定まる想い
玖叉から挑戦状の様なものを送られてから数分、あるいは数秒。金城は動けずに居た。
前かがみになっている背中に俯いた顔。少し長めの前髪からは虚ろな瞳が見える。金城は迷っていた。
自然と眉間に皺は寄り、拳に力がこもる。どうすれば良いのか分からなかった。行かなくてはならないのは分かっている。それでも足を踏み出すことが出来ないのだ。
胸の中で恐怖は渦巻き、足は微かに震えだす。動けない。そうだ、足が竦んでいるのだ。
こつり、額に拳を当てた。
「どうすれば、いいんだよ」
――行きたい。草地を助けたい。
――でも怖い。あの化け物とやりあえる自身が無い。
二つの思いが頭の中で反発しあっていた。今ここで草地を助けに行かなければ、奴が確実に死んでしまうことは分かっていた。けれども助ける自信が無いのだ。どんなに足掻いても、自分は所詮凡人だ。奴を助けられる確立なんて0.1%にも満たないかもしれない。それでも行けるなんて勇敢な思いを自分に抱くことはできない。
草地を助けたい思いよりも、自分が傷つきたくないと言う思いの方が勝っていることに気づいた金城は歯を食い閉めた。情けない、そう思った。
まさか、こんな所で躓くなんて自分は本当に情けない。あんまりだ。
今度は悔しさがこみ上げてきて目を瞑る。視界を渡って、現実から目を背けようとした。その時、
カツン。ヒールだろうか。少し高めな音が間近で響いた。金城はそれに答えるかのように、そっと目を開ける。まず目に入ったのは黒いパンプス。そこから伸びる、細く綺麗な形をした足首。そのまま視線を上げると白くしなやかな足が見え、太すぎず細すぎず、何処か柔らかそうな曲線を描いた太ももが目に付いた。キュッと引き締まった括れはその美しさを強調しており、黒いスーツがよく映える。だが、そんな物を視界に映しても金城の中にある心の蟠りが消えることは無い。何時に無く、彼は無感動に顔を上げた。するとそこには、
「なえセン……」
土宮香苗が静かに彼を見下ろしていた。
金城は無意識に彼女のことを渾名で呼んでしまったが、それに気づくことは無い。土宮香苗もまた、気にした様子を見せない。少し眺めの睫毛はフルフルと伏せられ、琥珀色の瞳はゆらゆらと揺れながら金城を見つめる。真っ赤なルージュをふんだんに塗った彼女の唇が何かを言いたそうに、パクパクと開く。視線は少し右左に泳ぎ、最後にまた金城へと戻る。強く描かれた眉が意を決したように釣りあがった。
「忘れてしまいなさい」
「……は?」
何の脈絡も無く紡がれた言葉に金城は眉を顰めた。彼女は一体何を言っているのだろうか。スッと、白いハンカチを差し出されて金城は更に困惑した。
「辛いのなら、空っぽになるまで泣いて、そうして忘れてしまえば良い」
「忘れるって……」
「今日が草地くんの死刑執行日だということは私でも知っているわ。そのせいであなたの気が狂いそうになってることも見れば分かる」
なるほど、どうやら土宮香苗は自分の先ほどの行動は友を失うことでとち狂って起こした衝動だと推測したらしい。違う、と金城は否定したくなったが話がややこしくなるのでやめた。それよりもだ。今、彼女はなんと言ったのだろうか。何時ぞやのデジャヴを感じた。
「何を忘れるって言うんですか」
「……草地くんのことよ」
思わず鼻で笑いそうになった。なんというか、土宮香苗は予想を裏切らない言葉を何時もくれる。そのお蔭で、収まっていたはずの怒りが腹の底から湧き始めた。
――忘れられるわけが無い。
そう、忘れることなんて出来るわけが無いのだ。金城は乾いた笑いが自分の口から零れるのが分かった。
己は自分本位な男だ。誰かが傷つくよりも自分が傷つけられることを最も恐れる臆病者だ。そして、己の傍から誰かが居なくなるのを何よりも恐れている。
金城は今まで口に出したことはなかったが、一度だけ心に大きな傷を負ったことがある。その傷はとても深いもので、彼を何処までも苦しませたが、”立ち直った”今、そのことに関しては一切口にしない。それは彼自身が自分で”大したことではない”と思っているからであり、”自分の苦しみはそんな大したものではない”と思い込んでいるからである。
