2-13 乳白色のまどろみ
「あれ、もしかしてサヴィトリも眠れないの?」
さっきはヴィクラムのおかげでひどい目に遭った。何か温かいものでも飲めば、気持ちが落ち着いて眠気がやってくるかもしれない。
そう思ってサヴィトリが食堂にむかうと、すでに先客――ジェイがいた。片手鍋で何かを温めているようだ。
「そうだけど……ジェイはここで何をしているんだ?」
サヴィトリは片手鍋をのぞき込む。
白い液体――おそらくミルクだろう――が熱せられ、鍋肌にふつふつと泡が立ち始めている。
「眠れない時はホットミルクがいいんだってさ。あ、ちなみにここの使用許可はちゃんと村長さんに取ってあるよ」
ジェイは鍋を火からおろし、温めたミルクをカップに注ぐ。
湯気と共に、どこか懐かしくほっとする甘い香りが立ちのぼる。
「サヴィトリも飲む? よかったら、これ先に飲んでていいよ」
返事も聞かず、ジェイは鍋に新しくミルクを注いで再び温め始めた。
「ありがとう、ジェイ」
サヴィトリは両手で包むようにしてカップを持った。カップ越しにじんわりと伝わってくる温かさが気持ちいい。
椅子に座り、ちびちびとホットミルクを飲んでいると、ほどなくして自分の分のミルクを持ったジェイがサヴィトリの隣の席に座った。
ホットミルクのおかげか、ジェイとの距離が近いせいか、なんとなく身体がぽかぽかとする。
「ジェイは、夜あんまり眠れないほう?」
「そんなことないよ。でも、眠りは浅いほうかな。物音とか気配とかで、すぐ起きられるように訓練してたから」
ジェイが時折見せる、陰りのある表情が胸に痛い。普段が明るくヘタレているだけに、そのギャップが非常に大きく感じられる。
サヴィトリは慌てて他の話題を探すが、そういう時に限ってまったく何も浮かんでこない。それどころか、
「――ジェイは、どうして暗殺者組合を辞めなかったんだ?」
ずっと疑問に思っていたことが、ふと口をついて出てしまった。
サヴィトリがタイクーンを継ぐことになったのは、自ら願い出たわけでも、カイラシュに請われたからでもない。
王子暗殺――サヴィトリの異母兄にあたる二人の王子は、数年前に何者かによって殺害されていた――の容疑者としてカイラシュに処刑されかけたジェイを救うため。ジェイが暗殺者組合から足を洗う資金を得るため。
この二つの願いを叶えるために、サヴィトリはカイラシュと取引をした。
「……やっぱ、サヴィトリにはちゃんと話さないとだよね」
ジェイはミルクを飲みながら、困ったように笑った。
「建前は、あそこにいると情報収集に便利だから。でも本当は、辞められなかったんだ」
「どうして?」
サヴィトリはつい、詰問するような声音になってしまった。
「さぁ。詳しいことは教えてもらえなかった。でもまぁ、漏らされるとすごーく困る情報なんかを、俺がたくさん知っちゃってるからじゃない? あとは、次期タイクーンの身辺に手駒を置いておきたいって考えもあるんだと思うな」
ジェイはわざと明るい口調で言い、へらへら笑顔で感情を隠す。
「だからさ、本当にごめんね、サヴィトリ。タイクーンになるのが嫌だったら、やめちゃってもいいんだよ」
「……今更だな」
サヴィトリはカップをテーブルに置いた。
「私は現タイクーンとカイラシュの前で跡を継ぐと宣言した。あとには引けないし、そのつもりもない」
サヴィトリは鋭くにらみ、叩く勢いでジェイの頬を両手ではさんだ。強引に自分の方に顔をむけさせる。
「私のことなど構わない。私自身が決めたことだ。だけど、ジェイは現状を納得しているのか?」
「してるよ」
思いのほか、ジェイの返答は早かった。
「サヴィトリと同じように、俺も俺自身で決めたんだ。もう人殺しの仕事は受けないって。あの組合、暗殺以外にも仕事はたくさんあるし。まぁ、ポイント低い仕事でノルマこなすのは大変だけど、昔よりずっと気が楽だよ」
ジェイはサヴィトリの手をはずし、包むようにして握りしめた。
ジェイの手は意外に大きくて冷たい。
ほんの一瞬だが、サヴィトリはどきりとしてしまう。
「それなら、私がどうこう言うことではないな」
サヴィトリは意識して強くジェイの手を払い、冷めてしまったミルクを飲みほす。自分を落ち着かせるのにちょうどいい温度だった。
それから数秒もしないうちに、サヴィトリは眠気に襲われた。目蓋が重くなり、頭がぐらぐらする。
(眠い……ホットミルクってこんなに効果があるのか?)
