疑うべきは、
「……」
『……』
とある更衣室。真っ白な空間に並ぶ灰色のロッカーの前で、土宮香苗は立ち竦んでいた。
「――ちょっと、ツッチー! 黙ってないで何か言いなさいよ!」
百六十五前後の身長持つ香苗より、頭一つ分は小さい女性が小声で彼女を叱咤する。だが、土宮香苗はまるで反応を見せず、ただじっと、只管に自分の通信機器へと耳を傾けていた。心なしか、耳にイヤホンを押し当てている手にじんわりと汗が滲んでいる。
『え、と――なえ、センですか?』
左耳へと土宮香苗のよく知る声が響き渡った。途端、がばりと隣の女がしがみつくように己の右耳を彼女のイヤホンへと押し当てる。
橙色の瞳がさっさと答えろと訴えるように、香苗の腕を小突く。
すると、ゆっくりと香苗は口を開いた。
「――相手を確認するのなら、まずちゃんと渾名ではなく本名で尋ねなさい。非常識よ」
『――あい。すみませんでした』
出てきたのは叱る言葉だった。
条件反射か、即座に相手から謝罪の言葉が返ってくる。その声色はとても低く、機械のように固い。隣の女がずっこけるように足を滑らせた。
「――第一声がそれ!?」
まさかの会話の切り出しに余程動揺したのか、声を潜めることも忘れて女は突っ込んだ。だが、土宮香苗は女の叫びに振り返ることもなくそのまま通話を続けた。
『いや、てか、え。あの、これ、どういう』
「私がうっかり自分の以前の通信番号を同僚に漏らしたら、彼女が勝手にソレにかけて、今貴方に繋がったのよ」
『……はい?』
突然、前触れもなく以前お世話になった元教育実習生から連絡をよこされた少年が、困惑したように声を漏らす。いや、困惑というよりは未だに現状を掴めていない、と言った方が良いだろう。
「ごめんなさい。私もちょっと、頭が……」
『はぁ?』
いつにない香苗のか細い声に、金城の声が裏返った。
頭痛がするのか、香苗が額に手を当て隣の女を睨んだ。女は誤魔化すようににっこり笑って香苗から目を逸らした。どうやら事の元凶は彼女にあるらしい。香苗は疲れたように溜息を吐くと、金城へと意識を戻す。
「とにかく、驚かせて悪かったわ。もう、これで切るから気にしないで。色々と大変でしょうけど、勉強頑張ってね」
『え、』
「――え、もう切っちゃうの!?」
背後で同僚の女が驚いたように大声を上げる。何かと口を挟んでくる彼女だが、香苗は慣れているらしく、気にした様子もなくそのまま通信を切ろうとした。
『あのっ!!』
だが、少年の引き止めるような声に手を止める。
「なに?」
『……いや、あの。その、』
自分から呼び止めたくせに歯切れ悪く言葉を口にする金城に「はっきりしろ」と、ぴしゃりと香苗は言い放った。すると、半年の間に蓄積された脊髄反射か、瞬時に金城の口から本題が飛び出た。
『ちょっとした事件について相談があります。はい』
「――事件?」
『はい。つっても、あの、そんな大したものではなくと。あーと、そのー……』
少年の口が再び濁りだした。それに対して香苗は一瞬眉を顰めると、すぐに何かへ思い至ったのか、相手の核心を突く。
「学校が何者かにサイバー攻撃でも受けた、とか?」
『え――!?』
まさか、言い当てられるとは思っていなかったのだろう。香苗の発言に金城は驚いたように声を漏らした。
『な、なんで――』
VR事件についてはマスコミも触れないように箝口令が敷かれていたはずだ。行政機関からも重い圧力がかかっている中で、一体どうやって香苗にその情報が伝わってしまったのか――。
「――なんて適当に言ってみただけなのだけれど、まさか本当に当たるとはね」
『あ、いや――あの、そのですね!』
必死に事を誤魔化そうとする金城。そのあまりにも無様な慌てぶりに「はあ」と香苗の口から溜息が漏れでた。
「次からは隠し事を言い当てられてもちゃんとポーカーフェイスを保つことね」
『――はい、すんません』
幾分か沈んだように聞こえる声に、香苗は一つだけ訂正を入れる。
「さっきは適当に当てたと言ったけれど、実際にはこっちにも少し話が流れてるのよ」
