受験（1）
2105年10月20日。午前8時00分。
世田谷高校、職員室。
「あれ、高野先生？ どうされたんですか？」
「いや、それが」
授業開始時間より30分程前、教師陣一同がゆっくりと朝の支度をはじめる中、一人の教師が難しい顔で目の前のスクリーンを見つめていた。その顔は何処か驚然としたような、複雑な表情だった。
「これ、」
「……どれですか？」
高野と呼ばれた教師は恐る恐ると、目の前に映る一つの成績表を指さした。
「……これがどうかされたんですか？」
スクリーンを隣から覗きこむもう一人の教師が首を傾げる。見たところ、表示された成績表には何の異常も見当たらない。寧ろ、普通の成績より良いぐらいだった。
「……これ、金城のなんですよ」
「……へぇ、って、え！？」
はあ、それは凄い。そう返そうとしたが意外な名前を出されたことにより、男は驚愕の声を上げた。
「え、だって……え！？ 夏はDやEだらけでしたよね！？」
「……その、はずだったんですが」
目の前に見えるのは少しのAとBの文字だけ。どれも良い点を叩きだしており、以前の影が目を掠めない程に、変わっていた。
「……カンニングとか、」
「無いですよ」
「……ですよねー」
普通にありえないことなので、それは馬鹿としか言いようの無い質問だったのだが、如何せん彼は以前の金城を知っていたので、目の前に突きつけられた真実が信じられなかったのだ。
「一体、何があったんですか……」
そんな時だった。
「しっぬぅぅぅぅぅぅぅう！」
「は！？」
突然大きな雄叫びが聞えて、教師一同は肩を跳ね上がらせた。何事だ、と音の発信源を振り返る。どうやら、外からしい。男たちは窓まで駆け寄り、下のグラウンドを覗いた。すると、其処には
「……ちょっとォ！？ 何これ！？ 何なのコレ！？ え、俺死ぬの！？ 死んじゃうの！？」
「うるさい。良いからさっさと走りなさい、この負け犬が」
「っおま！ コレ虐待だぞォ！？ つか、此処ペット禁止ィィ！」
「ペットじゃないわ。“番犬型ロボット”ケルベロスよ」
「っロボットでもペットっつうんだよ、馬鹿野郎！！」
奇妙な光景が広がっていた。
「……あの……あれは一体」
呆然。目下で起きている異様な光景を見て、教師一同は放心した。
グラウンドを駆け回る犬と人間。さっきの会話からして恐らくあの犬はデパートなどで買えるセキュリティーロボットなのだろう。棘が生えている首輪とその大きな口から覗く鉄の牙はかなり鋭く見える。実際は殺傷力など安全のために皆無に等しいものなのだろうが、それでもアレに噛まれたら堪らなく痛いだろう。吼えながら走るその形相は恐ろしく、少年――金城は命からがら逃げていた。鼻からは僅かにだが、鼻水が垂れているように見える。
「っ……何時、までこんなの物を練習に使う気だよテメー！？」
「こうでもしないと貴方はすぐにバテるでしょう。愛の鞭だとでも思って大人しく受け入れなさい」
「っいらねぇよ！」
「そうね、確かに要らないわね。愛の鞭は幾ら何でも気持ち悪すぎたわ。“嫌悪の鞭”だったわ、御免なさい」
「っ思いッきし私情がはいってんじゃねーかぁ！？ ってか、愛の鞭って自分で言ったんじゃねーかよ！」
キャンキャンとロボットに負けず劣らず吼える金城。走りながら器用に後ろへと回すその視線の先には一人の女性が立っていた。片手にはストップウォッチが握られている。どうやら、金城のタイムを計っているようだ。
「っっいつ、終わんのコレぇ！？」
「……授業開始まであと30分。着替える時間を上げるからあと15分ね」
「この、ちくしょうめっ！」
息切れしながらも必死に足を動かす金城。早朝から長らく運動していたせいか、白い運動着は汗でべったりと濡れているように見えた。
「……高野先生、土宮くんは一体何をしているのでしょうか……実習期間を一年間に伸ばしたとは聞いていましたけども」
