現実
金城が受験する決意を母親に表明してから数日。
「出来ないに決まっているだろ」
――それが教師に言われた最初の一言だった。
「金城。お前、自分の成績が分かっているか？」
「……」
「英語D 数学D 国語C そして残りが全部Eだ」
8月5日。世田谷中学校、職員室。
広々とした室内の中、金城は担任の教師に絶対零度の視線を向けられていた。担任の机の前。片は直立とした状態で立っており、片は椅子に座っていた。教師の手に握られている端末には少年の成績表がずらりと並んでいる。見えるアルファベットはどれもこれもDからEばかりのもので、最低の成績であることは一目でわかった。
苦痛の表情を見せる金城に教師は呆れたような視線を寄越す。その目には嘲りの感情が見えた。
「それで行政高校？ 馬鹿言ってるんじゃないぞ。お前は受験をなめているのか？」
「……」
「行政高校は言わゆるエリート校。お前には到底無理な話だ。身の程を知れ」
「……それでも、俺は」
尚も反論の意を示す金城。教師は我慢の限界だとばかりに端末を机に叩き付けた。
――バン！
突然響いた音に金城を含む周りの教師が肩を跳ね上がらせた。皆が皆、振り返って金城たちのやり取りを見やる。一斉に集まった視線に金城は居心地の悪さを感じながらも、懸命に教師に立ち向かおうとした。
「お前は教師を嘗めているのか？」
「違います。俺は、 」
「言い訳は良い。お前はさっさと帰って勉強を始めろ。お前に行ける高校は精々ここだけだ」
ぱさり。そんな音を立てて放り出された紙媒体のパンフレットに、金城は目を見開いた。驚然とした様子でそれらに目を向ける。
「……これは」
表紙に乗っているのは此処から近い高校。世田谷高校よりもレベルも低く、また誰でも入れる“余った学生のための学校”だ。
金城の目の前に座る教師は奴を鼻で笑って言い捨てる。
「うちの隣にある校だ。其処に受験しなさい 」
「あの、それって」
困惑気な顔をした金城。教師の言葉を未だに理解できず、奴は狼狽えた。それは一層哀れにも見えるが、教師はそれを意に介さず無情にも続けた。
「お前には高校を上がることも無理そうだからな。これはお前にでもいけそうな場所だ」
「……な、なんで急に！ 先生だって、前まで上に上がれるように補修がんばれって、」
「いいから、今日はさっさと帰りなさい。私も暇ではないのだよ」
何故、そうなる。意味が分からないとばかりに金城は何度も訴えかけるが、教師がそれに取り会う様子は無い。まるで門前払いをされている気分だ。
突然浮上した大きな問題に金城は焦りを見せた。母の言葉が脳裏を過る。
――いや……うん、別に何処を受験しても良いんだけど、ちゃんと上には上がれるようにしなさいね？
己の突拍子もない受験発言に驚愕のあまり、電子書籍を一冊壊してしまった母。初めは頭の心配などをされたが、続いた攻防に己が本気なのだとやっと気付いたのか、潔く渋々と承諾してくれた。ただし、やるかにはちゃんと全力で取り組み、必ず高校には上がれるようにと条件づけられた。
金城は寛容な母に感謝し、「絶対にがっかりさせないようにしよう」、と心に誓いを立てた。だから勇気を振り絞って、己のおこがましい願いを教師に申し出たわけだが、止めて此処の高校に留めようとするどころか、別のレベルの低い高校を進められてしまった。 おまけに上には上がれないと言う宣言。思ってもみなかった最悪の事態に金城は急激な不安を覚えた。
何故だ、何故だ。そればかりが頭の中を過り、必死に声を上げる。
「今迄、勉強を怠ってすみませんでした。これからは真面目に取り組みます！」
「ちゃんと赤点も次から取らないようにします！」
何度も頭を下げた。その背中に追いすがった。だが、教師は一度も振りむくことなく、唯淡々と述べる。
「さっさと此処から出ていきなさい。みっともなく振る舞う時間があるなら勉強しろ」
それは冷たく、無情な響きを伴っていた。
この先幾ら頼み込んでも、担任が答えてくれることはないと気付いた金城は絶望した。
まだ幼い金城には、教師に見放されることは世界に見捨てられること同等に感じられた。胸が不穏な感情で覆い込まれる。周りの奇異の視線に耐えられず、金城は重い足取りで一歩一歩、職員室の外へと踏み出た。
