6-7 はじまりの泉
「サヴィトリさん! ついに僕と――」
想像の範囲内。
解呪の泉につくなり、アイゼンが飛びかかってきた。
有事に備えてあらかじめユーリスの家で急造した釘バットが役に立った。
サヴィトリのフルスイングが鼻っ柱ど真ん中を精確に捉える。
アイゼンの身体は無慈悲な速度で飛び、激しく壁に打ちつけられた。
問答無用。
今は一秒でも時間が惜しい。カイラシュと同じで、どうせこれくらいでは死なないだろう。
(……こう考えると、カイが人間なのが本当に不思議だな。術法院あたりに精密検査してもらおうか)
ひたすらどうでもいいことがサヴィトリの脳裏によぎる。
普通の人間だという結果が出ても、人外だという結果が出ても、等しく驚くだろうが。
「ひどい、ひどすぎる……」
すすり泣くアイゼンの声が聞こえる。
当然の非難だ。いや、アイゼンの仕出かした数々のことを考えれば、この程度まだまだ生ぬるい。
だが今はほかに優先すべきことがある。こんな奴など相手になどしていられない。
「私は泉に用がある。お前にはない」
とどめに釘バットを投げつけ、サヴィトリは泉へと駆け寄った。ユーリスに貸してもらった容器に水を汲む。
見た目はいたって普通の水だ。効果はすでに自分で実証ずみだが、多少の不安もある。
「天然資源をぉー勝手にぃー持ち出さないでくださぁーい……」
瀕死のアイゼンが何かうだうだ言っている。
「水代が必要だというのなら村に納めていく。お前の個人的なことならば忙しいから百年後にしてくれ」
(この水で治ってくれればいいが……)
波紋で揺れる水面に、サヴィトリの顔が歪んで映った。サヴィトリの心の内を表しているかのようで、ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。
「……この泉が、どうして『はじまりの泉』と呼ばれているか知っていますか?」
泉に濃い影が差す。
サヴィトリの背中に冷たいものが走る。
アイゼンの声が囁かれたように近くに聞こえる。
ほんの数秒とはいえ、物思いになどふけっている場合ではなかった。
「二つ、理由があるんですよ」
振り返る間もなく、サヴィトリの背中に強い力がかけられた。
ぐらりと身体がかたむく。
引き寄せられるように、なす術もなく泉へと落ちる。
サヴィトリはとっさに水を凍らせようと試みたが、氷の一粒すら発生しない。
「一つは、ここから僕らの始祖ヴァルナとクベラが生まれたから」
水の中でもがく音にかき消されることなく、アイゼンの声は明瞭にサヴィトリに届いた。
「気の遠くなるほど昔、ここヴァルナの地は何も生まず何も住まない、毒と瘴気であふれた地獄のような所でした。ですがある時、ヴァルナの中心地にとても澄んだ泉が湧きました。それが、はじまりの泉。
その泉から二つものが生まれました。毒と瘴気を身の内にため込むことができる蛇と、毒と瘴気に強い耐性を持つ金髪緑眼の赤子――のちにクベラと名付けられ、クベラを建国した初代タイクーン」
何かに取りつかれたかのようにアイゼンは淀みなく語り続ける。
「そして二つ目の理由は、あらゆるものを全部まっさらな『はじまり』の状態に戻すから。すべてをはじまりに戻すから、呪いが解けたかのように見えるんです」
(クベラ、ヴァルナ、はじまり――一体何を言っているんだ!)
サヴィトリの声は流れこんでくる水に押し戻された。
決して広い泉ではないはずだ。にもかかわらず、伸ばした手足は水以外に触れない。
目を開けているのに、見えるのは恐怖を具現化したかのような闇。
サヴィトリの身体が震える。
いつの間にか、アイゼンの声も水をかきわける音も聞こえなくなっていた。
怖い。
何が怖いかはわからない。
だが確かに自分の中に恐怖がある。
主観が薄れていく。
言葉が、思考が、感情が、皮膚からじわりと溶け出していく。
(私は……わたし? ――いや、まだちゃんと覚えている。サヴィトリ。大事な名だ。でも誰が、つけてくれたのだっけ? ……違う、そんなことより、水を、持ち帰らなければ。水。……みず? だれに? どうして? わからない。わからない? 何が、わからない??? ??????)
頭の中に浮かんだ疑問符が一気に増殖した。
破裂しそうなほど頭が痛む。
サヴィトリは叫んだ。
叫んだ分だけ、胃の中に水が流れこんでくる。
痛い。
いたい。
苦しい。
くるしい。
くるしい。
(だめだ……戻ら、な……け・れば……)
かすむ意識の中、サヴィトリは何かをつかもうと、出しうる限りの力で手を伸ばす。
サヴィトリの手は、かすかに何かに触れた。
次の瞬間、手首を強くつかまれた。
大きな水音を立てて一気に引きあげられる。
光に目がくらんで何も見えない。
頭がくらくらする。脳味噌を揺すられているようだ。気持ちが悪い。
サヴィトリはたまらず、咳とともに大量の水を吐き出す。
胃の中の水を吐ききり、咳が治まった頃、ようやく視力が戻った。
サヴィトリは疲労と安堵のため息をつき、服の袖口で口元をぬぐう。
なんとはなしに顔を上げてみると、目の前には心配そうな顔をした誰かがいた。見覚えはあるが、はっきりとは思い出せない。
記憶をたどるよりも先に、言葉がこぼれる。
「……誰?」