『こっちって、』
「……大学の行政学部」
『まさか……』
「噂程度よ。誰も、信じてはいない」
落ち着いた声色で話す香苗に、金城が口を閉ざした。
同じ空間に居る女が、少し責めるような眼差しを香苗に送る。香苗は構わず会話を続けた。
「殆ど存在しない事件として扱われていると思うから、貴方も次から誰がなんと言おうと知らないふりをしなさいね」
『はい』
「……それで、相談というのは?」
『……』
通信の向こう側で金城は沈黙を守った。恐らく話していいのか考えあぐねているのだろう。
相手の背中を押すように、香苗が言葉を足した。
「事件の内容は話さなくて良い」
『え、』
「君が私に相談したいのは、何のため? 事件の解決? 真相を暴き出すため? それともただ不安を吐き出したかった、とか?」
『――』
「黙っていたら、何も分からないわよ』
金城が何を相談したいのか、香苗には分からない。ただ、奴がまた何時もの如く『迷子』になっているということだけは分かっていた。
『――ある人の疑いを晴らしたいんです』
それが、金城の答えだった。
「それで?」
『けど、今のところ疑いを晴らす情報どころか、事件の全貌を暴く手がかりさえ見つからなくて』
「事件の捜査をしている人たちはなんて?」
『いや、それが一向に何かを発表する気配もなくて。あっちもむしろ手古摺っているみたいです』
「……」
『ただ、その。彼らも、その人を犯人とは疑っていないみたいで』
「どういうこと?」
『――』
無言。暫しの沈黙に、香苗も自然と察する。
(言えない、か)
言えない、というよりは何処まで喋っていいのか金城も分からないのだろう。満る静寂の中、香苗は静かに思考し、口を開いた。
自分が耳にした情報は少ない。知っているのは――VRのサイバー講習中にウィルスが流され、潜脳していた生徒が被害にあったということだけだ。
(特定の人物が疑われている理由は、一人だけその時間帯に不自然な場所に居たか、或いは流されたウィルスと関係するものを所有していたか。いずれにしても、事件と関わる何かを持っていた)
其処まで考えて、金城にヒントを仰ぐ。
「その疑われている人は、疑われる理由に心当たりを持っていたの?」
『いえ、本人もすごく驚いていて、戸惑ってました』
「……君は、なぜその人が犯人ではないと?」
『ありえないから、です』
「どうして?」
その問いに、金城は再び押し黙った。「ありえない」と断言する理由を考えているのか、それとも其処にも話せない事情があるのか。
『答えたくないのなら、答えなくても良い』
「……すみ、ません」
『アリバイとかは?』
「事件が起きた時は俺と一緒にいました」
『そう……』
だが、その場に居たとして疑いを晴らす要素にはならないだろう。これはサイバー事件だ。予め仕掛けを作り、タイマーをセットすれば何処からでも犯行を起こせる。
ただ、疑念があるとしたら一つ。あの行政高校で一体どうやって犯行を成功させたかだ。常に監視の目があり、隙間もない警備体制。厳しいロックセキュリティ。それを潜り抜けた犯人は間違いなく常識を逸している。
けど、何より気になるのは――。
「もし、その人が本当に犯人ではないとして――なぜ、その人だったのか」
『――え?』
「犯人がその人に罪を着せるつもりで犯行を企てたのだとしたら、なぜその人を選んだのか」
『――』
「私情か、一番都合が良かったのか、それとも適当に選んだのか」
『それは、』
「金城君。その人のこと調べた?」
『――いえ、』
「なら、まず其処から探りを入れてみたら?」
『いや、あの』
「たとえ、その人が君のよく知る人物だとして、その人の全てを知っているとは限らない。其処から手を付けるのも、一つの道よ」
『……っ』
イヤホン越しに、相手が困惑したように息を飲む音が聞こえた。そして、ふと。香苗の思考にある可能性が走る。
(――待って、)
今、自分が発した言葉を脳内で反復する。
(よく、知る人物?)
