貴女の力に、わたしはなりたい。
周囲の人間が伊奈瀬優香に対して抱く印象は、大体が《健気な優しい女性》というものだった。
彼女の実直で、誠実であろうとする姿勢は周囲の誰もが評価している。
だからこそ、当時あのVR事件が起きた時、伊奈瀬優香をよく知る人間は校内に広がった噂に対し驚愕したのだ。
友人、知人、中学の元担任からやクラスメイト――彼女を以前から知る者であれば、間違いなく耳を疑うだろう。
伊奈瀬優香が、犯罪を犯すはずがない。
彼女を知る人物なら誰もが一度は思うことだ。
だからこそ、金城も、高田も、吾妻も……ペン太郎も、伊奈瀬とは普通に接した。
だが、それは果たして正しい行為なのか――。
伊奈瀬と必要以上の関わりのないものにとって、彼女はやはり不穏分子でしかない。
クラスメイトであっても、伊奈瀬に対する疑念をぬぐえるほど、彼らは互いを知らないのだ。……かと言って後に彼女の人と為りを知ったとして、それが彼女に対する疑念を拭ってくれるかは定かではないが。
しかし、疑念が消えなかったとして――もしかしたら、それこそが《《普通》》なのかもしれない。
♢♢♢
「あ、ごめんなさい」
「……いえ」
6月13日。VR事件から4日が経った金曜日。
伊奈瀬に対するクラスメイトの態度は相変わらず他所他所しいものだった。
それもそうだろう。伊奈瀬が事件の被疑者と断定されたわけではないが、疑いが晴れたわけでもなかった。
多くの生徒は、風紀委員会が噂を否定しているにも関わらず、伊奈瀬を疑わしきもとして扱っており、校内を包む空気はあまり良いものではなかった。
さきほど、伊奈瀬が教室で肩をぶつけてしまった相手も決して伊奈瀬とは視線を合わすこともせず、そのまま室外へと向かった。ひそひそと友人たちと悪意ある秘密話をしていることは、その歪んだ顔から見て明らかだった。
「――伊奈瀬さん」
誰かの声が、聞こえた。
教室の窓際に設置された自身の席につきながら、少し憂鬱そうに授業の準備をはじめていた伊奈瀬は、その非常に聞き覚えのある声に、困ったように答える。
嬉しい気持ちと、憂いげな感情が混ざった複雑な微笑みが、小さな顔を飾る。
「吾妻さん」
話しかけてきたのは、やはりというか友人の吾妻だった。
大きな丸眼鏡をかけた可憐な少女もまた、伊奈瀬のように曇っていた。きっと、伊奈瀬のことを心配しているのだろう。
「だ、大丈夫……? これ、よかったら」
「ありがとう」
そっと差しだされた青い包装紙で包まれたチョコレートバーを見て、伊奈瀬はほんの一瞬だけ逡巡すると静かにそれを受け取った。
こんなところを他の誰かに見られたらと思ったが、誰もこちらを見ていなかった。敢えて視線を外しているのかもしれない。
もしかしたら巻き込んでしまうのではないかと伊奈瀬が心配していた吾妻は、なんだかんだで以前と同じような学校生活が送れているらしい。
伊奈瀬と親しくしていたこともあり、似たような扱いを受けてしまうのではないかと危惧していたが、クラスメイトの意地はそこまで悪くなかったらしい。
美味しそうな色をしたチョコレートバーを一口齧り、伊奈瀬はホッと息を吐いた。
「おいしい」
「良かった」
「吾妻さん、いつもお菓子持ち歩いてるよね。甘いもの好きなの?」
「う、うん……疲れたときは、これを食べると元気が出るから」
「そっか」
普通のチョコレートより少し甘みが強いチョコレートバーは、美味しかった。
心を蝕んでいた暗い気持ちが、ほんのりと薄まった気がした。
「うん、私も元気でた。ありがとね、吾妻さん」
「ううん」
「じゃあ、私もう行くね」
「え、あ、」
これ以上は一緒に居られない。あまり親しく話し続けると、吾妻にまで噂が伝染しそうだ。
伊奈瀬は周囲の視線を集めないように、そっと席を立つと吾妻に笑いかけた。
「大丈夫だよ」
こんな孤立するような状態になってしまった自身を気遣う友達が居るだけで、伊奈瀬は頑張れる気がした。
だから、今日も一日、堂々と学校に居られる。
「――全部終わったら、また一緒にごはん行こうね」
♢ ♦
同日、午後四時十分。1年E組、教室。
「――じゃあ、俺は一旦ここで」
