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私は犯罪者ですか?  作者: 苗字名前
第2章――物語の始まり、”反逆者の誕生日”
23/53

それは結末か、序章か――

少し長めです。

 


 

 激流の中、金城は目を開けずに居た。“道具”が強い流れに押されて前へ進み続ける。それに伴って右手の手錠が引っ張られるのが分かった。手釘が引きちぎれるのではないかと思えるほどの勢いだ。川へ飛び込んでから数分――。


(……酸素ボンベが)


 口の中に含んでいる白いおしゃぶりのようなそれを歯で咥える金城。それは川へ飛び降りる際、草地にも咥えさせたものだ。市販で買えるそれは安物で、そう長くは続かない。持ってせいぜい20分だろう。

 重い瞼をぎこちなく開ける。眼球に水が触れるも、金城は感じる違和感に耐えて視線を左右へと向けた。隣を見ると草地もまた“道具”へとしっかりと左手をしがみつかせていた。強い流れの中、見えるその顔は険しく苦し気だ。


――このままでは、いけない。


 酸素が回らなくなり始めた頭で金城は“道具”を操作しようとする。そして“それ”はゆっくりと金城の指示に従って少しずつ上へと浮上していった。だが、


(……だめ、だ)


 金城は当の前に限界を超えていた。瞼は徐々に降りていき、ゴポリと口から息が漏れた。

 体から段々と力が抜け、そのまま水に流される。


 視界が暗転した。









♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢


  微睡みの中、金城の意識がゆっくりと覚醒していく。

  頭が痛い。目の前が真っ暗だ。背中から柔らかい感触が伝わってくる、布団だろうか。


(俺は、どうしたんだっけ……)


 スウ、と金城は息を吸い込んだ。日向の匂いがする。だが、自分が川に飛び込んだ時、辺りはまだ暗かったはずだ。


(今、何時だ? いや……そもそも此処は何処だ、天国か)


 上手く回らない頭でぼんやりと思考する。

 まず、目を開けようとした。重い瞼は震えながら開く。少し揺れる視界を左、そして右へと向けた。

 すると、其処には壮齢の男が居た。驚いたように目を見開くその男は顎髭が汚らしく散らかっているように見えるが、不思議と威厳を感じる佇まいをしていた。


「よかった……目が覚めたか」


 金城を見つめるその表情は柔らかい。男は安堵したように息を漏らした。


(誰だ、この人……?)


 見たことの無い男だ。多少の皺が刻まれた目元に、白髪交じりの太い眉毛。肌黒い顔は優しげな顔をしていた。


(この人は、誰だ?)


「……あの、」

「気分はどうだい?」

「……少し、頭痛はしますけど。それ以外は」

「……そうか。水は飲めるかな?」

「お願いします」


 男は了解したとばかりに息を吐くと、隣に置いてあった急須からコップに水を注いだ。


「起きれるか?」

「はい、大丈夫です」


 手渡されたコップを受け取って、水を喉に流し込む。相当喉が渇いていたのだろう。ゴクゴクと丸ごと一杯、一気に飲み込んでしまった。

 ぷはあ、と一息を吐く。喉は潤い、体の中が洗い流されたような気がして気持ちが良い。金城は己が生き返ったような気がした。


 「ありがとうございます 」とお礼を言いながら男にコップを返すと、「もう一杯いるか?」と問われてもう十分だと頭を振った。

 ぐるりと自分の居る室内を見渡す。簡素な部屋だった。金城が寝ているベッドの隣に窓と、目の前の男が座っている椅子以外は何も無い。狭い空間の中、小さな窓を通して太陽が光を差す。辺りは静かだ。