「行政高の受験対策、及び個人授業らしいです」
「行政って、金城くんまだ諦めてなかったんですか？」
浮上した疑問を口にした教師。高野はその問いに眉尻を下げながら溜息を漏らした。
「ええ、まあ……一向に諦める気配が無くて、寧ろ、成績を上げてくるんですよね」
「……それで、何故土宮くんが？」
「それが……」
――彼に幾ら無理だと言っても無駄だと思います。ああいう聞き分けのない子供は現実を知らしめなければどうにも出来ません。
当時、何時ものように感情の無い顔で話す土宮香苗。彼女のその言い分はある意味最もであり、高野自身、薄々と気付いていた問題だった。土宮香苗は元々大学の行政学部で学んでいたこともあって、それなりに行政高校の受験対策を熟知している。恐らく金城にはピッタリの教師なのだろう。どうせ受かりはしないのだし、やるだけやらせても良いか、と高野は見解していた。
だが、結果はどうだ。土宮香苗の（ある意味予想できた）無慈悲なスパルタ教育により、金城は見事にその功績を上げてきた。気のせいか日々痩せこけ、死人のように見えなくもないが、その目にはちゃんと生気が宿っている。どれもこれも高野が予想だにしなかったことだった。
初めはさっさと諦めればいいものを、と苛立ちを感じていたが、あそこまで来ると、もはや「勝手にしろ」と言うなげやりな感情しか出てこなくなっていた。「其処までやりたいなら好きなようにすればいい、自分は一切の責任を取らん」、それが高野の言だ。
金城は高野のその姿勢を既に理解していたのか、自分で勝手に色々な手続きを母親と共に既に済ませていた。来年の2月末には実地試験を取るらしい。
（……でもなぁ）
「……受かりますかね」
ポツリ。目の前の教師が零した言葉に高野は軽く笑った。
「いやぁ、無理でしょう。幾ら成績が上がったとはいえ、これじゃあねぇ」
「けど、このまま行くと全部Aとか取りそうですよね。金城くん」
その言葉に高野も僅かに眉を顰めたが、直ぐに肩を竦めて何でもない事のように吐き捨てた。
「幾らAが取れても、行政高の筆記試験で振り落されますよ。あそこは倍率の高い高校ですから」
「……まあ、内申書の方もありますしね」
ピクリ。高野の米神が僅かに反応した。
「いえ、内申書は“精神”、普段の素行だけで宜しいみたいです」
「え……あ、そうか。確かあそこは中学の成績問わず、試験の実力だけで合否の有無を決めるんでしたよね」
「ええ、あそこは徹底した実力主義ですから」
行政高校の受験方法は他校と少し変わっている。というのが、普通は内申書を重視して校が合否の有無を判断するものなのだが、それに反して行政高校は試験時、つまり受験者のその時、その時点での実力で合否を決断するのだ。行政高校の判断基準は三つ――知・精・体だ。知力は筆記試験で、体力は体力テストで、そして精神は教師の内申書で計られる。
「まあ、金城くんは普段の馬鹿っぷりを除けば、普通に良い子ですからね。授業態度もあの夏ごろから確かに良くなっているし」
瞼を洗濯ばさみで開け、血走った眼光をこちらに向けるその様は思わず一歩引いてしまう物ではあったが、「それほど勉強に集中しようとしているのだな」と男は感心したものだった。苦笑する男に高野は更に顔を顰めた。
「……随分と、金城を庇うのですね」
「いや、私も以前は“まさか”と思っていたのですが……あそこまで必死になられるとねぇ」
そう言って後ろの窓へと振り返る教師。その先では金城の相変わらずな悲痛の叫びが聞こえた。……例の番犬に噛まれたのだろうか。
「高野先生だって、内申書、ちゃんと出してあげるんでしょう？」
内申書の言葉で目を逸らす高野。頭を掻きむしながら大きなため息を漏らした。
「……まあ、嘘は書けませんからね。私も言い過ぎた感はありますし……よく考えてみれば草地とあの子は関係ないのに」