小学校3年生の夏。草地に出会う前、金城は父親を亡くした。
良く晴れた日のことだった。金城は仕事で忙しく、中々会えなかった父と共に何処かへと出かけていた。父は優しい人だった。自分とよく似た平凡な面差しには何時もゆったりとした笑顔が張り付いていて、穏やかな雰囲気を醸し出していた。己の手を引いて、「歩道側はこっちね」と母より柔らかな声で注意を足す。「もう小学校3年生になるのに、親と手を繋ぐなんて」と金城は恥ずかしく思わなくもなかったが、父が捨てられた子犬の様に見つめるもので、諦めた。
熱いアスファルトの熱を靴越しに感じながら、トテトテと、歩くスピードを合わしてくれる父の隣に並ぶ。太陽が燦々と己らを照らし、汗で髪はべったりと肌に張り付いているのに、何故か結んだ手は熱い、というより暖かく感じた。これが父親の手か、と金城は子供ながらに感慨深く思ったのを覚えている。不思議と頬が笑んだ。思わずふんふんと下手くそな鼻歌を歌いながら軽やかにステップを踏む。父と一緒に歩く外は何処か新鮮で、キョロキョロと周りを見渡した。そして、ふと道路の向こう側、スーパーの前で風船を配っているロボットを目にする。今時見ないソレに金城は己の気持ちが高揚するのが分かった。わあ、なんて言いながら握っていた父の手を放してそちらへと駆け寄る。汗で湿っていた手は案外簡単にスルリと抜けて、彼はそのまま横断歩道へと飛び出した。
それがいけなかった。
――理人!
一瞬だった。黒い何かが自分に迫ってきたと思いきや、背中を強くドンと押された。その拍子に転んでしまって、小さな体はゴロゴロとアスファルトの上ででんぐり返った。痛い、膝と肘を擦りむいて、泣きそうになりながらも起き上がる。もう9歳になるのだ、そう簡単に涙を零せるかと、鼻水を鳴らしながら顔を上げる。すると、
“赤い何か”が、見えた。
――見るな!
突然あげられた野太い声と共に視界を塞がれた。誰かの手が自分の目を覆い隠している。何が起きたのか分からず、幼い金城は狼狽えた。
――誰か救急車を呼べ!早く!
――おいおい、事故か?
――うわぁ、グッロ
――セーフティシステムは起動しなかったの?
――ありゃ、中古だな。壊れてたんだろうな。お相手さんも気の毒に、
声が次から次へと聞こえてくる。なんだ、どういうことだ、何が起きているんだ、父はどうしたんだ。胸の中で不安が渦巻き、頭が疑問で埋め尽くされた。
その後のことは良く覚えていない。ただ、沢山の人が集まってきて、大騒ぎになったのは覚えている。でもそれだけだ。事件のショックが大きすぎて、幼い金城にはその時の現状を理解することができなかった。けれど、これだけは分かった。
己のせいだ。
あの時、手を離さなければ、道路を渡らなければ、父の隣で大人しくしていれば――そんなたらればが何十日も続いた。葬式で沢山泣いて、悲しんで、押しつぶされそうな心ごと母に抱きしめられても、金城は自分を責めることをやめなかった。日常へと戻って日々を謳歌しようとしても、心の何処かを空っぽに感じていた。
そんな日々が続こうとした時だった。
曇り空の下、幾多もの雨滴が降り続ける中、あの事故現場の前で一人の女性と出会った。
何時もの様に父の事故現場で懺悔をしていた金城は、虚ろな目で床に飾られた花をただ見つめていた。少し濡れ始めた肩の上にそっと傘が差される。俯いていた視界に突然影が現れ、驚いた金城は不意に顔を上げた。その視線の先には胸元まで伸びた黒髪に、白く整った顔立ちをした女性、否、少女が居た。綺麗な人だった。黒のセーラー服にその白い肌は一層際立ち、彼女の存在感をより強いものにさせていた。それは決して派手でも華やかなものでも無く、“自然”な美しさを持っていた。
真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は少しだけ吊り上がっており、固く結ばれていた赤い唇が開く。
――いつまで、そこで立ち止まっているつもり?