行政高校で、金城理人が『ありえない』と言うほど、彼がよく知る人物――。
我知らず、脳裏に浮かんだ名前が口から滑り出た。
「伊奈瀬、さん?」
『――っ』
相手の震える吐息が、香苗の推測を肯定した。その事実が香苗の思考を一瞬だけ奪う。
驚愕と困惑。脳内に渦巻くそれが、次の言葉を探す作業を遅らせる。
「――そう。わかったわ」
だが、すぐに平静を取り戻した。自分がオロオロしたって何も変わらないことは、随分と昔から香苗は嫌というほど知っていた。
「なら、尚更伊奈瀬さんについて洗い直しなさい」
『……は、』
「貴方がその頑固とした認識を改めない限り、貴方の捜査は進まない」
『――伊奈瀬は!』
「真実を見極めたくば、先ずあらゆるものを疑え」
『っ疑えって、』
「まず、自分の眼を鮮明にして。それからもう一度、現場の検証、当時の状況と、周囲の言動を見直しなさい」
『……』
「別に伊奈瀬さん自身を疑えとは言わない。けど彼女の今の状況、周囲とのやりとり、関係を一歩離れた場所から見直す必要がある」
『…………わかった』
納得しているのかしていないのか。渋々といった風に金城が了承の意を示す。
「それから、貴方の見解は?」
『……見解って』
事件や犯人についての材料も揃ってないのに、見解なんてあるわけないだろ。被害妄想なのかもしれないが、少なくとも香苗には相手がそう言っているように聞こえた。
「思ったことを全部言えって言っているのよ」
『思ったこと、』
「あなたが今回の事件に対して抱いた疑念よ。あるんでしょう? 可笑しいと思ったこと。引っ掛かった点が」
『それは――、』
でなければ、ここまで悩んでいるはずがない。
あるはずなのだ。確実に違うと、奴に言わしめる何かが。
「別に私に説明しなくても良い。その頭の中でこんがらがっている思考を全部口にして、一度整理しろって言ってんのよ」
『……』
「私が、今、君に言えることはそれだけよ」
『……』
「それじゃあ――」『悪意が、ある気がするんだ』
通信を切ろうと端末に指しかかった指が止まる。イヤホンの向こうで少年が吐露した。
『確実に、伊奈瀬を狙ったんだと、思う』
「――それは、なぜ?」
確信の色を帯びた声で語る少年に、香苗が問うた。
『犯行を起こすために仕掛けられたのが、真っ先に伊奈瀬を疑わせようとしているとしか思えないものだったから。なんか、うまく説明できないし勘なんだけど……すげぇ執念を感じたんだ』
「……そう」
『それから、キレイすぎる』
「キレイすぎる?」
『あまりにも、あっさり終わったんだ』
金城によって拾われた小さな疑問点に香苗も眉を顰めた――それは恐らく現場に居合わせた奴だからこそ、覚えた印象だ。
『それだけじゃない。証拠がなさすぎる』
香苗は奴らにどれだけの検証材料が残っているのかは知らない。だからこそ金城の少ない、ちぐはぐな言葉をつなぎ合わせることでしか、薄ぼんやりとした稚拙な仮説を立てられなかった。
だけど、金城の抱いた疑念があまりにも的確だったためか香苗の思考も自然と回った。
『ネット上のことだし、しょうがないと思う。でも現場には本当に伊奈瀬を疑わせるもの以外なにも残ってなかったし、学校のセキュリティも簡単に破られていた。本当に一瞬だったんだ』
なるほど。確かにそれは――黒に近い。
『外部からの侵入っていう可能性もあるらしいけれど、知り合いの人は内部だと思っているみたいで、俺も正直、そんな気がする』
「――理由は、あまりにもあっさりと事が進んでいるから、か」
返事はない。だがそれが肯定の意なのだと香苗には分かった。
今回の事件はVRへのサイバー攻撃。どんなに複雑なロックやセキュリティーがかかっていても、敗れるのはいつだって一瞬だ。証拠だって簡単に隠滅できるだろう。
これが――一般のものだったならばの、話だが。
(破られたのは行政高校のネットワークセキュリティー……)
どう考えたってありえない。たとえ万が一にできたとしても、事はそう簡単に終われないはずだ。破られた際の二重対策、バックアップシステム、そして『迎撃型プロテクトウィルス』――犯行を進めようにも、一筋縄ではいかない。況してや、証拠や痕跡を残さずに逃亡など。
ちらりと香苗は背後で聞き耳を立てている同僚の女を振り返った。ふるりと、相手が首を振る。
――ありえない、と彼女も断言するように強い視線を向けてきた。
(ならば、金城くんの言う通り相手は内部の可能性が大いに高い)
短い間に終わった犯行。簡単に逃げきったように見える犯人。それを外部からの犯行として見るのは、難しい。
だが、もし犯人がすでに内部に居たのだとしたら? 最初からウィルスが。それを閉まっていた函が、其処に置かれていたのだとしたら? いや、最初から其処に設置しなくても良い。生徒たちと一緒に自分もさりげなく潜脳すれば良いのだ。
そうすればセキュリティーを破らなくても、潜りこめる。
事実、襲撃の情報はあってもセキュリティーが敗られた話は聞いていない。
しかし、金城は言った。
『――けど監視カメラには犯人どころか人影さえも映っていなかった』
つまり生徒の他にあの潜脳機械を当時の現場、或いは現場の傍で使っていた人物はいないということだ。
では、どうやって犯人は犯行を起こした?