「ああ、悪いな。色々めんどうなこと任しちゃって」
「いや、伊奈瀬さんのためだし、俺は全然……」
週最後の授業が終わり、多くの生徒が帰路を辿っている中、人影が殆ど見当たらない教室の前で、高田と金城は何やら話し込んでいた。
どうやら二人は此処から別行動を取るらしい。
通学鞄を肩にかけた高田は学校を後にするようだ。しかし、廊下を一歩踏み進んだところですぐに立ち止まり、高田は扉の前に佇む金城へと振りかえった。
「なぁ金城……お前の推測通り、確かにあれはあまりにも不自然すぎるけど、お前の推測が合っていたとして……じゃあ、あの現場に残っていたっていう《マルウェア》はどうなるんだ?」
「――――さあ」
「はい?」
まさかの返答に、高田が言葉を失う。
「……え、さあって、お前」
「それも今から調べる」
「……は、はぁ!?」
あまりの言葉に、素っ頓狂な悲鳴が上がった。
その声に、金城はバツが悪そうに視線を泳がせると、ぼそぼそと言い訳のような言葉を紡ぐ。
――別に、推測がついてないわけではない。なんとなく想像はできた。ただ、確証となるものが欲しいのだ。
「いや、うん。一応、大体こんなんなんだろなーってのはあるんだけど、ちょっとウィルスとかサイバーテロについては俺も詳しくないからさ。なんとも……」
「お前……」
「な、なんだよ」
金城のその言葉に呆れを覚えたのだろう。高田の目が一瞬で白くなり、心なしか冷淡さが宿って見えた。
「やっぱ、お前――馬鹿だわ」
ぐさりとその言葉が、鋭利に金城の胸に突き刺さる。
結構なダメージだったのだろう。ぐっと心に開いた傷口に金城が苦しそうに手を当てるが、高田は構わず言葉の刃もどきを向けた。
「……いや、なんかちょっと、うん。まあ、普通じゃないよな。やっぱ、お前、馬鹿だよな」
「え、なに。なんか、すっごいさりげなくディスられてるよね、俺? なに、何なのお前。第二の糞地なの?」
「くそぢ?」
「昔から俺をディスるサディストだよ……もう、いいや。なんか、疲れたわ」
気のせいか、金城の顔に哀愁が漂い始めた。
けなされるのは慣れたものだと、勝手に語り始めようとする金城。それを聞かされる羽目になりそうになった高田は「さあ、仕事だ仕事だ」とばかりに足を一歩、後退させた。そんな、時。
「あ、あの――」
金城の不毛な語りに、鈴が転がるような声が滑り込んだ。だが金城は気づいていないのか、構わず口をべらべらと喋らせている。
「――大体、みんな俺のこと馬鹿だとかアホだとか言うけどさ。ここに入学できた時点で、もう既にアホじゃないし。大分、前より」
「あれ、吾妻さん?」
「ん?」
ぱちくりと目を瞬かせて、驚いたように声を上げる高田のお陰でやっと気づいたのか――高田の視線の先――自身の右側へと視界を動かして、飛び上がった。
「――ぅおっ!!」
いつのまにか、隣に立っていた小さな人影。
170センチはある金城の胸元ほどしかない背丈の少女に、今の今まで気がつかなった金城は悲鳴を上げながら教室の扉に背中を打ち付けた。
可愛らしい小さな鼻の上にちょこんと乗る大きな丸眼鏡に、大きな円らな瞳。
肩を縮こませて、こちらを見上げる――びくびくと震える小鹿を連想させるような佇まいの彼女は、金城も高田もよく知る人物だった。
「――吾妻さん。ど、どどどどうした? なんか、あった?」
未だに驚きから平静な状態へと戻れていないのか、大きく吃りながら金城は問いかけた。
それに対して、人見知りが強い吾妻は必死に言葉を探そうとするが、すぐに困ったように俯き、口を閉じた。
それでも何か言いたいことはあるらしく、金城の前から一歩も動かない。
「いえ、その……」
「……」
「……」
だんまりとしたその様子を高田と一緒に見守っていた金城は、ふっと何か思い当たることがあったのか、あっと、目を見開いた。
(――もしかして、)
伊奈瀬のことか。
そうだ、それしかない。そう思った金城は口を開こうとするが、一拍先に吾妻がしゃべる勇気を振り絞った。
「……事件に、」
小さな声がちょっとだけ震えた。だが、すぐにキュッと唇を引き締めると吾妻はもう一度、先程よりもハッキリとした声で、金城たちに話しかけた。