「あの、あなたは……」

「ああ、そうか。すまない、まずは自己紹介をするべきだったな。

 私の名は敦賀つるが敦賀宗次つるがそうじ。こういう者だよ」


 差し出された名刺は今時珍しい紙媒体の物だった。金城は恐縮したようにぺこりと頭を下げながらそれを両手で受け取る。恐る恐る、その名刺を読み上げた。


「フェイフ……の人? っ、もしかして、ツルガさん!?」


 カードの右上に飾られた三つの花のエンブレム。5枚の白い花弁を象るそれの名前は“藪柑子”。花言葉を“明日の幸福”。


「ああ、そうだよ……初めまして、君は金城くんだね?」

「……はい、」


――Faithフェイフ


 それは日本ではあまり知られていない、死刑廃止団体の名前だ。

 知ってのとおり、日本には絶対処刑法があり、それは国民の中で強く根付いている。法こそが正義、正義こそが絶対。それは日本という国そのものが掲げている信念であり、常識だ。例えどんな理由があろうと、どんなに幼かろうと、法を犯した者は必ず処刑されなければならない。何故ならそれが“正しい”からだ。


 だが、全ての人間がこの理念を受け入れている訳ではない。本当に極僅かだが、その常識が“異常”だと言うことに気付いている人間は確かに居るのだ。人の“死”を簡単に受け入れる民衆を恐れ、嫌悪を抱き、不満を持つそんな人間が――。


 そんな人間はこの国では“軽蔑”の対象とされる。日本、いや、日本人は自然と彼らを“Bloody-minded”(通称ブラッド)――法を受け入れず、犯罪者を受け入れる“非常識”、或いは“偏屈”な屑と呼んだ。


 彼らはブラッドを“低俗な人種”と見なし、軽蔑し、冷たい眼を向けた。それには肉体的な苦痛は無くとも、精神的な痛みをブラッドたちに伴わせた。ブラッドには物理的な居場所があったとしても、精神的に安らげる場所は無いのだ。そんな彼らの多くは他国へと逃げ出し、余生をそこで過ごしている。


 Faithとはそんな日本人で出来上がった、言わば集団だ。

 表向きは死刑に対する小さな抗議行動ばかりだが、実際には草地のような重刑に値しないと思った人間を国から逃がすため、密やかな手続きを取っている団体だ。それがFaith――“草地たち”を“信じる者”たちだ。


 どうやら、金城が居るこの寝室のような場所は彼らのプレジャーボートの中らしい。東京湾奧の第3空港までそのまま向かうようだ。


「……まさか、本当に彼を連れ出してくるとは思わなかったよ。こんなボロボロになって、すまない……私は、」

「いえ、俺が自分で頼んだことですし。無理強いをしたのは俺です。本当はそちらだって危険な橋を渡っているのに……」


 その言葉に敦賀と言う男は苦笑した。


 今から数日前。金城は彼らと連絡を取るためにネットカフェに居た。


 例え絶対処刑法と言う名の法律があったとしても日本は建言の自由を許されている。数は少ないが死刑廃止団体も、彼らと連絡を取るためのサイトも、禁止されているわけではない。金城はそれを利用して彼らと連絡を取ったのだ。ネットカフェに居たのは念のため、IPアドレスを使って警察に嗅ぎつかれぬためだ。もちろん、カフェでも顔は隠していた。


 死刑廃止団体のサイトはFaith以外にも幾つかあった。金城はそれを片っ端から調べて連絡を取り、草地のことを相談した。だが、惨敗だった。

 

 理由は明確だ。死刑囚に関することは反政府行為にあたる。それを犯せば、彼らは反逆者と見なされ、それに関わったものは全て不穏分子として処罰されるのだ。幾ら数少ない囚人の釈放や拷問、死刑の廃止を無くすために活動をしているとは言え、法に触れる、“日本を敵にまわす”様な恐れ多いことは出来ない。だから草地の話題が出る度、金城の願いはことごとく断られた。可笑しなことに、“死刑廃止団体”を名乗る数多くの団体は“死刑囚”の話を禁句タブーとしているのだ。


 それでも金城は諦めなかった。諦められなかった。粘り強く毎日サイトにアクセスしては色んな団体と話をした。そして、その中で唯一彼に答えてくれたのが“Faith”だ。

 