混乱が刹那の間、香苗の中で鬩ぎあい、沈黙する。そして小さな、あるはずのない可能性を口にしてみた。
「だけど」と、香苗の薄紅色の唇から言葉を零れる。
「――犯行を起こすためには、機械を直接使う必要はない」
そう言った瞬間、イヤホンの向こう側で少年が息を飲んだ。
『直接、使う必要はないって――、』
「言ってみただけよ」
香苗のいつものやり方だ。思ったことを全て口にし、被疑者が起こしえるありとあらゆる方法を際限なく口にして、ヒントを探してみる。けど、判断材料が圧倒的に欠けているためかお手上げの状態だった。いや、材料が揃ったところで謎が解けるかどうかは別の話になるが。
「ごめんなさい……聞くだけ聞いておいて、無責任な話だけど、私にはこれ以上なにも言えないわ」
『いえ、こちらこそすみませんでした。少し、頭がスッキリした気がします。ありがとう、ございました』
「……いいえ」
これ以上なにを話しても、金城の手助けをすることはできないだろう。だが、通信を切る前に香苗はもう一度同僚を振り返った。
こくりと、香苗の視線の意味を理解したのか、相手が頷く。
「金城くん……私には分からないなことがたくさんあるし、こんなこと、断言するべきではないのだろうけど」
『なんですか……?』
「今回の事件。君が言ったとおり外部から、というのは、はっきり言って殆どありえない」
そう言わしめる根拠が香苗たちにはあった。
何故なら。もし、外部からの犯行であったならば、こちらももう少しざわついているはずだからだ。
学校の責任者か、誰かがその事実を否定している。それはその人物が犯人だからか、それとも本当にありえないからか。
どちらにしても、香苗たちから見れば、外部からの犯行である可能性は、限りなく低く思えた。だが。だからといってそれを完全に否定することは本来、してはいけない。
「さっき言ったように、あらゆるものを疑いなさい」
先入観を持ってはいけない。たとえ、其処に大切な人が関わっていたとしても。驚くようなことが起きたとしても。目の前のその全貌を”掴む”まで、事象が証明されるまでなに一つ信用してはならない。何故なら――。
「君の見たものが全て、”見た通り”のものだとは限らないのだから」
『……』
その言葉を相手の少年がどう受け取ったのか、土宮香苗は知らない。奴の思考も、立てられた仮説と想像も――彼女は知らない。それでも、土宮香苗は過去の経験から知っていた。
「――人の眼は、簡単に欺ける」
彼女がそう言った瞬間、少年は返す。
『機械だって、欺けます』
はっきりとした口調、澱みのない声色。
『……けど、其処に『何か』があったという事実は消えない』
敬語が抜け落ちた。それが意味するのは――。
『――ありがとうな、なえセン。俺、もう一回現場見直してくる』
つまり、何かを掴んだわけだ。土宮香苗には見えない『何か』を。
恐らく奴が当事者であるからこそ感じた『何か』――金城理人にしか見えない観点。
「早急に事件が解決されることを祈ってます。ただ――君はまだ学生です。それだけは、忘れないように」
『――はい……あの、有難うございます』
ぷつりと、通信が切れる音がした。喋らなくなったイヤホンを耳から外して、端末の画面を落とす。
途端、背後から揶揄うような声が飛び舞う。
「良いのかなぁ? あんな背中を押すようなこと言っちゃって」
「貴女だって止めなかったでしょう」
溜息を吐きながら後ろを振り返った。橙色に染められた短い癖毛が、視界の端で跳ねる。
「へへ」と小柄な女が悪戯気に笑う。