「事件について、調べていると聞いて、」
途切れ途切れではあるが、それでも懸命に言葉を紡ぐ。
「……伊奈瀬さん。教室で一人で」
なんとなく、吾妻が何を言いたいのか金城たちにもすぐに察せたが、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
「わたし、話しかけることが殆ど出来なくて、できても、直ぐに会話が終わっちゃって、……なにも、」
ふっと、また言葉が途切れる。数秒の沈黙が落ちた。
「……私にも、何か出来ることは……ありませんか?」
吾妻が一番言いたかった言葉はそれだろう。
彼女は伊奈瀬のために、何かしたかったのだ。
人と話すどころか、目を合わせることも苦手だろうに、緊張からか潤む瞳を律儀に金城に合わせようとする吾妻に、金城は苦笑した。
「大丈夫だよ」
返した言葉はそれだった。一瞬だけ、吾妻の瞳が揺れる。
それでも金城は構わず優しい笑顔を意識して、言葉を続けた。
「吾妻さんは十分に力になってくれていると思う」
そう言って、金城は去年のことを思い出していた。
考えてみれば、あの時の自分も、今の伊奈瀬と同じような状況に陥っていたのだ。
「俺も、中学ん時に孤立しかけたことがあったんだけどさ」
悪意ある周囲の視線。自身を集団の外へと追いやろうとする言葉。常に置かれていた人との距離。
なによりも金城にとってきつかったのは、道標となるべき担任からも手を離されそうになったときだった。
けど、あの時は――単に、金城に見えていなかっただけだ。
いつの間にか自分を監視するように立っていた、口うるさい教育実習生と、常に隣で笑ってくれた可憐な友人。たった二人だけだったけど、その二人から金城は希望をもらっていた。
「ほんの少しでも、話しかけてくれる人が居ると、けっこう救われるもんだよ」
今の伊奈瀬はひとりじゃない。
金城が居て、高田が居て、同じクラスには彼女を想う吾妻が居る。
だから、きっと大丈夫だ。今は――。
「大丈夫。吾妻さんは十分ちからになってる」
金城の言いたいことが伝わったのだろう。
吾妻は必死に合わせていた視線をふっと外すと、自信なさげに続けた。
「……なれてる、のでしょうか」
「うん」
悪いことをしたわけではないのに、まるで叱られた子犬のように、こちらを見る吾妻に金城は力強く頷いた。
それでホッと肩の力が抜けたのか、吾妻は眉間の小さなシワを解くと、スカートのポケットから赤い包装紙に包まれたチョコレートを取り出した。
「あの、これ――」
おずおずと差し出された2つのお菓子を見て、高田が目を輝かせながら二人と距離を詰めてくる。
金城も小腹が空いていたのか、嬉しそうに声を上げた。
「お、いつものチョコ!」
「いいね。吾妻さんが持ってる奴うまいんだよな」
「ありがとな。お陰で俺らもやる気出たよ!」
「いえ、」
小さな手のひらに乗るチョコレートを摘み、包装紙を解いて口に放り込む。
ほんのりとした甘みが、金城たちの口の中で広がった。その美味さに、二人の顔がだらしなく緩む。
「次は、この前くれたあの青い奴が良いな。すっげぇ甘かったけど、あれ、結構くせになる味で好きだったからさ」
「はい」
高田の言葉に、吾妻がいつになく力強く答えた。
心なしかその頬はいつもより赤みを増し、常に内気だった吾妻を明るく見せていた。
可愛らしい笑顔に、金城と高田の胸がほっこりと温かい感情を覚える。小動物を前にしたような、なんともいえない癒やされ感を二人は感じた。
――刹那。
「俺も、一個もらっていい?」
だらしなく緩んでいた二人の顔が一瞬で、極寒のような凍てついた表情へと豹変し、ひっとそれを間近で見ていた吾妻は小さな悲鳴を上げた。
そっと、先程の声の根本――金城たちの背後を覗き見る。
二人の気持ちを一瞬で冷たい海底まで落下させた犯人は、にこにこと白々しい笑顔でこつこつと徐々に距離を縮めながら、右手を振っていた。
非常に見覚えのある相手の名前を、吾妻が小さな声で呼ぶ。
「――さ、三枝くん」
一体、何をしにこんな関わりのない教室までわざわざ足を運んできたのか――厄介な相手が、そこに居た。
すみません。遅くなりました。