 しかし、Faithとて幾ら非政府組織と名乗って居ても所詮は一般人の集まり。例え、裏工作が出来たとしても、直接事件に関わるようなリスクを背負うことはできない。だから、彼らは言った。


「自分たちは政府に逆らうつもりはない。日本での活動を終えたらすぐに“船”に乗って帰る。

 だが、もしも我々に参道する“同志”が居るのならば、共に連れて行こう」


 それは草地を連れて国を出ても良いという了承の言葉だった。

 彼らは金城に落ち合う場所を指定し、草地をそこまで連れてくるよう指示した。そう、彼らの“船”が待つ鶴見川へと――。


「……本当にすまない。もう少し江田の近くへ行けば良かった。まさか、あんなことになっていたなんて」

「……えと、俺らは」

「指定の時間より随分遅かったからね。やめたのかな、とも思ったけどあんなに必死だったんだし途中で諦めるはずもないか、と思ってね

 ……もう少し近くの早渕川まで行ったんだ」


「いや、驚いた」と敦賀は大きなため息を吐いた。その意味が全く理解できず、金城は眉を顰める。


「……息、してなかったんだよ?」

「……え?」

「暗闇の中、仲間が“何かが居る”って言うものでね……目を凝らしてみたらコリャ、ビックリ。人間が二人も浮かんでいたんだよ。しかもベルトで“之”に繋がれて」


 そうして敦賀が横の床から拾い上げたのはジェットと羽が付いた円盤――Sea Diverシーダイバーだった。それは本来、海の娯楽でダイビングなどのために使う物だ。イルカのように動くその特殊な性能から、水着でも安全に潜れると評判だ。手錠のようなセーフティベルトも付いていて、今のところ子供が振り落されるという事故も起きていない。

 

 早渕川は鶴見川水系の支流であり、金城たちが飛び込んだ川は其処と繋がっていた。それを知っていた金城はアソコで飛び込み、ダイバーを使うことで敦賀たちの元へと辿り着くことが出来たのだ。だが、息が続かなかった金城たちは途中で意識を失ってしまい、水に体温を奪われ、衰弱していた。あのまま発見が遅ければ応急処置では間に合わず、死んでいたかもしれない。最早運が良かったとしか言いようがない。


「……まさか、これを使ってくるとはね。川を下ってくるとは思わなかったよ」

「……すみません。それ以外に方法がなかったもので」

「いや……それほど君は勇敢だったということだ。よく頑張ってくれた」


 たおやかな笑みに異論の気配はない。心から金城を称賛している証拠だ。

 それに対して金城はどこかむず痒そうに身じろぎをし、敦賀に尋ねた。


「あの、それで……草地は」

「ああ、無事だよ……」


 その言葉に金城は安堵の息を漏らす。


「ただ、腕の方はちょっとね……ここでは医者に診せられないし、どうなるのか正直分からない。今、別室で君と同じように休んでいるよ」

「……そうですか」

「金城くん、君はこれからどうするつもりだい?」


 それは処刑場に居た頃から金城自身が憂惧していたことであった。金城は徐々に顔を俯かせ、布団を握る手を震わせる。そんな彼を敦賀は静かに見つめた。


「……敦賀さんは、この“国”をどう思いますか?」


 それは金城が長らく胸に抱いていた疑問だった。“日本人”以外の人種は、この国をどう見て、どう思っているのだろうか。


「“異常”だね……」

「……」


 それは金城も薄々と気付いていた答えだった。


「この国は確かに安全な国だ。人が法を守り、法が秩序を守る。そのお蔭で犯罪者はこの国にはもはや殆ど居ない。

 絶対的な罰を与えられるからね」

「……それでも、」

「ああ、それでも過ちを犯す人間は居る。ニュースとして報道される小さな万引きでも牢獄へと幽閉され、“人生”と言う名の生活を奪われ、世間から差別を受ける。

 それは一見、正しくは見えるのかもしれない。けどね、私から、私たちから見たらそれは“行き過ぎ”なんだよ」


 日本と言う国で犯罪を犯す人間は年に一度や二度しか現れない。その度彼らは“珍しい”餌として全国へと報道され、見せしめに必要以上の罰を与えられた。だが、それを“異常”と認識する人間は誰一人、この国には居ない。それが敦賀にとっては恐ろしかった。