ガラリ。室内から出て、その引き戸を閉じる金城。思考は正常に回りそうになく、金城はただ其処にボーっと立つことしか出来なかった。この先に対する不安、母への申し訳なさ、己の不甲斐なさが一気に押しよせてきて、不覚にも涙が零れそうになった。
――何故、
そう思った時だった。
「まったく、身の程知らずにも程がある」
「それにしても、ちと言い過ぎだったんではないですか？ 高野先生」
先ほどの教師――担任の声が扉越しに聞えた。大きな溜息の後に、別の教師の声が耳元まで響く。その声色からは、何処か金城に同情している様子が伺えた。だが、金城の担任はその言葉をズバリと切り捨てた。
「何を言ってるんですか……あれは最低のドベですよ。あれ位言わないとあいつは理解というものをしない」
「……まあ、草地の友達だったっていうのもありますからね」
ピクリ、第三者の声が聞えた。その言葉に金城の指が反応を示す。目は驚愕で大きく開き、口はポカリと開いていた。
（……なんだよ、それ）
唖然と金城は言葉を零した。だが、職員室の者たちは奴の気配に気付くことなく、そのまま悪態を吐き続けた。
「犯罪者の屑が…… あれのせいでわが校はどれだけの被害をこうむったか」
――なんだよ、それ
「マスコミに叩かれるわ、親からの苦情の電話は殺到するわ。我が校の評判はお蔭でガタ落ちですからね……これ以上の被害は避けたいものです」
――なんだよそれ！
ギリ。拳が悲鳴を上げた。指が掌へと食い込み、血の気が引いて白くなってゆく。
金城は怒りが湧くと同時に、理解した。何故、教師が突然掌を返すような態度を見せたのか。何故、あれほど自分を此処から追い出すような発言をしたのか。それは、
「ブラッド、とまでは行きませんがやはり金城くんは草地くんと最も親しかったこともありますし、」
「そうですね……害のありそうなものはなるべく避けた方が良い」
「このまま、成績を上げずにいてくれれば……」
それは金城が最も聞きたくなかった会話だった。草地に対する軽蔑、己に対する認識。それが現実であり、この国に生きる者たちの見解だ。例えブラッドでなくとも、そうでなくとも、一度犯罪者と関わりあったものは似たような眼差しを向けられてしまうのだ。皆が全てそうというわけではない。だが、世間対を気にする学校としては当然のことだった。それはまだ幼い金城にとってはあまりにも残酷で、悲痛な事実だ。
「……んで、 」
零れ落ちそうな涙、そして悔しさを耐えながら金城は静かな廊下を歩き出した。
それから数日。相変わらず教師に何処か煩わしい視線を向けられながらも、金城は黙々と補修を続けていた。あの日、担任に別の高校を勧められた日、家に帰った金城には、母に全てを話すことが出来なかった。あれ程背中を押してくれた母を、どん底に突き落とすような真似は出来なかったのだ。
誰も居ない教室の中、金城は一人、渡された解答欄を埋めていく。静かな空間に響くのはカリカリと鳴る鉛筆の音だけ。今の時代、電子型のものは学校に多く支給されているが教科書やノートに関しては全てが紙媒体であり、試験を受ける際には手書きでやることを求められている。
（……無理、か）
先日教師に言われた言葉が脳裏を過る。正直、金城は受験する事を諦めそうになっていた。
（俺に、この国を変えるのはやっぱり無理なのか……）
金城が行政高校を受験すると決めた理由は実に単純だった。以前説明したように行政機関士は国家の顔であり、力そのものだ。それはつまり彼らが国民に多大な影響を与えていることを意味する。金城が犯罪行為と言うリスクを捨てた今、残された道は正攻法でいくことだ。確かに金城にとってはリスクの高い手段ではあるが、こうでもしないとこの国の人間にはもはや何も効かない。彼らは法を絶対的なものとして受け入れており、それを変えるには偉大な影響力を及ぼせる人物に近づくしかないのだ。脳の無い金城が導き出せた考えはとても短絡的で単純な発想だった。
だが、確かにこれは単純な思考ではあるが、ある意味的を得ている。国を変えるには民をまず変えるしかない。しかし、国民が犯罪者に耳を貸すことは決して無いだろう。政治家になる方法もあるが、金城は其方の方が無理があるように思えた。
（……もう、諦めるしかないのか）
つりそうになる指を抑えながら金城は一心不乱に手を動かした。だが、その目は何処か虚ろで、暗い。
カリカリと鉛筆の芯が紙を擦る。段々と金城の心がくすみ始めた時だった。
――ねぇ、聞いた？
――行政校目指している子がうちに居るって？
