受験（3）
2106年2月29日。午後5時45分。
「た、ただいま……」
「おかえり理人！ どうだった！？」
よろり。緊張が抜けたのか、或いは疲れからか金城は玄関口で膝をついた。顔からは随分と正気が失われており、白を通り越して土気色になっている。
靴を脱がず、座り込んだ金城の元へと母は駆け寄り、心配そうに声をかけた。
「多分、大丈夫だったと思う……400メートル走では49秒いけたし……」
「凄いじゃない理人！ よく頑張ったわね」
掠れた声に金城の母は笑顔を見せて、労りの言葉をかけてやった。それに対して金城はぎこちなく口角を上げ、息を漏らす。
「とりあえず風呂はいってゆっくりしてきなさい。ご飯ももうすぐ出来るから。今日はあんたの好きな餃子よ」
「おお……あんがと」
思わぬ朗報に疲弊した心は少し浮き立ち、気分が上昇する。考えてみれば昼も緊張で碌に食べていなかった。その事実に気付くとともに腹が空腹感を覚え、金城は早く夕食にありつけるようにと速足で脱衣所へと向かった。
「一番の問題は筆記試験ね……」
ぼつり、と沈んだ声色を零す母。脳裏を過るのは昨晩の金城の様子。
別に特に変わったところは無かった。一目見れば何時も通りの息子だな、と思いはしたがふとした瞬間にその面差しに陰りが見えたのだ。
その理由を問いただすことも考えたが、今はそっとしておいた方が良いだろうと言う見解に辿りつき、金城の母は未だその話題には触れずにいた。
「……もう、祈るしかないのよね」
芳しい大蒜と胡麻油の香りに誘われ、唾が金城の咥内を満たす。じゅるり、そんな音を立てながら金城は次から次へと餃子を口の中へと放り込んだ。パリッとした皮に歯を立てた瞬間、じゅわりと肉汁が零れだし、その郁郁たる香が鼻まで込み上げてきた。キャベツだろうか、シャキシャキとした触感が己の食欲を非常に掻き立て、その感覚をもう一度味わいたいがために次のへと箸を伸ばす。皮も手作りされているため、商店で販売されている物より厚く、またもっちりとしている。
「ちゃんと小麦から作ったからね、美味しいでしょ？」
「うん、うまい」
返事も御座なりにまた次のへと手を伸ばす金城。気が付けば50個ほどあったはずのそれは30個へといつの間にか減っていた。
「……あんまり焦って食べるんじゃないわよ」
「わかってふ」
はふはふと口いっぱいに餃子と白米を詰めながら言葉を変えす金城。母はその様を見ながら、眉尻を下げて苦笑した。
「まったく、」
どうやら己の心配は杞憂だったらしい。目の前でガツガツと元気そうに食事をかきこむ金城を視界に収めながら息を漏らす。
「……そういえば」
「ぐん？」
こんもりと頬張ったその様はまるで栗鼠、或いはハムスターのようで金城の母は思わず笑い声をあげてしまいそうになった。もう頬袋と呼んでいいのではないだろうか、と言うほどに頬を膨らましている金城。鼻は呼吸がしづらいのか、ピクピクと穴を通常より広げていた。
「土宮先生が今日いらしてくださったわよ」
「っふぐ！！」
噴きそうになった金城。だがそんなことをすれば食卓が台無しになる。それを避けたい一心で固く唇を引き結んだが、肺から飛び出る息を止められず、喉を通って出てしまったそれは塞がれた口ではなく、鼻から吹き出ようとした。お蔭で口の中にあった食事が共に其方へと向かってしまう。
「ごほっゲホっ……おえ！」
酷いありさまだ。これ以上は正直えげつないので筆舌は出来ないが、兎にも角にも金城は咽た。喉を詰まらせることより、ある意味苦痛なそれに金城は耐えようとする。
