2-8 飼い犬に噛まれるのは手か耳か
「ついでにそれも買っておいてやる」
ヴィクラムが原石の入った手提げ籠を持った。ついでと言うからにはヴィクラムも何か買うのだろうが、他に何か持っているように見えない。
「珍しくお優しいじゃないか、ヴィクラム」
ナーレンダは何か含みのある言い方をした。
「俺が言うことでもないが、そろそろその癖はやめたらどうだ。生きづらいだろう」
ナーレンダを一瞥すると、ヴィクラムは喉に手を当てた。
サヴィトリとナーレンダとの付き合いと、カイラシュ・ヴィクラム・ナーレンダの三人の付き合いの長さはそれほど変わらない。サヴィトリの物心のつく前を差し引くと、むしろ三人のほうが互いのことをよく理解している。どんな関係だったのか一度聞いてみたいところだ。
「ふん、余計なお世話」
二十代後半とは思えない悪態をつくと、ナーレンダはヴィクラムの方へと飛び移り、そのまま荷物の中に潜ってしまった。
ヴィクラムは目蓋を伏せ、呆れたように息を吐く。
「あの姿になってから、ナーレはずっと機嫌が悪いな」
ナーレンダに聞こえないよう、サヴィトリはこっそりとヴィクラムに耳打ちをした。
「わからなくもないがな。誰よりも責を感じているのだろう」
「責? なんの?」
サヴィトリの問いに、ヴィクラムは指をさすことで答えた。
ターコイズの指輪。
サヴィトリは反射的に右手で指輪を覆い隠した。元をただせば森を出た自分が悪い。ナーレンダが罪悪感を背負いこむ必要などないのに。
「前から気になっていたんだが、その指輪から出る弓は誰にでも扱えるものなのか?」
ヴィクラムがサヴィトリの左手を取った。顔に近付けてまじまじと指輪を見つめる。
「取り出せるのも扱えるのも私だけだ。羽根のように軽く、弦を引くのにも力はいらない。だから弓を習ったことのない私でも感覚だけで扱うことができる」
「なるほど。独学であそこまで戦えるのは才があるからだろうな。だが一度、誰かに弓の鍛錬をしてもらうのもいいだろう。命中精度があがれば、戦術に幅が出る」
ヴィクラムの助言を受け、サヴィトリは過去の戦い方を振り返る。氷弓での攻撃は、術の代用か足止めくらいにしか使っていなかった。最長でどこまで届くのか、最大で何本まで同時に射ることができるのか、威力はどこまであげられるのか――突きつめるべきことはたくさんある。
「いや、次期タイクーンにすべき話ではなかったな」
ヴィクラムは慌てて視線をそらし、喉のあたりをさすった。
ただでさえサヴィトリは戦闘に出たがる。力をつけることによってよりその性質が強くなっては困ると思ったのだろう。
「ううん、助かる。ついでに、弓の稽古もつけてもらえるとありがたいんだけど」
「それは構わないが、他の隊に弓の上手い奴がいる。そいつを紹介しても――」
「ヴィクラムがいい」
サヴィトリは無意識のうちにそう言っていた。
数秒たってから自分の発言に気付き、慌てて理由を探す。
「その、弓だけじゃなくて、ほら、一緒に戦ってきたから、私の癖とか傾向もわかるだろう? そういうこととかも詳しく教えてもらいたいし。あと、あとは……」
「わかった」
ヴィクラムは微笑み、サヴィトリの頭に手を乗せた。
「ありがとう、ヴィクラム」
サヴィトリはヴィクラムの目を見て、しっかりとお礼を言った。嬉しさに、自然と笑顔になってしまう。
一瞬、ヴィクラムが困ったように眉根を寄せ、サヴィトリから顔をそらした。
どうかした? とサヴィトリは尋ねようとしたが、なぜか押さえつけるような強さで頭を撫でられ、それどころではなかった。
* * * * *
「サヴィトリ様がわたくしのことを徹頭徹尾無視する……」
サヴィトリが先に店から出ていると、入口近くでしゃがみ込んでいたカイラシュにぶつかった。あれきり姿が見えないと思っていたが、店外にいたとは気が付かなかった。