金城は一瞬呆けた。
――もう何時間もここにいるようだけど。そんなことをしても貴方のお父さんは戻ってこないわ
そんなことは知っている。金城は心の中で冷たく彼女に返した。自分自身、そんなことぐらい痛い程に理解している。それでも此処に来ること以外、他に何も思い浮かばないのだ。しょうがないだろう。
――苦しい?
息を飲んだ。図星だ。
――悲しい?後悔してる?
その通りだ。自分は悔やんでいる。己の過去の言動を。過ちを。
――なら、進みなさい。後悔をしているのなら、同じこと繰り返さないように頑張りなさい。
――辛いのなら好きなだけば泣けば良い。泣いて、叫んで、吐き出せば良い。けど、立ち止まるのはもうやめなさい。あなたは其れを十分したはずよ。
何故、そんなことを今日会ったばかりの、赤の他人である彼女に言われなければならないのだろうか。失礼ながらも金城は彼女を睨み上げた。
――イライラするから
(……は?)
金城は自分の耳を疑った。空耳でなければ、今この目の前の少女は自分に対して暴言を吐いたことになる。恐る恐る、確かめるように彼女の顔をもう一度見上げた。
――ごめんなさい。悪いけどちょっとイラッとするのよ、今の貴方。
はあ、と吐息が彼女の唇から漏れる。
――あなたの気持ちを思うとそうなるのは当然でしょう。後悔をするのは仕方がないわ。でも、長すぎ。
彼女は言った。確かに自分の後悔は最もであり、あんな馬鹿なことさえしなければこんなことにはならなかった、と。それでも事件はもう起きてしまったし、父も自分を庇って死んだ。代わりに自分が生きている今こそが現実であり、それを変えることなんて出来やしない。自分を救ってくれた父を誇れとは言わない、けれど感謝はしろ。ウジウジと己の事で悩んでいる暇があるのなら、ちゃんと礼を言え、と彼女は続ける。
――でも、その後悔は捨ててはいけない、抱き続けなさい。もう二度と、同じことを繰り返さないように。
無茶苦茶な言葉だった。後悔し続けろ、なんて子供によく言えたものだと思った。けれどその言葉は当時の自分を不思議ともう一度立ち上がらせた。
胸に渦巻く不穏な気持ちをすぐに消すことは出来なかったが、金城はそれでも毎日を生きた。流れる時と家族の支え、そして新しく出会った友と過ごした毎日によって傷は段々と癒えていった。そうして、金城は日常を謳歌して、此処まで来れたのだ。
だが、その日常の中でどうやら彼は大切な“後悔”を何処かに忘れてきてしまったらしい。
それに気づいた今、金城は乾いた笑い漏らすと、頭を後ろへと大きく仰け反らせる。
そして、
「金城くん!?」
前へと振りかぶった頭からはゴン、と鈍い音が鳴った。頭の中ではグワングワンとタイラが落ちてきたような音が響き、眩暈がした。額がヒリヒリと痛む。息を吐きながら、先ほど頭をぶつけた座席の背に寄りかかる。
「あー……」
忘れていた。忘れてはいけないものを一つだけ忘れていた。金城は自分の愚かさにホトホト呆れた。そうだ、犯行を決意した当初もこんな思いがあったからこそ自分は此処まで来たんじゃないか、と額を抑える。
(俺はもう後悔したくない。それこそ毎日、爽太くんや草地の顔を思い出して、見捨てたことへの罪悪感、そして悲しみで押し潰されるなんて嫌だ。そんなことになったら俺は絶対死にたくなる。
それだけは駄目だ。俺は晴れ晴れとした毎日を生きてーし、伊奈瀬たちの可愛い笑顔だって見たい。こんな胸糞悪い気持ちなんて一掃したいんだよ。だから、)
――草地に助けに行かなければ。
今ここで草地を見捨てたらどうせ後で死にたくなるのだ、直接あの化け物と“戦う恐怖”と、その“後悔に対する恐怖”は大して変わらない。なら、もう草地を救出して元の日常へと戻る道を選ぶしかないだろう。それが例えどんなリスクを携えているとしてもだ。
金城は未だに手の内に収まっているスクリーンを強く握った。そうして、己の中に渦巻く全ての感情、恐怖と向き合う。瞼は徐々に下がり、眉間に皺が寄る。この先の事を想像すると、体はやはり震えた。