そんな息子の苦渋の様子など知らぬふりをして金城の母は言葉を続けた。
「良い先生じゃない。今日わざわざケルベロスくんを迎えに来てくれてね、」
（そういえば確かにあの糞犬がいねーって思ったら）
きょろり、視線を室内に走らせてみると金城は改めて番犬ケルベロスが居ないことに気がついた。その事実にホッと安堵しながら母の話に耳を傾ける。
「言ってたわよ、土宮先生」
――落ちるときは落ちますし、受かる時は受かります。悩む暇があるなら万が一、落ちた時の対処、及び取るべき行動を考えておいてください。
お茶を勧めたが、スッパリと断り家を出ようとした土宮香苗。最後には「突然お邪魔してすみませんでした。ケルベロスを三日間も預かっていただき、有り難うございました」と頭を垂れながら、置き土産を渡された時のことを思い出して、金城の母はクスリと笑った。
「月影屋の饅頭、もらっちゃった」
「……いや、ツッコミ所が多いんですけど」
暢気に饅頭を頬張る母を呆れた目で見ながら金城は頭を抱えそうになった。
「なんだよ、落ちた時って……言わねーだろ普通。あいつ絶対俺が落ちるって思ってるよ」
「そんなことないわよー」
「あ、これ栗がぎっしり詰まってる」なんて軽やかな声で言葉を返す母。何処が“良い先生”なんだか……。
「下手な励ましより、お母さん落ち着いたわよ。確かに悩んでも仕方ないし、ドンと構えるしかないのよね、やっぱ」
「……母さん」
お前は絶対に可笑しい。そう言いたくはあったが、言えない金城。本当に自分はこの女性から生まれてきたのだろうか、と己の遺伝子を疑いたくなった。
「それに、最後に言ってたわよ先生」
「……なに？」
どうせ碌なことじゃないだろ。今迄の記憶をたどりながら、土宮香苗による暴言の数々を耳の奥で蘇らせた。
「“己がした努力が消えることは無いし、それがマイナスになることは決してない”だって、」
「……意外とまともなこと言った！？」
予想しなかった言葉に金城は衝撃を受けた。
その様子に金城の母は眉を顰めながら言ってやった。
「なぁに言ってんの。あんなに熱心に生徒に付き添ってくれる先生、中々居ないわよ。それにまだ実習生だっていうじゃない。事が落ち着いたらお礼をしにいかないとねぇ……」。
何が良いかしら、と金城の母は頬に手を当てながら思案した。だが、それに反して金城の顔色は何処か悪い。
（どうしよう……なんか益々いやな予感がしてきたんですけど。俺、落ちたとか無いよね？）
「明日には槍でも振るのではないのか」と胸に不安を募らせる金城。落ち着いていたはずの鼓動がまた早鐘を打ち始めた。
食事に再び手を伸ばそうにも、何故か億尾にも出せず、食欲がピタリと止んでしまった。
（……おれ、大丈夫だよね？）
励ましとなるはずの土宮香苗の言葉は天変地異の前触れとしか捉えられず、皮肉にも心は不穏な感情で苛まれるのであった――。
そして夜。月が雲に隠れ、暗闇が空を支配する中、金城は一人布団の上で寝転がっていた。時刻は既に深夜の1時を回っているのだが、明かりを消すと更に不安を煽られるような気がして金城は電球を点けっぱなしにしていた。
ほんのりと橙色の明かりが灯る寝室で金城は思考に耽った。瞼の奥で蘇るのは先日、あの問題用紙を熱誠なる想いで埋めていた時のこと、試験終了時間の約30分前。金城は最後の問題にぶち当たっていた。
――なんだよ、これ……
心中で唖然としながら、唯ひたすらに目前の用紙を見つめる金城。その視線の先には一つの問いがあった。
”問100.