「それは仕方ありませんよ。犯罪者の傍ではブラッドが生まれやすいと言われますし。
……まあ、大丈夫ですよ金城くんなら」
朗らかに笑った男に高野は眉を八の字にしながら笑みを零した。
「そうですね。今の所なんの問題も起こしていませんし……信じてやるとしましょう」
再び視線をスクリーンへと向ける教師。表情は少し柔らかくなり、自然と指はキーボードへと延びていた。
――それは金城が聞いていたら、喜んでいいのか、悲しめばいいのか、分からない会話だった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
午後3時45分。3年I組教室。
「くそ、なえセンの野郎……」
何とか（多少噛まれそうになりながらも）番犬型ロボットから逃げ延びた金城。ボロボロになりながらも制服へと着替え、何時もの倦みそうになる授業に耐えながら真面目に取り組み、一日を終えると再び教室で土宮香苗の個人授業を受けていた。
ぶつぶつと文句を垂れながら目の前の課題を片付けてゆく。
「まあまあ……でも、本当に金城くん頑張ってるよね。この前のテストも高得点出せたんでしょ？
凄いよ。それって金城くんの努力もあるけど、土宮先生のお蔭でもあるよね？」
隣の机でさらりと髪を流しながら小首を傾げる伊那瀬優香。その姿に金城は頬を微かに赤らめながら口を尖らせた。
「いや、うん……まあ、それはね」
思い出すのは２カ月前のあの日。
――今からこの解答用紙を全て埋めなさい。それと明日からは体育着も持ってくること。
教室の中。目の前の机にドサリと置かれた約２０センチ程の紙束、そして一枚のテスト用紙。その眼鏡の奥で底冷えする光を伴った瞳に情けなくも金城は逆らえず、黙々と言われるがままに課題をこなしていった。そして気が付けば、それは毎日の日課となっていたのだ。
ひィひィと鳴きながら、時には走りすぎて酸欠死しそうになり、時には受験を投げ出してしまいそうになり、泣きそうになりながらも、金城は毎日学校へと登校し、土宮香苗のスパルタ教育を受け続けた。土宮香苗は確かに嫌味な女であり、性格もかなり悪いが、頭だけは確かに良い。行政学を学んでいたようで、行政高校へ通ったことが無くとも、それなりの受験対策にも精通していた。そのお蔭で大馬鹿な金城にでさえも、ほんの少しだけだが、光明が見えてきたのだ。
（……まあ、おかげで伊那瀬との時間も増えたし、感謝したほうがいいのか）
そんなことを思考しながらグルリと室内を見渡す。
今は金城と伊那瀬以外、教室には誰も居ない。実質二人っきりだ。土宮香苗はプリントを忘れてきてしまったようで職員室へ取りに出かけている。数分は戻ってこないだろう。
ドキドキと少し高鳴る鼓動を抑えながら、金城は一生懸命課題へと意識を向けようとした。
「私も頑張らなくちゃな」
「……伊那瀬なら大丈夫だよ」
「そんなことないよ」
金城の短い言葉に伊那瀬は眉尻を下げながら笑った。
「金城くんが知ってるとおり一回成績落ちちゃったし、欠席も多かったから。今では何とか元の状態に戻れたけど、それでもギリギリなんだよ？」
「でも、この前テストで満点取ってただろ？ 他のクラスやなえセンが言ってたぞ、本当にうちから行政高校に受かる奴がいるかもしれないって」
「大袈裟だって」
苦笑する伊那瀬。
そうなのだ。伊那瀬も実は行政高校を狙っていた。草地の件も理由に含まれているのかもしれないが、伊那瀬は元々行政機関士を目指していたらしい。自分にとっては尊大な夢ではあるが、機関は安定した職で暮らしの心配をする必要もなくなる。
「それに……私の場合、奨学金を取れないと駄目だから」
「そう、だよな」
知ってのとおり、伊那瀬は金銭面で問題を抱えている。彼女の家には行政高校へ行く余裕はあまり無いのだろう。