「……吐き気がしたね。一度だけ、私と同い年ぐらいかな……10年前にストーカー行為を犯した人間が居たんだ」

「……それは、」

「ああ……許されることではない。けど、それでも……どうしても私には彼が死に値するとは思えなかったんだ。

 彼は確かに反省していた。己の行為を悔いていた。なのに、」


 その男は被害者のたった一言で処刑された。


「……根拠も何もない。ただ、被害者の女性が“死に値する”。そう言っただけで彼は処刑されたんだ」


 実際にどういう状況だったのかは敦賀には分からない。もしかしたら本当にその男は女性に膨大な恐怖を味わわせるほどの、何かをしたのかもしれない。


「……けど、あの顔を見たとき、私にはどうしても彼が“死んでも良い”ようには見えなかった」

「……」


 今でも敦賀は鮮明に思い出せた。憔悴しきったあの顔、潤んだ瞳。被害者へと深く垂れた頭。可笑しなことに、其処には彼の“誠実”さが見えた気がした。


「例え、それが嘘だったとしても……俺には、受け入れなかった」


 だから敦賀は逃げ出した。日本を出、外国を転々とし、母国を見つめなおした。


「たくさんの物を見た。たくさんの人と出会った。そして知った。日本という国の“異常”さを」

「……」


 近年、<クリミナルスワイプ>と言うシステムが生まれたことから世界は日本と同様の“精神主義”を掲げるようになった。アメリカ、フランス、ギリシャ、多くの諸国が日本の在り方に意を唱えるようなことはない。公に認め、そういうものなのだろうと、受け入れる国もあれば、その犯罪率の少なさから称賛を称える者も居る。


 最も安全で正当な国――それが日本。


 だが、そんな国に対して、その異質さを否めない人間も居た。そう、例えば敦賀たちが在住しているベトナムやタイ、それからアメリカの一部の州も日本の絶対処刑法に対しては不合理性を感じていた。「幼子にまで法を適用させるなど」、と。


 数々の国には確かに死刑廃止団体が腐るほど存在するのだ。

 だが、その矛先が日本に向くことは無い。何故なら日本は今や“絶対的な力”を有しているからだ。刃向う者は全て真っ向から叩き潰し、屈服させる。それは政治的な力として働くこともあれば、物理的な“正義”として動くこともある。


「……残念ながら今の日本を変えるのは不可能だ。幾ら活動を行っても、日本人は耳を貸さないし、むしろ我々を”ブラッド”として蔑む。

 金城くんは“アムネスティ・インターナショナル”、と言う組織を知っているかい?」

「……ネットで廃止団体について検索した時、最初に出てきました」

「……そう。あれはね、昔は大きな組織だったんだよ。

 国際的な影響力を持った、死刑廃止の呼びかけもする、大きな人権救済機構だった。でも、この国の前ではそれも通用しなかった……」


 国際連合との協議資格をもつ、国際的影響力の大きい非政府組織(NGO)である国際人権救援機構アムネスティ・インターナショナルもまた、日本の前では無力だった。日本の絶対処刑法は“絶対的な常識”として受け入られているため、幾ら支援活動をしても、国民は誰一人振り向かなかったのだ。


「……匙を投げたと言えばいいのか……日本のその価値観の前では、彼らでさえもどうすることも出来なかった」

「……」

「日本にも支部はあるけど、それも名ばかりだ。あそこに人など殆ど居ない……」


 公益社団法人、アムネスティ・インターナショナル日本(支部)は、世界中のさまざまな場所で起こっている人権侵害の存在を国内に広く伝えるとともに、日本における人権の状況について普及啓発を行っている公益法人だった。そう、“だった”はずなのだ。