実際に自分が機関士としてその現場にいることを想像してみてください。
あなたは今、ビルの20階に居ます。目の前にはあと30分で爆発する時限爆弾。下の階にはまだ逃げきれていない100人もの人間。今のあなたの周りに居る仲間は二人。一人は損傷しており、上手く動けない状態。もう一人は無傷で、あなたと同様、幾らでも動けます。
あなたはどうしますか？”
それは異様な質問だった。恐らく土宮香苗が以前己に忠告していた“判断力”の質問だろう。予期はしていたし、実際に土宮香苗が出したプリントの中にもその類の質問が幾つもそこにあった。
だが、その質問はどれも哲学的なものであり、このような具体的な問いは一つも無かったのだ。その殊に金城の頭は真っ白にそまり、パニック状態に陥りそうになった。制限時間残り30分でこの質問。金城は焦燥感に駆られた。最後に二度は解答の見直しをしなくてはならないのに、終了間近でこの問題――。
「……まじで、焦った」
一心不乱に空欄を埋めた金城、「この際この問題は捨てよう」、そう思って碌に思考を回さず、金城は馬鹿正直に答えて、ペーパーの見直しを急いだのた。
「……あれで、良かったのか」
瞼を閉じて、己の解答を再び脳裏に蘇らせる。その声色は何処か疑問に満ちていた。
「大体、”どうしますか”って……何をだよ」
恐らくテロ現場に会った時の己の行動原理や対処法を見ようとしたのだろう。だが、それにしてもだ、
「意味わかんなかったっつうか……あんな質問一回も無かったぞ。なえセンの奴」
あの糞教師（実習生）と毒づきたくはあったが、一応恩があるので途中でやめた。それに自分の発言を全てあの地獄耳に聞かれていそうで、後が怖い。
「まあ、一問ぐらい、いっか……」
大事なのはそのたった一つの問題ではなく、全ての問だ。
正解の量によって金城の結果は変わるのだから、多くの点数が取れていることを祈るしかない。
かたり、端末を嵌めている腕を宙に掲げて金城はメールを開く。
差出人：伊那瀬優香
件名：お疲れ様
本文：お疲れ様です金城くん。これで全部の試験が終わったね。
伊那瀬からの労りの言葉を見て、金城は心が安らいだような気がした。伊那瀬は労いの文を送ることがあっても、決して試験がどうだったかなどとは聞かない。それは恐らく彼女なりの気遣いなのだろう。世の中には試験の調子がどうだったかなどと喋りたがらない人間も居る。金城もその部類で、彼女の些細な優しさはとても心に沁みるものであり、有難かった。母などに話すのは良いのだが、他人に話すのはどうも否める気がしてならないのだ。
金城は表情を緩めながら綴られた文字を目で追った。
”それで学校が始まる二日前なんだけど、空いているかな？ 本当は受験の結果が出てからの方が良いんだろうけど、その日は丁度わたしのバイトが無くて、爽太も学校が休みなんだ。
もし良かったら家に遊びに来ませんか？”
それは伊那瀬からの初めての誘いだった。学校の休みが明ける二日前、それはつまり受験の結果が出る前日だ。確かに伊那瀬の言う通り、結果発表の前日は気が休まるものではなく、誰かと遊びに行こうとしても余り楽しめないだろう。
だが、相手が伊那瀬となると話は別だ。
「ふへっ」
何ともなえげつない笑いが少年の口から漏れた。
「ふへ。ふぇへへへへへ。ぐふ、ぐひっ」
それは蛙が潰れた声にも聞こえるが、勘違いはしていけない。これは少年金城の破顔一笑である。
頬は赤く染め上がり、沸騰した興奮からか鼻穴は普段よりも大きく広がっている。 双眸は三日月へと歪み、唇からは気のせいか唾液がだらりと垂れていた。
その様は正に酸鼻の極みであった。
奴の変態的な脳味噌には大方、薔薇色ならぬ桃色の妄想が広がっているのだろう。先ほどの暗い雰囲気からのその変わり身の早さは呆れを通り越して、感心するものであった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
3月15日。午後12時00分。
伊那瀬宅。
「ごめんね、あとちょっとで出来るから待っててね」
「あ、おう。大丈夫だよ」
然程広いとは言えない居間の中、金城は足を寛げていた。目の前には昔懐かしの卓袱台に4式の叉布団。その一枚の上に金城は腰掛けてソワソワとした面持ちで、台所へと向かう伊那瀬の後ろ姿を見送った。華奢な体には淡い黄色のエプロンがつけられており、金城は己の中で蝋燭のような火が灯るのが分かった。