――うっそ、マジ？ 誰々？
ピタリ、窓の外から耳まで流れ着いた会話に金城の指が止まった。聞えた声は二つ、女生徒の物だ。此処は一階なので、恐らく会話の主は少し離れたグラウンドで練習している運動部だろう。夏休み中、学校に来る生徒は補修がある奴か、部活の練習をしている運動部だけだ。
目を瞑って、神経を耳に集中させる。するとより二人の声が鮮明に聞えた気がした。
――それがさぁ、金城みたいなんだよ。
――うっそ、マジで！？ でもあいつ馬鹿じゃなかった？ よく先生とかに叱られてるの見るよ？
己のことを知っているということは同級生か。金城の心に再び不穏な影がのしかかった。じくり。鈍い痛みが心臓を襲う。
――だよねー。先生たちも無理だからやめとけって言ってるんだけどさー。
――……居るよねー。無謀な目標目指すやつって、
（……うるせぇよ）
勝手な言い分を耳にする金城。自然と顔が歪んだ。赤の他人にそんなことを言われる覚えは無い。そう思う金城であったが、そんなことは露知らず、彼女たちは無邪気な悪意を漏らし続けた。
――そういえば金城っていえばさ、何時も草地くんと居たよね
――ちょっとレン。それ禁句
どうやらこの悪趣味な会話をしている一人はレンという名前らしい。高めな声や喋り方は何処かで聞いたことはあるが、自分のクラスではない。
――いいじゃん。どうせ誰も聞いてないんだし。
（……聞こえてるよ、ボケ）
腹立たしい思いが込み上げて、思わず女子を貶すような言葉を漏らす金城。
――まあ、そうだね……あーあ、草地くんか。私けっこう好きだったのにな。
金城の眉間に更なる皺が寄った。その顔には不快感がありありと見え、奴がどれだけ不穏な感情に苛まれているのかが分かる。
（何がそうだね、だ……他人事のように、軽い話題のような喋り方しやがって）
それは仕方のないことだ。事実、彼女たちにとって草地と言う人物は他人だった。例え、同じ学年に居たとしても、奴に少しの気を持っていたとしても、それは彼女たちにとっては日常のほんの一部でしかない。
だが、確かに普通の神経を持っていたとしたら、そんな軽々しく死刑囚の話など出来ないだろう。もしかしたら彼女たちは頭の軽い人種なのかもしれない。
――怖いよねー。まさかうちの身近に犯罪者がいたなんてさ。
――ねー。まさか宝石店から物を盗むなんて、普通の神経じゃないよ
（……黙れ。何も知らないくせに）
パキ、右手に握る鉛筆にヒビが入った。どうやら相当握りすぎてしまったらしい。だが、金城は構わずその芯をギリギリと握りしめた。そうしなければ、彼女たちに大きな罵倒を浴びせかねないからだ。
――いくらしたんだっけ？ その宝石
だが、少女たちの口は終わることを知らず、その無邪気な会話を続けた。がたり、もう我慢の限界だというように金城は椅子から立ち上がった。拳は震え、歯はギリギリと音を鳴らしている。
ズカズカズカ。大きな音を立てながら上履きを踏む。窓際へと寄り、そこから出て彼女たちが居るグラウンドへ向かおうとした。
その時だった。
「どうして、そんなこと言えるの？」
綺麗なソプラノが聞えた。
それは懐かしくも、凛とした声だった。久々に聞こえたその愛おしい声に、金城の心臓は跳ねあがり、枠にかけていた膝も自然とピタリと停止する。外の広いグラウンドの手前には三人の女生徒が見えた。そのうちの二人は白と赤の体操着を着ており、やはり金城にはあまり覚えの無い少女たちだった。隣のクラスで確かに見た気がするが、ハッキリと記憶には残っていない。だが、そんな二人は金城にとってはどうでも良く、金城はその目を彼女たちの隣へと走らせた。
視線の先には風に揺れて靡く黒髪。綺麗に通った鼻筋に、桜色の唇。瞳は最後に会った時とは違う、強い光を灯していた。三週間ぶりに見た女は大分体調が良くなったのか、体は少し肉付き、その姿は以前のように輝いて見える。
「い、なせ……」
金城の唇から震えた吐息が漏れた。メールでのやり取りはしていたが、どうやら本当に具合が良くなったらしい。
「……誰、あんた？」
怪しげな声色が先ほど草地の噂をしていた女子から発せられる。だが、そんな様子も意に介さず、伊那瀬は力強く質問を返す。
「どうして、貴方たちは草地くんが盗みを犯したと言えるの？」
「……はあ？ そんなのニュース見れば分かるじゃん」