様子の可笑しい金城に土宮香苗がもう一度声をかける。
「……ちょっと、金城くん?大丈夫?だから、」
「んな簡単に忘れられるわけねーだろ」
「……え、」
「4年は一緒に居たんだぞ?消せるわけねーだろ」
「……それは、」
「消えねーんだよ。思い出も、想いも、この感情も、全部」
「金城くん…」
「もし、それが本当に全部消えてしまうのなら、残るのは
――後悔だけだ」
開いた瞼の向こうには怯えが見えた。だが、迷いは無い。黒い瞳は真っ直ぐ焦点を合わせられ、確かな輝きを灯している。その合わせられた視線に土宮香苗は“何か”を感じ、思わずたじろいだ。それが何かは分からない。けれど少年には間違いなく、一歩後ずさってしまうほどの“何か”があった。
ゴクリ、知らずと喉が鳴る。
「なえセン……」
「……何、かしら」
「俺、ここで降りるんで失礼します」
「へ……っあ、あ、そう」
いつの間に次の駅に着いたのか、バスは止まっていた。金城はスクリーンとリモコンをリュックサックに仕舞って、それを背負う。スタスタと土宮香苗を横切って後ろ側にあった自動ドアを潜り、バスから降りた。土宮香苗は呆然と彼を見送った。
「……感謝した方がいいのかな」
街中を歩いて数分。金城は複雑な表情を浮かべた。土宮香苗の発言は己の神経を逆なでるものであったが、それでもそのお蔭で自分の中にある大事な気持ちに気付けた。
面倒そうにガシガシと頭を掻く。
「まあ、いいや……とりあえず先にあっちに向かって下準備を始めよう」
ここから処刑場までの距離は自動車で行けば約30分。己に残された時間は1時間半。
「急ごう…」
――腹は括った。もう迷わない。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
午後5時45分。
江田処刑場。
此処は東京の中で最も古く、小さな処刑場だ。灰色のコンクリートと非鉄金属材で組み立てられた建物はとてもシンプルな外装をしていた。何処もかしこも直角的な作りをしていて屋根という形が無い。大きな長方形の函が三つ繋ぎ合わせられたような感じだ。そしてそれを大きく四角形に囲む高い鉄格子。その様は昔の“刑務所”を正に連想させた。殺伐とした空気を放つソレは明るい街灯を灯された東京という都市にはとても不似合に見えた。その証拠に、ビルなどの建造物が周りにあっても人が寄り付くことはあまりない。
処刑場は内装もとてもシンプルで、殺風景だ。無機質に見えることから此処で働く警備員の者たちもそれに対して不気味さを覚えている。入口付近の受付前、紺色の制服を着た一人の男が隣でパイプ椅子に座る同僚に話しかけた。
「そういえば、今日は何処も外に出てねーのか?」
男は首を傾げた。何時もなら監視ロボットが建物の外を巡回するのだが、今日はその影さえも見当たらない。 今日は処刑の執行日だというのに警備がこんなに手薄で良いのだろうか。確かにマスコミを含めて此処には野次有無根性で処刑現場を観に来ようとする馬鹿な輩は居ないが――。
「ああ、玖叉執行官が言ったんだよ。必要ないから下がらしとけって」
「はあ? ……ああ、いやでもまあそうか。こんな寂れた処にわざわざ来る奴は居ねーし、あの少年が逃げ出せるはずもねーもんな」
男は「まあ、確かに問題は無いよな」と納得したように頷いた。此処は日本でもっとも小規模な処刑場だ。襲っても意味が無いような場所なのでテロリストなどの類が狙う可能性は限りなく0に近い。それに見た処、動き出しそうなテロリストは居ないようだと警察庁の上部が言っていたのを思い出す。暇だな、と廊下を歩く警備ロボットを何気なく見ながら受付のカウンターに腰掛ける。
「それにしても」と隣の同僚が口を開いた。
「何で此処なんだ? 他の場所でも良いだろ? 関西とか、あっちの方が広くて設備もしっかりしてるしさ。あの“悲劇の美少年”にはピッタリの場所だと思うぜ? マスコミだってもっと食いつくだろうよ」
その言葉に男は呆れたように息を吐く。