（なるほど……これはこれで、）
――良い
なんて、だらしのない笑みを無意識に浮かべながらぽやぽやと室内を見渡す金城。伊那瀬の自宅に邪魔するのは之で2度目だった。初めてはあの事件前日、伊那瀬のお見舞いをした時だ。伊那瀬の弟である爽太には、あれっきり一度も会っていない。
（さっき、買い出しに行ったっつってたけど）
どれぐらいで戻ってくるのだろうかと金城は首を傾げた。だが、その疑問もすぐに打ち消される。
「ただいまー、姉ちゃん買って来たよ」
「おっ、」
「あっ、」
ガチャリと扉の開いた音がして、次に廊下を歩く足音が聞こえてくると直ぐに爽太の姿が見えた。金城はそれを見て知らず声をあげ、また爽太も反応するかのように声を漏らした。僅かに瞼を普段より大きく開きながらこちらを見るその顔は元気そうだ。以前のような悲痛の色は見えず、金城は安心した。
「おかえり爽太、ありがとね。あとは私がやっとくから、金城くんとゆっくりしてて」
パタパタと台所から出てきて、顔を覗かせた伊那瀬は爽太から荷物を回収して、再び戻る。その様は少し忙しなく、金城は手伝った方が良いのかと狼狽えた。
「大丈夫だよ、あの人何時もあんなんだし。それより金城の兄ちゃんはお客さんなんだからゆっくりしてなよ」
「……お前、見ない間に随分と大人びたな」
「そう？」
姉に差し出されたジュースのコップを傾ける爽太。そこには以前のような子供っぽさは殆ど見えず、金城は間抜けな表情を曝した。
誰だ、こいつ。
「……そういえば、何か俺に会いたがってたっつってたけど」
「うん、普通に前のお礼とあと、聞きたいことがあって」
お礼をするような態度には見えず、金城は僅かに眉を顰めた。気のせいか、以前より生意気になっていないだろうか？
そんな懐疑的な気持ちを誤魔化すように金城は麦茶を呷ろうとした。その時、
「“反逆者”って知ってる？」
「ごっふぁっっ！」
「うわ、汚っ。ちょっと……さっき掃除したばっかなのに汚さないでよ」
思わぬ襲撃に咽る金城。だが、爽太は大して気にした様子を見せず、寧ろ部屋の心配をしながら憎たらし気な口を開いた。
可笑しなところに液体が入ってしまったのか、金城は一生懸命息を取り戻そうと咳き込む。
（この、糞ガキっ……！）
誰のせいで咽たと思っているのだ、と恨めし気な想いが募るが、残念ながらここは伊那瀬の家であり、相手はその愛しい人の弟だ。そう簡単に手を出せるわけが無い。
「それで、“反逆者”のこと知ってるの？ 知らないの？」
「……いや知ってるに決まってんだろ。あんだけテレビで騒がれてんだぞ？ 知らねーってどこのモグリだよ」
ダラダラと吹き出しそうな汗を懸命に押しとどめる金城。泳ぎそうな視線を必死に目の前のあどけない顔へと縫い付けようとした。
「いや、そういう意味じゃなくてさ。金城の兄ちゃん、実際にその人と知り合いなんじゃないの？」
（ぎっくうっ！）
何てあざとい。惜しくなくもない、そのまさかの検討に、金城はつい擬音語を（脳内で）発してしまった。幸い、強張った身体のお蔭で飛び跳ねる、なんて反応をせずに済んだが。
「な、なに言ってんだよ……知るわけねーだろ」
「じゃあ、なんであの日、”草地の兄ちゃんは死なない”なんて言ったの？」
（あれかぁ！？）
爽太くんの言葉に金城は瞬時に我に返った。そう、“あの日”、伊那瀬のお見舞いに出かけた日、金城は爽太のあまりの悲痛な表情に、つい口を滑らしてしまったのだ。
「……い、いや。だって前も言ったように、あいつ悪運つよいし」
ひきつる口角を何とか上げる金城。その不自然な笑顔を爽太は疑心暗鬼に見つめた。
「ふぅん……」
「ちょっとォ！？ 何その疑わしい顔！？ 何、まさか俺を犯人だとか思ってるんじゃないよね！？
無いよ！？ 絶対に無いよ！？」
焦る金城。あたふたと手を振りながら、爽太へと詰めより力説した。その情けない様を見て、爽太は馬鹿にするかのような視線を投げた。
「うん……まあ、確かに無いよね
……兄ちゃん、そんな度胸なさそうだし、寧ろ逃げ出しそう」
「……あれ、何だろう。何か安心するところのはずなのに、お兄ちゃんちょっとイラッと来ちゃった。硝子のチキンハートにヒビが入っちゃった」
鼻で笑う7歳児に、金城はぴきりと己の額に青筋が浮かび上がるのが分かった。その血管は今にも破裂しそうで、ビクリビクリと血を勢いよく流している。