「そこまで貧乏じゃないんだから、高校行く費用ぐらいは出せるって言われてるんだけどね……やっぱり」
行政高校の学費はそれほど高くない。寧ろ、私立の高校と比べたら少し安いくらいだろう。別に漫画に出てきそうなほど家は貧しくないし、絶望的な状況に陥ってもいない。それでも、家族に苦労をかけたくない、この先何かあった時のためにそのお金は取っておいてほしい。伊那瀬はその思いでいっぱいだった。
「……大丈夫だろ。なえセンのあのスパルタ教育もあるし」
「ぷふっ……そうだね。お蔭でわたし、だいぶ腕に大きな力コブが出来ちゃったよ」
「嘘っ！？」
周囲にはあまり知られていないが、ついでと言うことで土宮香苗は伊那瀬にも勉強を偶に教えていた。その事もあって伊那瀬は今のように金城と共に勉強をしたり、果てはあの地獄ような体力トレーニングに参加していたりもする。
（あの白い、色気むんむんの腕に、力コブって！？ ……いや、それはそれで）
――良いかもしれない。
何が、と草地が居たら突っ込むのだが、残念ながら奴はもう国に居ない。そのせいもあって金城の脳内ブレーキは働くことを忘れてしまっていた。
捲る捲るワンダーランドへと思考を飛ばしそうな金城。そんな奴の妄想に歯止めをかけたのは意外にも伊那瀬本人だった。
「そういえば、爽太のことなんだけど」
「っうん！ 何かな！？」
はっ、と我に返り金城は勢いよく、風圧が起きるほどのスピードで伊那瀬へと振り返った。それに対して伊那瀬はビクリと肩を跳ね上がらせたが、慣れているのか、何でもないことのように言葉を続けた。
「爽太がね、金城くんに会いたいって」
「え……」
それは以前から偶に伊那瀬から聞いていた名前だった。
伊那瀬爽太――草地が庇った少年だ。己のせいで草地が捕まり、死刑判決を下された事実に苦しんでいた小さな少年。金城は未だに最後に見た彼の悲痛な表情を忘れられずに居た。
ちょくちょくと伊那瀬から聞く報告によると、“反逆者”事件以来、段々と元気を取り戻しているようだった。「前よりもしっかりしてるよ」と誇らしげに笑う伊那瀬を金城はよく見ていた。しかし、会いたくとも気まずさで会えなかったのだが、どうやらその長い尻込みにも終止符が打たれるらしい。
「会いたいって……」
「前、金城くん爽太のこと、励ましてくれたんでしょ？ 聞いたよ、アイスまで奢られちゃったって。なんか、御免ね……」
「いや、それは全然」
どうやら爽太は伊那瀬に、夏の間に起こった出来事を話したらしい。だが、彼女の様子からして、自分がやってしまったことは明かしていないようだ。それもそうか、と金城は一人納得した。爽太が犯してしまった行為は簡単に喋っていいものではない。家族には確かに打ち明けてしまったほうが良いのかもしれないが、伊那瀬は今受験中だ。こんな大事なときにその話題を出すのは否めるし、それにまた以前のように伊那瀬が倒れないとは限らない。この話は慎重に運んだ方が得策だ。
（頑張れよ……爽太くん）
幼子の泣き顔が脳裏を過る。俺がこれだけ頑張っているんだ、お前にだって出来る。そんなエールを心の中で彼に送った。
「本当は前から会いたい会いたいって、言ってたんだけどね……私もそうだけど、金城くん、今受験でそれどころじゃないでしょう？」
「あ、まぁ……」
「だから、そのうち時間が出来たらって思って、忘れないうちに」
「そか、」
何を話すのかは分からないが、丁度いい機会だ。金城自身、爽太くんのことは長い間気にかけていたし、これで心の蟠りが解けてくれるのなら、会うに越したことは無い。
「じゃあ、全部終わったら会いに行くよ」
「うん、良かったらウチに来て」
陽だまりの様な優しい笑みを向ける伊那瀬。金城はそれを見て自分の鼻の下が伸びそうになるのが分かった。そしてふと、ある単語に気付いて、金城は耳を疑った。