「……うちの父が言ってたよ。あの人もブラッドでね。

 どうして、そうなったのかも。何時そうなってしまったのかは分からない。

 いつの間にか世界、否、日本の常識は変わっちまったって……」

「……」

「……日本の異常さに他国も薄々気づいている。でも所詮は他人事だからね。放っておいているんだよ。そんな国なんだって……」


 嘲りのような笑いが敦賀の唇から漏れた。その表情はどこか悲しげだ。


「……何処の国にも死刑は法として認められているからね……日本は“ちょっと厳しいだけ”。

 心ではそう思ってないくせに皆そう言う……それが外から見た、“日本”だ。どこか“異常”と分かっているからこそ、手を出せない国」

「……」

「安全な国であることには間違いないんだけどね。普通に観光地としても外国では大人気だし」

「……そ、ですね」

「……金城くん。私から見たら君は間違いなく“ブラッド”と認識されるタイプだ。此処はいずれ君にとって生きにくい場所となるやもしれない。

それに、今回の事件で……君は間違いなく指名手配されるだろう」


 ギリ。金城の拳が鳴った。それに気づかぬふりをして敦賀は続ける。


「……悪いことは言わない。私たちと一緒に来なさい。此処から連れ出すのに一人も二人も変わらない。

 大丈夫。一応、空港の内部には数少ない協力者が居るからね。捕まるリスクは殆ど無いと言っても良い」 

「……俺は」


 金城はゆっくりと目を瞑った。

 脳裏では母や、伊那瀬、爽太くんたちの顔が過る。トクントクン、鼓動を鳴らす心臓へと服越しに触れた。


――答えは既に決まっていた。


「此処に残ります」

「……」


 少なからず敦賀は彼の返答に瞠目した。


「……大丈夫です。ずっと仮面で顔は隠してたので俺だとバレてはいないし、色々と足が付かないように頑張りましたから」

「金城くん……」

「ここは確かに、俺にとって住みにくい場所になるかもしれません。それでも、此処には家族や守りたい人がいる。

 だから、俺は此処に居ます」


 はあ。大きなため息が室内に響いた。


「……何故だろうな。君ならそう言う気がしていた」

「……」


 今度は金城が苦笑した。敦賀は確認するために再度彼に問うた。


「本当に、良いんだね?」

「はい。どうか、草地のこと……宜しくお願いします」

「……わかった」


 頭を下げる金城。その願いを敦賀は静かに受け取った。

 すると、誰かの敦賀を呼ぶ声が室内へと届く。


「敦賀さーん! 見えてきましたよー!」

「おう! もうそんな時間か……よし分かった!」


 胡坐を欠いていた足を解き、立ち上がる敦賀。金城はそんな彼を視線で追うが不意に目が合って驚く。


「では、降りる時間だ金城くん。君を東京湾まで連れていくことは出来ないからね。

 矢向近くの船着場に下ろす」


 矢向駅は渋谷からそう遠くない。40分程で金城も自宅に辿りつけるだろう。


「これ、君の服だ。悪いが、勝手に着替えさせてもらったよ。あのままじゃ、風邪をひいていたからね」

「……あ、有り難うございます」


 言われてみれば金城は黒のパーカーを着ておらず、白いシャツにジーンズと言う格好をしていた。手渡された紙袋の中身を見ると、元の服は丁寧に畳んであった。


「すみません、何から何まで……」

「いや、構わないさ。さあ……行こう」



 背を押されてゆっくりと自分が居る室内から出る。船はさほど大きくはないが、清潔感があって綺麗だった。部屋から出て廊下を右に曲がる。すぐそこには出口が見えて、カーペット張りの床を一直線に歩いた。ガチャリ、扉の隙間から外の日差しが漏れ、開けると太陽が燦々と金城を照らしつけた。行き成りの眩しさに目が眩み、手を額へと翳す。

 

 目の前にはデッキが広がっている。外を見渡すと其処は見たことのない街中だった。遠くにはビルや住宅街が見える。船は既に船着場に止まっていて、コンクリートの橋へとデッキから降りれるようになっている。