「ばっか、そんな簡単に出来るわけねーだろ。死刑囚を処刑する場所はランクによって変わるってのもお前だって知ってんだろ? 関西はBランク以上の奴らのためだ。あの“美少年”はE。死刑囚の中では最低ランクだよ。どんなに若かろうが、世間に騒がれていようが関係ねー」
「……けどよぉ」
パイプ椅子の男は口を尖らせる。それでも、あんな幼い少年を処刑するのだ、せめての手向けにもっと大きく立派な場所でしてやったらどうだと男は意見をする。
「俺だって、そう思ってるよ。けど……おい、あれ。何だ?」
しょうがない奴だな、と息を漏らしながら絆そうとした瞬間。開きっぱなしのエントランスの向こう側、硝子越しに、こちらへ向かって突進してくる一つの影が見えた。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
処刑場――中央広場(執行室)。
円形の空間の中、死行隊と草地の四人はその中心に立っていた。コンクリートで出来た床は染み一つ無く小奇麗だ。建物の外装や外の廊下と反して真っ白なその空間は神聖に見えた。壁際には四人を囲むように柱が沢山並んで立っており、アリーナのようにも見える広場は空っぽだ。天井近くの柱部分には窪みがあり、祭壇のような飾りをしている。其処には仏像が四人を見下ろすように座っていた。
処刑道具もなければ椅子も、ロボットさえもない。あるのは無機質な壁と柱、そして外と繋がっている窓だけ。窓は7つあり、人が通れるような大きさをしている。広場の入口から向かって真ん中の窓は、外――処刑場の裏地と繋がっていて僅かな光が差し込んでいた。外は夕刻なのも相まって多少暗くなりはじめているのが伺える。残りの窓は一様に廊下に繋がっていて特に何も見えない。
灰色の壁は空虚感を覚えさせ、草地の不安を煽らせた。
草地は懸念を抱いていた。この事件の犯人に対してだ。疑わしい気持ちは沢山あるが、草地は薄々とその正体に気付いている。こんな馬鹿げたことを企てたのは恐らく――
「来ないねー、相手。尻尾巻いて逃げちゃったのかなー?」
「さあ、どうでしょうね……あと、15分はありますし」
「来る」
「ほえ?」
「あの男は来るぜぇ、絶対にな」
ギラギラと目を光らせながら釘崎とメイの会話に口を挟んだのは玖叉だ。何処か遠くを見つめるその視線の下で口は大きく狐を描き、鋭い八重歯を覗かせていた。その様に草地はぞくり、と悪寒を感じ、眉を顰めた。
(頼むから来るなよ……)
それが草地の願いだった。誰であろうが、構わない。このまま来ないで、放っておいてほしい。草地は瞼を固く閉じた。もう、これ以上感情を振り回されるのはごめんだ。余計な期待をして突き落とされるのも、また誰かを失う気持ちを味わうのも、もうたくさんだ。心の内で吐き出されるその思いは本心であり、また彼の最後の望みだった。
助けてほしいと言う思いが、無いわけではない。でも、このまま死んで楽になりたいという気持ちもあった。そして何よりも大切な友を巻き込みたくないという切なる想いがあったのだ。
金城理人という男は本当にしょうもない男だ。碌に勉強をしない馬鹿で、体育では自分によく負かされて吼える阿保で、己の欲望を気付かぬうちにダダ漏れさせる間抜けだ。本当にどうしようもない男である。最後に会った時だってそうだった。
(いや、あれは俺も悪いのか……)
面会室での光景が脳裏を過って草地は苦笑をする。「自分で言っておきながらあんな傷ついた顔すんじゃねーよ」、と奴の顔を頭の中で浮かべた。それは何とも言えない表情で、目は潤み、鼻水は垂れ、唇は固く結ばれているがフルフルと震えていた。
――ブサイクな顔だった。
それを思い出して、つい噴き出してしまいそうになるのを耐える。まったく、本当にしょうもない男だと草地は息を吐いた。
草地は知っている。「お前なんか、一生そこで過ごせばいい!」なんてあの時の言葉が金城の本心ではない事を。草地は知っている。本当は奴が苦しみ、己のことを心配してくれていたことを。草地は知っている。
金城理人が誰よりも優しいことを。