「カイ、こんな所で何をしているんだ」
サヴィトリは頭を抱えながらカイラシュに声をかけた。これみよがしに落ちこまれていると放っておけない。つけあがるのは目に見えているが。
「サヴィトリ様!」
カイラシュはぱっと表情を明るくし、飼い犬以上の人懐っこさでサヴィトリに抱きつく。
その光景を見て、「美形ご一行様」見たさに集まっていた人々が黄色い悲鳴をあげた。彼女らには一体どういう状況に見えるのだろう。
「カイ、とりあえず人前で抱きつくのはやめないか」
「では人前でなければよろしいのですね」
カイラシュはわざわざサヴィトリの耳元に唇を寄せた。頭のいかれた変態野郎だとわかっていても、カイラシュに囁かれると身体がびくりとしてしまう。
「私をからかうのはやめないか」
あまりにも人目が多いため、サヴィトリはカイラシュの身体を押し離すだけにとどめた。
「からかうなどおそれ多い。ただただお慕い申しあげているだけです」
カイラシュは芝居じみた所作で口元を押さえ、色っぽく目を細めた。男性に対して不適当な表現かもしれないが、カイラシュの表情には独特の妖しさがある。
「補佐官の行為としては度を越えていると思うが」
「おや、お気に召しませんか。ならばひざまずいて頭を垂れてみせましょうか」
挑発的な物言いに、サヴィトリは眉間に皺を寄せずにいられない。
サヴィトリは不機嫌さをため息と一緒に吐き出し、カイラシュをよけて足早に歩いた。
「そんなに怒らないでください、サヴィトリ様。怒ったお顔もとても魅力的ですけれど」
進行方向にカイラシュが立ちふさがり、無理矢理サヴィトリの足を止めた。
サヴィトリはため息をつき、頭を抱える。
「もう少し、普通に接してはくれないか?」
「これがわたくしの普通です」
「四六時中私にかしずき、おべっかを言うのがか?」
「おべっかではなく本心です」
「……これ以上何を言っても噛み合わないな」
サヴィトリは払うように手を振り、踵を返した。
一歩踏み出す前に、カイラシュに手首をつかまれ止められる。
「どうすればサヴィトリ様は、わたくしの言葉に嘘偽りがないと信じてくださいますか?」
「信じる信じないの話じゃない。……意味なく崇められるのが嫌なんだ」
「この程度の扱いで不機嫌になられたのでは困ります」
サヴィトリを逃さないように両手をしっかりとつかみ、カイラシュは温度のない視線で射すくめる。
「遠くない未来、あなたは万民に崇敬される存在になります。耳触りの良い言葉を並べたてる輩も増えることでしょう。甘言などに惑わされることなく、常に強く、常に公平な御心をサヴィトリ様には持っていただかなければ」
「……つまり、私が上辺だけのおだてにのぼせないように、わざわざご丁寧に免疫をつけてくれているってこと? それじゃあやっぱり、本心じゃなくておべっかなんじゃないか」
カイラシュの視線に負けないように、サヴィトリは強く見つめ返した。
「おや、気にする点はそこなのですかサヴィトリ様。わたくしの言葉の真偽など問題ではないと仰ったではありませんか」
理想的な形をした唇に、他人を気おくれさせるような笑みが浮かぶ。
指摘されてからサヴィトリは気付いた。
カイラシュに崇められるのが嫌なのは、それが心ない行為であるような気がしたからだ。自分がタイクーンの娘、次期タイクーンであるからこそむけられるもの。そうでなければ、カイラシュは自分に見むきもしない――
「どうかそんな顔をなさらないでくださいサヴィトリ様。――もっと、困らせたくなってしまいます」
カイラシュの唇が、声が、吐息が、サヴィトリの耳をかすめた。
サヴィトリは熱を帯びた耳を押さえ、全力で走る。カイラシュも、その言葉も、自分の感覚すらも得体の知れないもののような気がし、恐ろしかった。