 早朝なのか、夏なのに肌寒い。気のせいか霧が立っているように見えた。

 船着場の橋には男が一人立っており、こちらに向かって手を振っている。


「今はまだ朝の4時ぐらいだからね。人は居ない」

「……」

「あそこで手を振っているのはうちの同僚。此処に残るそうだから、駅までの道案内は彼にしてもらうといい。

 ……大丈夫かい?」

「あ、はい」「金城」


 敦賀の心配気な問いに頷こうとすると、突然後ろから声をかけられた。金城は聞き覚えのあるその声に振り向く。そこには、


「草地……」


 白い囚人服を脱ぎ、紺色のTシャツと黒の半ズボンを履いた草地の姿があった。右腕は新しく包帯で巻かれて、綺麗にギブスもつけられている。誰かがやってくれたのだろうか。

 草地の背後からもう一人女性が奧の扉から出てくる。薄茶の髪に、翡翠の瞳は日本人には見えない、西洋の人だろう。彼女もFaithの一員らしい。話を聞くと、どうやら彼女が奥で眠っていた草地を連れてきてくれたようだ。


「ワカれのアイサツはダイジかと思って……今のジカンタイならだれも居ないし、良いでしょう?」



 言葉に訛りはあるが、彼女の言おうとしていることは何となく理解できた。気を聞かせてくれたその態度を通して、彼女の優しさが垣間見える。首を傾げた彼女に敦賀も頷いた。どうやら彼も賛成の様だ。


「……行くのか」


 真っ直ぐにこちらを見つめる草地に金城はそっと目を伏せた。


「……ああ、俺は此処に残るよ。お前とは此処でお別れだ」

「……そうか、あの玖叉って男には気をつけろよ」

「大丈夫だって、暗かったし、多分顔はハッキリ見られてないと思うから……」


 僅かな沈黙が二人の間に落ちる。緩やかに流れる水の音が空気を震わせた。

 他に何を言えばいいのか分からず、草地は困ったような顔で視線を泳がした。すると、


――ズルリ


 濡れた音が耳元まで響いて、再び視線を前へと戻した。


「おまえ……ブサイクだな、」

「うるぜえ!」


 醜いとしか形容しようのない顔がそこにあった。唇は堅く閉ざすように咥内へと吸い込まれ、鼻下がゴリラのように伸びている。眼球はこれでもかと言うぐらいに飛び出ており、血走っていた。錯覚か、それは微かに潤んでいる。鼻穴もピクピクと、これまたビー玉が入れるような大きさへと膨らんでおり、それは余計に金城の醜怪しゅうかいさに拍車をかけていた。


 金城は泣きそうになっていた。


 この気持ちをなんと筆舌すればいいのか。

 そう……それはまるで友達が遠くへ引っ越してしまうようなそんな寂しさだ。だけど、金城たちの場合は違う。此処で草地が日本を出るということは、二度とここには戻れないということだ。もしかしたら、二度と会えないかもしれない。その事実が、不覚にも、そして悔しいことに金城の涙腺を緩ませていたのだ。

 そんな奴を見て、草地は「しょうがない奴」、とでも言うように長嘆息した。そしてふと、大事なことを思い出す。



「……金城」

「なんだ?」

「伊那瀬たちのこと、頼んだぞ」

「……」


――”わたし……草地くんのことが好きなんだ。”


 にょきり。金城の胸の中で、新たな不穏な感情が芽生えだした。潤んだ瞳が僅かに大きく見開く。金城は鼻水を啜り、目元を擦った。

 そうしてしばらくすると、落ち着いた様子を見せた金城は、次いで莞爾として笑う。気のせいか目が虚ろに見える。


「いやだね」

「……は?」

「誰がんなことするかよ」

「……なに?」

「大体頼むって意味わかんねーし。何を頼むんだよ」

「いや、お前伊那瀬のことす……」「どっかの糞野郎のせいで振られちまったんだよ!!」「っは!?」 


 思わぬ怒号に草地は驚いた。金城は地団駄を踏みながらも喚き続ける。「まるで怒った猿のようだ」と幻覚を見そうになりながらも、草地は奴に確認をした。


「……まじで?」

「おお、そうだよ!振られたよ!ブロークンハートだよ! デイザスターだよ畜生!」

「ディザスターな……」

「うるせえよ! だからお前は一言余計なんだよォ! 発音なんてどうでもいいだろォ!?」


 呆れた視線を寄越す金城は更なる苛立ちを覚えた。


(ちくしょうぅぅ! 何が「まじで?」、だよ! お前のせいだよ馬鹿野郎!)