だからこそ草地は奴に来てほしくないのだ。そんな奴だからこそ傷ついてほしくないのだ。間抜けな金城の姿と共に一人の少女と幼い少年を思う。
(……わるいな金城。伊奈瀬の事、)
――ピルルルルル
誰かの携帯端末、否、通信機が鳴った。釘崎のだ。
ブレザーの内ポケットから端末を取り出してモニターをタッチする。するとスクリーンが其処から浮かび上がって、ロボットの姿を映し出した。気のせいか後ろが騒がしい。
「はい」
『釘崎執行官。こちらA3の警備ロボット(インスペクター)です』
「どうかしましたか?」
『侵入者が現れました』
「「「「!!」」」」
警備ロボット――インスペクター――からの通信で一同が息を飲んだ。
「……それで、今どちらに?」
『車が走っております』
「……は?」
インスペクターの不可解な言葉に釘崎は呆けた。
『超小型の車が走っております。サイズ、形態、及び、そこから発せられる電波反応からしてラジコンかと推測されます』
「ラジコン……」
「犯人らしいね。玩具が好きなのかな」
気が合いそうだとメイはにこやかに話す。釘崎は難しい顔をして、通信を続けた。
「それで、どの様な状況で」
『何か液体を撒かれています』
「液体……?」
突然外から堂々と侵入してきたラジコンはその小さな体を利用して、処刑場の門を潜り抜けてきた。だが、80ℓ(リットル)程の細長いボトルをテープで背に巻きつけられており、体は其れによって覆い隠されていて実際は何なのかは正確には分からないらしい。そしてボトルの蓋にはストローが刺されており、そこから何やら液体が零れている様子。ラジコンが走った線路には液体が見事に敷かれており、それが門の外から内部までへと続いてしまっているようだ。そのお蔭でラジコンの痕跡を容易く追えるが、液体のせいで滑らかな表面をしているアンドロイドやロボットたちは転んでしまって追いつけない。生身の人間である他の人員も後を追おうとしたが、ラジコンの逃走スピードが速すぎて無理なようだった。
『はい、他の者の手を借りて捕獲しようとしては居るのですが、その撒かれた液体が邪魔で』
「……何の液体かはわかりますか」
『今、監査結果が出ました。恐らくJangalianブランド、“ファイアーサラダ油”です』
「あぶら、」
――まずい!
瞬時に犯人の狙いに気付いた釘崎は急いで指令を出した。
「即座に液体の撤去を行いなさい! なるべく入口に近いところをです、捕獲は後にしてください!」
『畏まりました。ただちに』
続くはずだったインスペクターの声が途切れた。否、突如聞こえてきた轟音によって渡られたと言うべきか。
「どうした!?」
焦った釘崎が問いかける。後ろでは玖叉がニヤニヤとあの楽しそうな笑みを浮かべていた。
『申し訳ありません。火をつかれて』
「導火線になっていた油のお蔭で火の海ならぬ“塀”が出来ているわけですか……」
ジリリリリリリと屋内で鳴り響くサイレンの音に釘崎が顔を諌める。メイも迷惑そうな顔で耳を塞いでいた。玖叉は気にしてない様子でどっかり、と構えている。
導火線はそれほど長くないはずだ。きっと浅辺の何処かで途切れているだろう。大惨事になる前に自分が何とかしようと釘崎は通信を切って玖叉たちへと振り返る。
「私は火の始末をしにいきます。篠田、貴方は私と一緒に来て、玖叉は此処に残ってください」
「えー!?」
釘崎の言葉にメイが不満の声を上げた。やだやだ、と子供の様に腕を振りながら駄々をこねる。その様子に釘崎は嘆息を漏らす。
「なんでなんでなんでー!? 私も残りたいー!」
「君は私に一人でこの火の始末をしろというのですか」
再び開いた端末のフィルムスクリーンには内部の惨状が見えた。なるほど、火の規模自体はそこまで大きくないが、随分と長く続いている様子。おまけに油なだけあって、中々消えそうにない。下手したら建物全体に火が回りそうだ。
「私一人では無理です。少なくとも人員はあと一人必要だ。そして篠田、君はまだペーペーの新人だ。この意味、分かりますよね? 」
