お前達を解放してやる。失敗したらわかっているな、ユダ」
「わかりました……」
──
ユダは、その後何度も自殺を図ったが、ことごとく未遂に終わった。
「本当に……妻と娘は生きているのか!」
ユダはついに叫んだ。
精神が崩壊しそうになった……。
もう限界だ……。
「彼女たちの生死が分からないなら、私はもう協力しない……!」
フードの男は一瞬だけ口元を歪め、無造作に何かを投げてよこした。
それは一通の封筒だった。
「……手紙、だと?」
震える手で開くと、そこには見覚えのある筆跡が並んでいた。
『私たちは無事に過ごしています。リリも元気です』
その文字を見た瞬間、ユダの胸が締め付けられた。
妻エミリの文字だ。
だが、ユダには分かった――震えながら、泣きながら書いた文字だということを。
「……エミリ……リリ……」
涙があふれ、視界がにじむ。
(私のせいだ……私の知識のせいで、彼女たちはこんな目に……)
ユダは奥歯を噛みしめ、頭を垂れた。
フードの男が冷たく告げる。
「手紙を見たな。協力しろ。さもなくば……分かっているな?」
ユダは拳を握りしめたまま、低くうなずくしかなかった。
逃げ場などない。精神はじわりと蝕まれていく。
残るのは――家族だけだった。
妻達だけが、ユダの最後の救いだった。
───
そして現在。
「確か……ここが合流の……場所」
その時──
「……こんにちは、ユダさん」
「──っ!?」
木陰から、ヤコブが立っていた。
穏やかな笑み。しかし、その目だけは鋭く光っている。
続く