「やっぱお前死ね! 死んで暴発ぼうはつしろ! この糞リア充!! 俺の涙返せえぇぇぇ!」

「はあ? 何時おれのリアルが充実したんだよ? ……ってか、お前」

「うるせえ! お前なんかバナナの皮で擦りむいて頭を打てばいいんだぁぁ!」


 うわぁん、と滲み出した涙を拭いながら船から橋へと飛び降りる金城。その惨めな後ろ姿を見て草地は思った。


――バナナって、なんだよ……


 草地の後ろでは敦賀が呆気にとられたような顔で立っている。どうやら金城の奇行に少なからず驚いたようだ。一体彼は行き成りどうしたというのだろう。敦賀は突然急変した金城の様子を呆然と見つめていた。


「……金城くん」

「カワイイボウヤですね。私、ニホンゴでこれをなんと呼ぶのかシッてます。

 “負け犬の遠吠え”っていうんですよね?」

「……ナンシー。それは何処で覚えたんだい?」


 ある意味的の当たっている言葉をくれた女性――ナンシーに敦賀は冷汗を垂らした。一体誰がそんな表現ことばを彼女に教えたのだろうか。


「そんなことよりツルガさん。時間です」

「あ、ああ……」


 その言葉を合図に白船がゆっくりと動き出す。


 船着場の橋で待っていた案内人の元まで走り去ろうとした金城は、聞こえたエンジン音に反応して、振り返った。

 見れば船は既に川の流れに沿って東京湾の方面へと動き出している。金城は慌てて、橋の先まで戻った。草地たちが乗っている船との距離は約2メートル程。


「くさっ、……ともえ!」


 苗字で呼ぼうとしたが、今の時期はニュースにより、“草地”と言う名は目立つ。金城は慌てて草地の名前を言い直した。この呼び方をしたのは初めてで、何処か照れくさい。船の中へと戻ろうとしていた草地は、その呼び名に多少驚きながらも振り返った。


「受け取れ!」


 ポーン。何かが大きな狐を描いて草地へと投げだされる。それは船のデッキまで届きそうになく、草地は慌てながら目の前の柵から乗り出し、片手で“それ”をキャッチした。片腕が使えないため、少し危なげな動作ではあったが、何とか船から落ちることは避けられた。そのことに草地はホッとしながらも、左手の中に納まる物を見た。それは手に収まらぬぐらい大きく、ツルツルとした表面を持っている。


「これは……」


 眠たげな眼。仄かに赤く染まった高い鼻。真黒な髪は可笑しなことに二つに分かれていて角のように見えた。不敵な笑みを携える口元には長い顎が生えている。


「オヤ、ビン……」


 それは金城が被っていたお面だった。

 草地は心の底から思った。


――いらねぇ……


 気のせいか草地の鋭い眼は半目になっており、下には隈が見える。口が僅かにひきつっていた。


「餞別! 大事にしろよ!」

「いらねぇよ!? なんだよコレ!? 証拠隠滅のつもりか!?」


 草地は柄にもなく叫んだ。

 だがそんな彼の様子を意に介さず、金城は続ける。後ろでは案内人が気のせいかオロオロとしていた。敦賀も彼同様、フェリーから転がり出る。


「ちょっとっ……二人とも!声がおおきい……!」


 住民に見つかったらどうするんだと彼は焦った。金城たちはともかく、草地が見つかったらまずい。敦賀は急いで草地の背中を船中へと押しいれようとした。それを見て金城は焦燥し、更に声をあげる。


「じゃあ、返しに来い!」

「はぁ!?」


 尚も続けられる攻防に敦賀たちは頭を抱えだした。


(頼むからこれ以上騒ぎを起こさないでくれ!)