（まて、うちって……）
「伊那瀬ん家、また行っていいの！？」
「へ？ え、あ、もちろんだよ。私も金城くんに凄いお世話になったからお礼もしたいし」
（それって、手料理だったり！？）
予想外の、嬉恥ずかしのハプニングに金城は鼻息を荒くした。
（なになに！？ これって、あれか！？ 俺にもチャンスか！？ 糞地を抜け駆けするチャンスなのか！？
お風呂場でバッタリ、転んで押し倒したりなアハンウフンなまさかの超展開！？）
ふーっふーっ。気のせいかその鼻は猪のような形に変わっており、伊那瀬は冷汗を垂らしながら一歩後ろに引き下がりそうになった。
金城の脳内で桃色の展開が繰り広げられる。此処にもしも草地が居れば、何処のラブコメ漫画（或いはライトノベル）だよ、と思わず叩いてくれたというのに、悲しいかな、奴はもうこの国には居ない。よって、金城の妄想列車は留まる事を知らず、地平線の彼方へと走り出そうとしていた。
そんな時、
「なら、まずこの成績を何とかしないとね」
平坦な声が室内に響いた。
「あ、土宮先生」
「……げ、」
教室の扉、開いたその戸口に手をかける土宮香苗。その片手にはざっと10センチ程の厚さの紙束が握られていた。顔は相変わらず、あのビン底眼鏡で隠れており表情はあまり見えない。コツコツ。ヒールを鳴らしながら、彼女は二人の机へと歩み寄る。
「そういうことは受験が終わってからにしなさい」
「……わかってる、ますよ」
抜けてしまいそうな敬語を慌てて直そうとする金城。少し間違ったように聞こえるその響きに土宮香苗は小さく息を漏らした。
「……次は国語ね」
「っまてぇ！？ 今日は数学だけじゃなかった！？ 俺、もう50枚くらいプリントやってんだけど！？」
日常の如く室内で反響する叫び。土宮香苗は煩わしそうに耳を塞ぎながら、伊那瀬に声をかけた。
「伊那瀬さん？ この前だした予習問題は出来たのかしら？」
「あ、はい。一応全部やってきました」
「ご苦労様。では、そのプリントが終わったら今日は帰っても構いません。明日はバイト無いのよね？」
「あ、はい」
「では、貴方も朝練に参加しなさい」
「分かりました」
「無視ィィ！？」
キャンキャン吼える金城。だが、土宮香苗は振り返らず、また伊那瀬も反応を示さなかったことにより、金城は少なからず衝撃を受けた。
（……え、何か伊那瀬も最近おれに対しての扱い、雑じゃない？）
伊那瀬は見事なまでに金城に対するスルースキルを身に着けていた。
哀れ金城。誠の阿保である。
そんな奴を蔑むような視線を土宮香苗は投げた。
「試験まであと4か月ぐらいしか無いのよ。何時までも駄々こねてないでさっさとしなさい、この“負け犬”」
「っそれはお前が無理難題を押し付けてくるからだろうがぁあ！ 伊那瀬にもあの糞犬つけるんじゃねーだろーなぁ！？」
「馬鹿ね、貴方をつけるわけないでしょう」
「っ俺じゃねぇえ！ あの番犬ロボットだよ畜生！」
「あら、御免なさい。糞犬って言うから負け犬である貴方のことかと思っていたわ。
安心しなさい。アレは女性に噛みつかないようになっているの」
「何その超差別的なフェミニズム！？」
泣き叫ぶ金城。だが土宮香苗は構わず、何事もなかったかのように授業を続けた。放課後の教室、何処までも反響する攻防の声は、日常の風景、或いは学校の名物として毎日のように繰り返された。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
午後9時01分。
金城宅、玄関口。
「た、ただいま……」
「あら、おかえりー」
よろり。玄関の壁へと手をつく金城。白と黒の制服はくたびれており、げっそりと生気を根こそぎ吸い取られたような顔と相まって、その姿はゾンビのようにも見えた。
そんな奴を母は笑って出迎え、鞄を受け取ってやる。