「にしても、まさか本当にサイバー攻撃に遭ってたとは。すごいニュースだね」
「そうね」
「ツッチーの元教え子が当事者っぽかったのも吃驚。攻撃にあったクラスなんかね?」
「さぁね」
同僚との軽い会話を他所に、着替えようと香苗がロッカーを開いた。耳裏ま伸びる、長いハイネック型のインナースーツを脱ごうと手を伸ばす。水着のように太もも回りと肩回りに大きな切れ込みがある其れは、きつく、脱ぎにくい。
ぐっと、スーツの襟を引きずり降ろしながら、白黒のそれを脱いでいく。
それを傍目にしながら橙色の女――由比ガ浜はベンチの上で立てた膝に頑丈をつきながら、ぼやいた。
「でも、本当に良かったの? あんな中途半端なことして。本来なら、止めるべき立場にうちら居るはずだけど」
「止めても、止まらないだろうから」
「じゃあ、調べてあげりゃ良いじゃん。うちらもある意味、関係者なんだし」
どこか不満そうに睨みあげてくる彼女に、香苗は見向きもせずに答えた。
「今の私たちに、そんな余裕はないでしょう。規範にも反する」
「けど場合によっちゃ、うちらに回ってくるかもよ? その案件」
「まだ、テロだとは判明していない」
「いやいや。あの学校にあんなことしておいて、テロリストじゃないって、そりゃないでしょう」
「分からないわよ。実際、情報は全てあの学校で留められているし……」
「えー……」
白いブラウスを衣紋掛けから取り外して、袖を通しながら、香苗はつまらなさそうに顔を歪める女を睨んだ。
「私たちの出番なんて、そうそう無い方が良いでしょう?」
「いや、そうだけどさぁ……」
納得がいかない、と口を尖らせながら由比ヶ浜は天井を仰いだ。
「だから、幽霊部隊っていうか。あんまり注目されないんだよ――特殊急襲部隊って」
気の抜けた声が誰にも拾われることなく、空気に溶けて、消えた。
♢
「――見たものが”全て”と見た通りのものとは限らない、か」
月が満ちる夜。机の前で端末を睨みながら、桐人は独言した。
(あのヤギ……)
脳裏にいつかの白いアバターが蘇った。あの時は、あのなんとも不気味な瞳に恐怖を覚えて、其処ばかりに意識を奪われていたが――。
『――人の眼は、簡単に欺ける』
土宮香苗の言葉が耳奥で木霊した。
機械の眼だって、欺ける。
自分たちが見たもの。見えていないもの。『常識』という先入観に捕らわれて、行きつけなかった答え。
小さな可能性が、金城の頭の中で存在を主張していた。
「犯行を起こすためには、機械を直接使う必要はない……」
床に乱雑に投げ捨てた鞄を拾い上げて中身を漁り、ずっと仕舞いっ放しにしていた己の白い端末機を取り出した。学校に支給されたものとは別の、個人の携帯だ。
画面を開いて、履歴から目当ての人物を探す。メールアドレスと共に、携帯番号が其処には綴られていた。
『ありえないなどと言う事象は、存在しえない。可能性は無限に存在するのだよ』
その『名前』を見た瞬間、声高らかに語った人物の声が、まざまざと記憶の中で再生される。
トン、と躊躇いもなく緑色のボタンに触れた。
五秒ほど、呼び出し音が鳴り続ける。ぷつりと音が途切れ、女にしては重低音といえる声が響いた。
『やぁ、こんばんは。まさか君からかけてくれるとは、思わなかったよ。調査報告でもしてくれるのかな?』
「いえ……あの、」
すっと息を吸って吐き出す。いつまで経っても、こういう危ないやりとりは慣れない。
けど、立ち止まっている暇はないと金城を口を動かした。
「――会長。俺と、取引しませんか?」