 それは彼らの切実な願いだった。だが、金城はそんな二人の内情も露知らず、疾呼しっこした。涙は再び込み上げ、吐息が自然と震える。


「何時か、“此処”にそれを返しに戻って来い!」


 繋がれた言葉に草地の足が止まった。


「……お前、」

「今はまだ“帰れない”かもしれない! けど、必ずまた“日常に戻れる”!」

「……かなぎ、」


 それは他人からしたら要領の得ない言葉に聞こえたかもしれない。けど、草地には分かった。“帰る”、“日常”、それが現すのは、


「俺が……!」


 途切れそうな息で、高音を上げる喉を抑えて金城は叫ぶ。だけど、ついに咳き込んでしまい、ケホケホと口を覆いながら俯いた。一端目を瞑って、呼吸を整える。ポタリ、滴が金城の足元へと零れ落ちた。

 

 すう、と息を吸いなおして唾を飲み込む。

 そうして、再び上げられた顔には、純粋に輝く琥珀色の瞳子があった。


――次の瞬間、空気が震えた。


「俺が、この国を変える!!」


 何処までも何処までも轟く声。それは一瞬の時を止めた気がした。

 静寂が辺りを支配する。敦賀もナンシーも案内人も、皆が皆、言葉を失った。

 その中で、一人、草地はほくそ笑んだ。


「……ああいう無茶だけは、もう、すんなよ」


 金城の口角が上がる。


「善処する……!」


 ふはっ。息が零れた。


「じゃあ、またな」

「またな! 糞地くそぢ


 最後に紡がれた言葉は奴の悪態。だが、それもまた金城らしいものだった。


「最後が糞って……うるせーよバ金城」


 ゆっくりとだが、確実に船は金城から遠ざかっていく。気が付けば100メートル程の距離が奴との間に出来ていた。奴の影が徐々に小さくなってゆく。



「草地くん……今の騒ぎで人が出始めてきているから、そろそろ」

「はい……今、行きます」


 ポタリ。少年の左手に握られた仮面にもまた、金城と同じ滴が零れ落ちた――。








♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢


「金城くん……気持ちはわかるけど、あーいうことはもうしないでね」

「……はい。すいませんでした」


 矢向船着場。灰色のレンガが敷き詰められた広場の中、金城は肩を縮こまらせていた。やはり、先ほどの声は大きすぎたようで、ちらほらと、何時の間にか疎らに現れ始めた人がこちらを奇怪そうに観察している。とりあえず草地の姿は見られなかったので、大丈夫だろうが……


「……これで警察に尻尾を掴まれたら大変なんだからね」

「……はい。以後自嘲します」


 さっきの子猿のような姿とは違い、今の金城はまるで借りてきた猫のようだ。

 はあ。案内人の男が静かに嘆息を零すと、金城は居心地が悪そうに身じろぎをした。それを見て「もう良いか」と男は思い直し、金城の肩をポンと叩いた。


「そろそろ行こう。始発の電車は動いているはずだから」

「……はい」


 じゃり。レンガの小石を踏みしめて男が歩き出す。それに続いて、金城も踏み出した。

 ちらり。一度だけ川を振り向く。灰色の景色の中、何処までも深い蒼が一直線に続いていた。それは美しく見えると同時に、何処か寂しげに思えた――。












2105年、日本。

世界で最も安全で、最も厳しい国。


人が法を守り、法こそが秩序を守る。


正義を絶対とするそれは、世界の中でも一脱とした、“異常”な国へと化していた――。














此処まで読んでくださり誠に有り難うございました。


これで第2章は完結とさせていただきます。

次回からは新展開。その前には間章を入れさせていただきます。

今回は時間通りに更新できませんでしたが、次話は本日中に投稿させていただきたいと思います。


これからもどうぞ宜しくお願いします。

ご感想などがありましたら、一言だけでも残して頂けると幸いです。


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