無感動にこちらを見つめる釘崎にメイはグッと言葉を飲み込んだ。正論だ。自分とてこれが最前の判断だと分かっている。それでも、このまま犯人と会う機会を無くすかもしれないと思うとどうしても納得ができなかった。
「……玖叉、私が戻ってくるまで殺さないでね」
「さあ、相手が死ななければな」
つまり、殺さないつもりはないということだ。メイは頬をぷくり、とフグの様に膨らました。奴のことだ、恐らく犯人で遊ぶことしか考えていないのだろう。その手が獲物を狩るための爪を研いでいるように見えた。だが、そう見えただけで唯の錯覚だ。奴の“武器”はそれではない。
「ちょいちょーっと、……ああ、もう! ちゃっちゃと行ってさっさと片付けますよ釘崎さん!」
「言われなくともそのつもりです。玖叉、恐らく我々が火の始末に気を取られている間に犯人は忍び込んでくるつもりでしょう。十分気を付けてくださいね。
あと、今回は監視ロボットたちを遊び半分で勝手に下がらせた貴方の責任です。後で覚悟しておきなさい」
「わぁーってるよ」
釘崎が目を離してる隙に指令を出したはずのなのだが、バレていたかと玖叉は小さく舌打ちをする。だが、まあ良い。これで誰の邪魔も入らず“遊べる”とほくそ笑んだ。
良からぬ思考を走らせながら釘崎たちへとヒラヒラと手を振る玖叉。これは恐らく「邪魔だからさっさと行け」と言う意味なのだろう。何度目になるかは分からない溜息を漏らしがら釘崎はメイと共に、白く無機質な自動ドアから広い通路へと出た。
「さあーて、あとどれぐらいで来やがるんだろうな、あのIdiot(馬鹿)は」
「……」
ギリリ。草地の拳が静かに鳴った。
(……何来てんだよ。馬鹿野郎)
もう此処まで来ると本物の馬鹿だとしか言いようがない。法務省に喧嘩を売るなぞ何処の阿呆だ。
険しい顔をする草地は静かに祈った。どうか、違う人であってくれ、と。
そうして、数分。ちくたくと壁に掛けられた針時計の音が響く中、玖叉は拳を開いたり閉じたりして、パキポキと片手で関節を鳴らした。ちら、と時計が指し示す時間を見る。
午後6時00分。
――時間だ。
「おい、ガキ」
「……」
言葉は返さない。草地は男を唯睨み上げた。
良い眼だ、と玖叉は笑みを浮かべる。
「首と心臓、それか頭。潰されるならどっちが良い?」
「……より、痛くない方を」
その返答にくはっと、思わず笑いが零れた。
「どっちも変わんねーよ」
「……じゃあ、首か頭で」
心臓だと胸をまず突かれるだろうからと、冷静に草地は返した。だが、それは唯の強がりだ。心臓は実際にバクバクと早鐘を打っていたし、背中に汗がじんわりと滲みでていた。玖叉もそれに気づいている。だが、構いはしない。どうせ殺る時は一瞬だ。
最後にグッパーと手を握って開いて、手を伸ばした。
「じゃあ、頭だな」
ゆっくりと、彼の指が草地へと触れる、その瞬間。
――ガッシャアン!
硝子の割れる音がした。突然の衝撃に反応が遅れた玖叉の手を何かがかすめる。
「っ……」
微かに熱を感じた玖叉は反射的に手を引いて一歩後ずさった。瞠目した様子を見せるその顔をゆっくりと、外と繋がっている窓に向ける。
一幕反応が遅れた草地も追って、右へと視線を向けた。
「……あ、」
無意識に声が零れた。
割れた窓ガラス。其処をよじ登って室内へと侵入してくる男。背中には大きなリュックサックを背負っており、硝子で手を切らないためだろうか、その手には軍手がつけられている。色は黒。上も下も、髪の色も全て黒。フードの下に隠れたその眼は少し眠たげに見えた。鼻は高く、仄かに赤く染まっている。真黒な髪は可笑しなことに二つに分かれていて布の下からそれらが角の様に天へと聳えているのが分かった。不敵に笑みを携える口元には長い顎。
――そんな馬鹿な。
草地は己の目を疑った。
(何で、来たんだよ馬鹿野郎……しかも)
喜びか、悲しみか、或いは呆れからか、草地は息を漏らす。
そう、そこにあったのは、
「オヤ、ビン……」
2000年代、超絶な人気を誇った某海賊漫画。その登場人物の一人の狐海賊団――ノロノロ野郎の顔だった。
――何とも言えない空気が室内を支配した。