「冗談だよ。度胸は無いのは本当だろうけど」
「……ああ、そう」
冗談だと言いながらさりげなく金城の胸を差す7歳児。それに対して金城は何処か諦めたように、秋風を背後に吹かしていた。
「ありがとう」
「……は？」
ポツリ。台所から響いてくるフライパンの熱気の音によって掻き消されてしまいそうなほどに、落とされた声は小さかった。
突然、与えられた言葉に金城は爽太へと視線を再び向けた。気のせいか、その耳は赤くなっている。
（……なんだ、）
――ちゃんと可愛いところがあるじゃないか
もじもじと半ズボンの裾を弄るその姿は何処か照れくさそうで、以前相談に乗ってやった時の様子を思い出す。あの時も子供らしく素直で、感情豊にころころと表情を変えていた。その時の面影がまだ残っていることを感じ取った金城の心は緩和した。
（全部、大丈夫そうだな……）
ふっ、と息を漏らす。どうやらこの小さな少年はちゃんと元通りに立ち上がれたようだ。きっと、悔いはまだある、申し訳なさは心にまだ漂っている、それでも少年はちゃんとその足で立っている。振り向くことだけをせず、ちゃんと前を向いて一歩一歩、進もうとしている。
それは金城にとって喜ばしい事実だった。
どうやら、伊那瀬の言う通り、少年は成長したようだ。
「伊那瀬……姉ちゃんに言えないこと沢山、あるだろうけどさ」
「っ、」
ビクリ。今度は少年が肩を震わす番だった。
「俺が、知っている。お前の罪も後悔も全部、何もかも……だから、何かあったら俺に言え。
一人で抱え込むなよ」
それは心からの言葉だった。確かに臆病ものの馬鹿ではあるが、金城とてそこまで冷たいわけではない。例え、どんなに糞生意気な餓鬼であろうと、ちゃんと手を差し伸べてやるつもりだ。自分に出来ることは無いかもしれない、それでもその不安を吐き出すために話を聞いてやることは出来る。
爽太は金城のその言葉の意味を理解したのか、恐る恐る、何処か縋るような目で金城を見上げた。視線の先には穏やかに笑う金城。それを見て爽太はぶすくれたような、複雑な表情をして、言葉を吐き捨てた。
「別に、いいよっ……俺だって男だし」
「へぇーん？」
小生意気な少年の弱点を見つけたのが嬉しいのか、金城は唇をアヒル口のように歪ませ、ニタニタと爽太を見下ろした。眉をひょいと上げて、顎を上へと逸らす。それは完全に少年をからかう、というより小馬鹿にしている態度だった。
幾ら大人びていてもやはり子供、カチンと頭にきた爽太は声を荒げた。
「そ、それよりお前行政高校、受験したんだろ！？」
「へー、受験なんて言葉を知ってるんでちゅか？ 偉いでちゅねー」
「知っているに決まってんだろ！？ 馬鹿じゃねーのあんた！？ 試験大丈夫だったのかよ！？」
「っうるせーよ！」
触れてほしくなかったことを指摘されて金城もついつい大喝してしまった――。
「それじゃあね、金城くん。今日は本当に有難う」
「いや、それこっちの台詞だし」
鴉の鳴き声が聞こえる。日は沈み始め、空は橙色へと染まっていた。幾筋もの白い線が天を飾っていて、とても綺麗だ。
少しずつ、太陽の光が淡くなり始める中、金城は伊那瀬のアパートを出た。カツンカツン、と階段の音を鳴らしながら下へと降りる。伊那瀬も外まで見送ってくれるため、一緒だ。
「ごめんね、あんまりお持て成し出来なくて」
「んなことねーよ！ めっちゃ上手かったぞ！？ 伊那瀬の料理」
申し訳なさそうに眉尻を下げる彼女に金城は慌てて反論した。確かに彼女が作ってくれたあの数々の料理は美味であった。特に春巻きは中の肉汁と中華類の出汁がしっかりと効いていて、ソースを付ける必要が無い程、絶品としか言いようのないものだった。それを思い出して、金城は再び自分の咥内で唾がたまり始めるのが分かった。是非ともまた食べたい、そしてやはり伊那瀬、嫁に欲しい。
（……今日は本当に楽しかったし、人生で最高の一日だった。ただなぁ……）
一つだけ、金城には思い残したことがあった。
（結局、“きゃあ！ 金城くんのエッチィ！”ッっ的な展開が無かったっ……！）
それがどうしても悔やまれてならない金城。真の阿呆である。
そう、金城は期待していた。ドキドキと胸を弾ませながら、あのラブコメ的な瞬間が訪れることを……だが、それは一向に気配を見せるどころか、寧ろ阻まれているような気がした、あの7歳児に。