「大丈夫? すっごい眠そうだよ、サヴィトリ。ちょっと頼りないかもしれないけど、よかったらもたれかかる?」
ジェイは微笑み、小さく手招きをした。
サヴィトリは誘われるままに椅子を寄せ、ジェイの肩に頭を乗せさせてもらう。
「ジェイといると落ち着く」
サヴィトリは自然と感じたことを口にした。
カイラシュは落ち着くどころかストレスがたまる。ヴィクラムはいまいち反りが合わない。ナーレンダは呪いのこともあって少し気まずい。
ジェイのそばが、一番気負うことなくいられる。
「サヴィトリのこと殺そうとした奴なのに?」
「ああ。そういうちょっと胡散くさい奴だからいい。清廉潔白なだけより、少し濁ってるくらいがちょうどいい」
「俺のこと遠まわしに腹黒って言ってるでしょ。自分で言うのもなんだけど、このメンバーの最後の良心だよ」
「あれ、褒めたつもりだったのだけれどな。それに、もう殺さないって決めたんだろう? 私はジェイを信じているよ」
「うわ、すっごい殺し文句だね、それ」
ジェイは照れたようにはにかむと、中のミルクを混ぜるようにカップを揺らした。
ミルクに張った薄い膜が沈む。
「――でも、全部嘘だったらどうする?」
感情を読ませない笑顔で、ジェイは尋ねた。
「その時はその時だ。信じた私が馬鹿だったと諦め、全力でお前を叩き潰す」
サヴィトリは眠気をこらえ、ジェイの胸板を拳で叩いてみせた。
「そこまで言い切れるなんて格好良いなぁ~。俺本気で惚れそう」
ジェイは冗談めかして言い、指でサヴィトリの頬をつつく。
「はいはい。眠い。また明日」
サヴィトリは鬱陶しそうな顔をし、手でジェイの指を払った。
「あのね、サヴィトリ。俺も一応健全な男の子なんだけど、そういった意味の警戒をしなさすぎじゃない?」
「何かあったら全力で玉を叩きつぶす」
「色んな意味で泣いていいよね、俺……」
ジェイは両手で顔を覆い、すすり泣くまねをした。
「ああ、そうだ。さっき、一つ言い忘れていたことがある」
サヴィトリは眠い目をこすり、人差し指を立てた手をジェイにむかって突き出した。
「どうしたの、急に? でも、すくみあがるような痛い話だけはやめてね」
ジェイは一瞬だけ自分の下半身に目を落とす。
「……私は、悲しいと思う」
「うん?」
「さっきの話。もし、全部が嘘だったら」
「嘘だったら、悲しい?」
「信じて、裏切られるのは、きっと悲しい」
サヴィトリは自分の視界がぼやけるのを感じた。
がらにもなく感傷的なことを言ってしまった。眠気に襲われているせいだろう。
「ったく、ずるいよなぁ。寝ぼけてるサヴィトリって、ちょっと可愛いよ」
ジェイは頬を膨らませ、ふてくされたような表情をした。
サヴィトリの目蓋が完全の閉じる――直前、どこからか悲鳴のような声が聞こえた。
はっとサヴィトリの意識が一気に覚醒する。
ジェイに目配せをすると、サヴィトリはここで待っててというジェスチャーをし、部屋から出ていってしまった。
おとなしく待っていられるサヴィトリではない。ジェイとは一番付き合いが長いはずなのに、そういうところを理解してくれていない。
サヴィトリは夜の冷たい空気を深く息を吸いこむ。眠っている場合ではない。
頬を両手でぴしゃりと叩き、ジェイのあとを追った。