「でも、先週の金曜日言ってたよね？ もしかしたら草地くんじゃないんじゃないかって……」
「いや、何言ってんのあんた？」
「私も用事があって学校に居たから聞えたの。貴方たちの話し声、あの時も大きかったから」
どうやら先週もこの話を話題にしていたらしい。その事実に金城は苛だちと同時に呆れの感情を覚えた。そんなことをやっている暇があるなら部活に集中しろよ、と。
「宝石店でまた同じ物が盗まれた時。皆騒いでたじゃない、もしかしたら草地くんは無実で、本当に宝石を盗んだのはその犯人なんじゃないかって……私たちだけは草地くんを信じてあげようって」
――なんだ、それ。
金城は伊那瀬のその言葉を聞いて怒りを覚えた。日曜日までは草地の死刑に関してのニュースは流れていなかった。だが、あの世田谷宝石店で再び起きた盗み、否、強盗事件で辺りは騒ぎになっていた。それもそうだろう、犯人が捕まったはずの宝石店で盗みが再び起きたのだから。だから、一度だけ疑いが出たのだ。もしかして、犯人は草地じゃないのかもしれない、と。
どうやらその時、彼女たちは自分だけでも草地を信じようと、その偽善的な言葉を学校の中で触れ回っていたらしい。
ぐっ。金城は口を強く引き結んだ。強盗を起こした犯人は金城だ。奴はあの時、あの豚のラジコンで盗みを働き、それで草地の疑いが晴れないかと模索したのだ。そして結果、それは成功した。人々の中に警察や法務省などの行政機関に対する疑いが現れ、彼らの心中は金城の狙い通りに動こうとしていた。だが、それは失敗に終わった。否、むしろ草地の立場を更に悪くしてしまったと言っていいかもしれない。その、浅はかな思い付きのせいで……。
「……なに、それ。何時の話よ。大体その事ならあんたも昨日のニュース見たんでしょ？
死刑の執行中に事件が起きたって。草地くんが逃亡したんじゃないかって、テレビの人だって騒いでたじゃない」
金城の胸を抉るような言葉が女子から紡がれる。だが、それに気づかず伊那瀬は毅然と言葉を返した。
「騒いでいただけでしょう？ それは可能性の話でしかない。犯人は別に居たし、草地くんはもしかしたら逃げたんじゃなくって、捕まってしまったのかもしれないんだよ？」
「はぁ？ だとしたら何のためによ？ あんた馬鹿？
警察の人も、強盗とテロの犯人は同一人物だって言うんだから、宝石を狙ってやったんでしょ？
大体、草地くん実際に消えてるんだからさぁ、もしかしたらその犯人とグルってこともあるじゃん」
その通りだ。それは正に正論で、傍から見ればありえる可能性だった。
金城は後悔した、思い付きで碌な先読みをせず、動いたことを。「こうすれば皆の中に、草地の刑に対しての疑念が生まれる」と、心の底からそれを信じ切っていた金城の行動は軽はずみなものだった。テロを起こしただけならまだしも、あの余計な盗みを働いたせいで、草地の立場を更に悪くしてしまった。元々証拠不十分だったその犯行が、金城が起こした事件により、更に疑わしいものとなったのだ。
伊那瀬はその当然の反論に、ぐっと怯みながらも言葉を返そうとした。
「だとして、それだって唯の可能性」「あのさぁ」
「あんた本当に何様？ 誰なわけ？ 一々口つっこまないでくれる？ ちょーうざいんですけど」
煩わしそうな声色、明らかに彼女たちが伊那瀬のことを煙たがっているのが分かった。当然だ。伊那瀬自身もそれをよくわかっていた。それでも草地たちの暴言を偶然耳にしてしまい、どうしても大人しくせずにはいられなかったのだ。
伊那瀬の声が弱まったのをいいことに、彼女たちはそのか細い小さな体へと詰め寄った。
（伊那瀬！）
それに気が付いた金城は急いで彼女の元へと駆け寄ろうとしたが、足が竦んで動けなかった。
（なんで……俺、）
動かない足元を金城は睨みつけた。情けない。好きだったはずの彼女が追い詰められているのに、自分はその彼女を助けに行こうとすることも出来ない。
金城はそんな自分に苛立ちを覚え、恥じた。
「ねぇ、あんたさ」
伊那瀬に追撃の声をかける彼女たちの声が聞えた。駄目だ、そう思った時だった。
「そういう貴方たちも部活をさぼって何をしているのかしら？ 何様のつもり？」
それは、とても聞き覚えのある、金城が嫌悪していた声だった。
「へっ……て、げ！？ なえセン」「ちょっ、馬鹿！」
（……は？）
視線の先。金城は己の目を疑った。
肩まで切り揃えられた髪、真っ白な肌と目元を大きく隠すビン底眼鏡。その顔には化粧気が全く見えない。