「お疲れ様、ご飯も出来てるし、風呂も沸いてるから、好きなようにして休みなさい」
「……ありがと、」
甲斐甲斐しく世話してくれる母。気のせいかその背後からは光が差している。「俺には母さんだけかもしれない」、なんて危ない思考を走らせながら中に上がる金城。どうやら先に風呂に入るらしく、プルプルと生まれたての小鹿のように、奴は足を震わせながら風呂場へと向かった。
その後ろ姿を見て、金城の母は眉尻を垂らしながら笑う。
「……頑張ってるわね」
思い出すは2か月前の出来事。行政高校を受験すると決めた金城。それに対して金城の母は驚いていた。それもそうだろう。己の息子は超がつくほどの勉強嫌いであり、野心の無い男だ。好きな事にはとことんのめり込む癖はあるが、学業に奴が興味を示すことは無い。その証拠に成績では最低の評価を叩きだしていたこともあり、進学の道さえも危うかった。恐らく、息子は四苦八苦しながら何となくな気持ちで人生を過ごしていくのだろう。母はそう思っていた。
だが、天地が引っくり返ったと言うべきなのだろうか。補修にでさえ苦い顔をしていた息子は突然、あのエリート校である行政高校を受験すると言い出したのだ。その時の衝撃と言ったら――
（……まさか、よりにもよってアソコに行きたがるとは。私やお父さんみたいなブラッドだと思ってたんだけどねぇ）
ふう、と憂うような吐息が漏れた。金城の母は正直、初めのころはあまり釈然としていなかった。彼女は気付いていたのだ――金城がこの法に対して自分と同様に不満を覚えていることを。何故なら奴は己の息子だ。同じとは言えずとも、自分に育てられたのだから、少なからず似たような思考はしているだろう。事実、草地の死刑に関しても奴は納得していない節を見せていた。
（きっと、草地くんのためなんでしょうね）
何となくだが、金城の母は察していた。金城が行政高校へ行きたいと願った理由、その胸に秘めたる意思を。
（……まったく、極端と言うか、真っ直ぐというか……いや、馬鹿なのか）
あの日、衝撃的な決意を示された瞬間、金城の母は動揺しながらも金城に考え直すよう絆そうとした。だが、金城はそれを受け入れるどころか、やたらと頑なに“受験する”と言い張った。そうして1時間ぐらい続いた攻防の末、金城の母は奴の主張を受け入れたのだ。
まあ、勉強するのは良いことだし、（差別的な）問題はあるかもしれないが、エリート校に入れたらそれはそれで喜ばしいことだ。もし本当に、行政高校に入ることが出来たら、近所中に触れ回って自慢してやろう。
一時期学校でも教師と揉め事があったようで、らしくもなく金城は落ち込んでいたが、その様子も今では見えない。
何時だったか、暗く、思いつめたような面差しは晴れやかな、否、まるで優勝を目指すアスリートのような顔をして戻ってきた。長らく苦しく悩ましげだった表情は、ある日、呆然とした物へと変わり、その翌日にはボロボロになりながらも、闘志に燃えた双眸で帰ってきたのだ。
（あの時は何も話してくれないから、本当にどうしようかと、こっちも悩んでたけど……）
――なんか良く分かんねーけど、ムカつくビン底眼鏡が勉強教えてくれるって
「……ビン底眼鏡とやらには感謝しないとね」
お蔭でうちのバカ息子の成績は鰻登りで、最近は気のせいか体も少しずつしっかりしてきている。成長期もあるのだろうが、それは目覚ましい変化だった。
苦い思い出なのか息子は何も話してくれないので、実際にどんなことをしているのかは知らないが、きっと教えるのが上手な先生なのだろう。壊滅的な成績も段々と霞みはじめている。
名前も、性別も、年齢も知らない“ビン底眼鏡”に金城の母親は感謝した。
「あと４カ月ぐらいか……」
はあ。またもや憂いの吐息が漏れてしまった。
――果てさて、一体どうなるのやら、