（爽太の奴……まさか、草地側とか言うんじゃねーだろーな）
どういう理由でかは分からないが、伊那瀬の弟――爽太は常にギラギラと目を光らせていた。1ミリでも伊那瀬の元へと近づこうと動き出した瞬間、奴はあらゆる手を使って邪魔してきたのだ。例えば、「姉ちゃん、ジュースきれた」と言って彼女を台所へと送ったり、「姉ちゃん、隣に座っていい？」と何処の甘えた坊主だよ、と言いたいほどに姉にべったりと貼りついたりして、常に金城の邪魔をしてきたのだ。
おかげで金城は伊那瀬に指、いや、髪一本でさえも触れられていない。
おのれ弟、許すまじ。
「……じゃあ、此処で」
「うん、また明後日」
「ああ」
下のアスファルトまでたどり着いて金城は伊那瀬へと振り返った。夕日に照らされた顔は相変わらず陽だまりのような笑顔で飾られている。それは何処までも優しげで、暖かいものであった。
「爽太のこと、本当にありがとね」
「だから大袈裟だって……俺なにもしてねーし」
尚も礼の言葉を口にする伊那瀬に金城は苦笑した。
「それじゃあな」
「うん……」
名残惜しいが、これ以上ここで長居するのも悪い。金城はアパートにへばり付いてでも伊那瀬と共に居たい欲を抑えながら、ゆっくりと背を向けた。
「金城くん！」
「……へ？」
不意に呼ばれて、金城は驚きながらも彼女へと振り返った。
その表情は何処か難しげで、口は何かを言いたそうにパクパクと開いたり閉じたりしている。どうしたのだろうか、と金城が首を傾げると、伊那瀬は意を決したように眉を吊り上げた。
「今、こんなことを言うのは可笑しいんだけど……絶対、機関士になろうね」
思いがけない言葉に金城は目を見開いた。だが、直ぐに理解したように一度頷き、強気な笑顔を見せる。
「ああ。俺も、諦めねー」
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
3月16日、行政高校、受験発表当日。
金城は玄関口に座っていた。
（……何時、来るんだ）
ゴクリ、緊張で唾を飲み込んだ。
一般的に私立高校は試験日の翌日、公立高校の一般入試の合格発表は3月初めごろにされる。公立高校は受験校に合格者の受験番号を掲示する形で行われ（新聞などで「15の春」として発表風景が報道される）、私立高校は紙媒体の封書を直接郵送する形が多い。
一部の高校では多数の生徒が居る中学校へ直接合否通知と請書、入学要項を送ることもある。だが、行政高校の場合は少し変わっていた。
他高と比べて発表が多少遅れているのもあるが、何よりも違うのはその発表の仕方だった。まず、封書を直接郵送するのだが、その中身は一枚の紙しかない。印刷されるものは二種類――“サクラ咲く”を意味する満開の桜紋、そして“サクラ散る”を意味する花弁の散った桜紋だ。
これらを送られた翌日、今度はテレビのアナウンスで受験発表がもう一度行われる。そこに合格者の受験番号を掲示し、その日のうちに他の請書と入学要項を送るのだ。
何とも面倒で、長い手順ではあるが、仕方がない。どうやらこれは伝統となっているらしい。
「……っとに、心臓に悪い」
まだかまだかと、手を震わせ、足を揺する。心臓は不安か、緊張か、焦燥感で苛まれていた、鼓動が落ち着かない。
「理人？ 大丈夫？」
居間からこっそり見守っていた母だったが、息子のその落ち着きのない様子を等々見かねたのか、顔をだした。その時だった。
――カタン
外のポストの中へと何かが落ちた音がした。
金城は瞬時に顔を上げ、素早く外へと出る。バン、と大きな音が鳴ったことで、配達員の男が驚いたようにこちらを振り返ったが、金城は構わず白いポストの蓋を開けた。中には金色の文字で「国立行政機関付属高校」と掘られた紺色の封筒が見えた。金城はそれを震える手でゆっくりと取りだして、封を切った。
ドクリドクリ。
心臓が大袈裟なほどに跳ねているのが分かる。今にも胸を突き破りそうなほどの勢いだ。
熱く、沸騰しそうな頭を冷やすように金城はふう、と息を吐いて、その中身へと手をかけた。
するり。思いのほか容易く滑り出た一枚のカード。其処に掘られているのは
「っ……」
「理人？ どうだった？」
山吹色の紋。雌蕊を飾る4枚の花弁。それは、
「まじ、か……」
――一枚の花弁が散った、桜だった。