（……まじで、誰だよ）
「貴方たち。花世さんが探してたわよ。くだらないお喋りをしている暇があるのならさっさと戻りなさい」
「は、はい！」「す、すいませんでした！」
険のある声に女生徒たちが怯む。例え、教育実習生だとしても相手は年上の女。何故かは分からないが、女性――土宮香苗に逆らってはいけない何かを感じたのだ。それに彼女に逆らうと後々面倒だ。
伊那瀬を追い詰めようとしていた女生徒たちは、そそくさと逃げるようにグラウンドへと向かった。その先には他の部員たちも見える。恐らくアソコに土宮香苗の言っていた“花世さん”が居るのだろう。
その様にしばらく呆然としていた伊那瀬はすぐさま我に返り、土宮香苗と向き合った。
「あ、あの。有り難うございます」
「……私は彼女たちを注意しただけよ。それより伊那瀬さんも貴方も休んだ分の課題を提出していないでしょう？ 常田先生が待っています。さっさと行きますよ」
伊那瀬の礼を意に介した様子も見せず、さっさと先へと進む土宮香苗。伊那瀬はその後を慌てて追いかけていった。
その二人の後ろ姿を見て、金城は力が抜けたのか床へと座り込む。知らず息が漏れた。
「……何、やってんだよ。俺、」
くしゃり。前髪を掻き毟る金城。己の不甲斐なさを感じた瞬間だった。
「……本当に、馬鹿じゃねーの」
良かれと思って起こした行動は仇となり、自分へと帰ってきた。何が「宝石も取られたって構わない。必要なのは、“また盗まれた”と言う事実だけだ」、と金城は過去の自分を殴りたくなった。結局それは草地の犯行に疑念を与えるどころか、余計に信憑性を与えてしまった。
「……草地が捕まっている間にやれば、疑いは出るって思ったのにな、」
それは金城の後先の考えなさを証明する言葉だった。少しでも考えれば、草地が執行日に行方不明になった時点でそれは“不可能”だと分かるはずなのに、金城は気付かなかった。
「まじで、阿保だ……」
恐らく金城は“調子に乗っていた”。玩具を犯行に使うと言う奇天烈な発想を抱けた殊に優越感を感じていた。
他の誰にも思い浮かべることの出来なかった手段を自分だけが気付けた。それは元は先人たちの知恵からくるものでしかないのに、金城はそれを忘れて、舞い上がったのだ。見つけた意外な手段に興奮し、恐々としながらも計画を練ることを楽しんでいた。そして放棄してしまった、ちゃんと思考することを。
だからこそ奴は犯行の最中、何度も驚き、己が起こした騒ぎに対して恐怖を覚えたのだ。
金城は確かに勇敢な男だった。しかし、同時に認めなくてはならない。奴が“火遊び”を楽しんでいた、唯の愚かな子供であったことを――。
（俺は、草地の立場を更に……）
ゴツン。壁に己の頭をぶつける。
そんなつもりはなかった。「後悔したくない、草地を死なせたくない」、とそんな思いがあったからこそ、金城は犯行を起こしたのだ。
だが、最初に計画を練っているときに自分は優越感に浸っていなかったか？ 踏み込む非日常に興奮し、大事なものを忘れていなかったか？ と問われれば否定することはできない。
（……消えたい）
蝉の鳴き声が響く中、金城の思考は暗闇へと沈みかけていた。
受験と言う言葉は、この時、もはや奴の思考から消し去られていた――。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
放課後。
あれから結局金城は答案を全て埋めることが出来ず、担任の教師に呆れたような視線を投げられた。だが、そんな事は最早気にならず、金城はぼんやりとしたまま、学校を後にした。
そんな時だった、
「ねえ、君。金城理人くん？」
空が橙色へと染まる中、補修を終えて帰路を歩もうとした金城に誰かが声をかけた。
沈んだ思考、胸に渦巻く不穏な感情を抱えながら金城は振り返った。
「……」
視界の先、横断歩道の前には桃色の髪を靡かせる“女性”が居た。白いフリルのついたブラウスは美しいラインを描いており、彼女の能満な胸と、細い括れを強調させている。目鼻整っており、清楚な顔には何処から色気が漂っていた。
にっこり。そんな効果音が付きそうなほど口角を上げて目を細める彼女。艶やかなその唇からは、透き通るのような声が奏でられた。
「初めまして、篠田メイと言います。草地巴くんのことでちょっと、お話を聞きたいのだけど、良いかな？」
