八
駅のロータリー。人々の流れを避け道の端へ身を寄せてコウジは社用携帯電話を耳にあてた。
「――はい、かしこまりました」
バス停や駅ビル、コンビニエンスストアなどがありかなり賑やかな界隈だが携帯電話から漏れる話し声は後ろめたさからかかなり大きい。
「いえいえ、そんな、私はかまいません。――はい。改めてご連絡申し上げます」
またドタキャンだ。コウジはため息をついた。この会社とは縁がないような気がする。別のルートを探るか、諦めるか。電話で報告すると、ちょうど社に戻っていた上司も「どうしたもんかねえ」と考えあぐねている様子だった。
夕焼けにはまだ早い時刻。しかしこれから帰社すれば定時かなり過ぎになってしまう。
「直帰ってことで。そんな日があってもいいじゃん?」
気さくアピールをする上司の勧めに従い、早めに仕舞いにすることにした。
――バタさん、いるかな。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めコウジはゆっくりと歩き始めた。
きつい日差しに一日さらされ、人も風景もくたびれている。しかし、コウジは夏が好きだ。夏には独特の活気と開放感がある。ねっとりと熱い空気をかき分けるように雑居ビルや倉庫の建ち並ぶ街から住宅街へ向かいながらすれ違う人々を眺める。道路に水を打つ人。立派な朝顔や酸漿の鉢の前で立ち話に興じる人々。
「今日も暑うございました」
「ほんとに。お疲れ様でしたねえ」
くたびれていても夏はどこか開放的だ。通りで交わされるねぎらい混じりの挨拶に、厳しい暑さを共有した「同じ釜の飯」的親しみがうかがえる。
熱気の淀む住宅街から川へ出る。堤を登るとやわらかな川風がコウジの頬をくすぐった。いつもの場所に異界からやってきた釣り人の背中が見える。
「おう、コウジくん。平日に来るのは珍しいな」
「近くまで来たので」
そうか、とバタさんは破顔した。コウジは一見この世界の外国人のような、実のところは異世界の人であるバタさんの顔を見つめた。
「――なんだよ、見とれるなよ」
「いや、決して見とれているわけでは」
「たはー、違ったか」
金色に輝く川面へ目を遣り、バタさんは片頬で笑んだ。
「なんか、訊きたいことあるんだろう?」
「バタさんは元の世界で何をしていた人なんですか」
沈黙が二人の間でむくむくと膨らんだ。言いにくいことなら無理には――そうコウジが言おうとしたとき、
「ある世界に男がいて、な」
バタさんが口を開いた。まぶしく陽光を反射する川面をたたき、魚が跳ねた。
* * *
男は高貴な家に生まれた。男も、かれの兄や弟も高貴な家柄に見合う努力を要求され、それぞれの才を花開かせていった。男は明るく朗らかであったが少々やんちゃでもあり、その気質に見合って武芸に秀でた子どもであった。
ただ優れた能力を培うだけではない。国主である王や王族の側仕えやめのと子としての務めも高貴な家の子弟に求められた。
「わたくしにちゅうせいをちかいますか」
男の役目は王女の護衛を兼ねた遊び相手であった。勉強嫌いで夢見がち、おとぎ話の絵本を持ち出しては外国の騎士叙任の儀式を真似たがった。男はこの騎士ごっこが嫌いだった。
「こういうのは外国の、しかも大昔の話なんであって今はもうないんですよ」
「うつくしいならわしなのに」
いつもいつも儀式の盛り上がるところで男は茶化しにかかる。夢見がちな姫君は唇を尖らせた。
兄は王太子の側仕えになって難しい政治の勉強をしている。弟は生まれたばかりの王子のお相手だ。相手は赤ちゃんで仕事らしい仕事などない。なぜ自分はこんな難儀なお役目なのだろう。男は鍛錬や勉強を言い訳に可能な限り王女の側仕えの仕事から逃げ回った。
長じて男が十二歳に、王女が十歳になる頃。逃げる言い訳を封じられて父親に引っ張られ王宮へ参じた男を王女はいつものように騎士ごっこに誘った。おとぎ話の絵本を諳んじる王女は、ふるきよき時代の姫君になりきって厳かに叙任の儀式をすすめる。
庭園は花々の馥郁たる香りと和やかな陽光とに満たされ、ふたりが姫君と騎士を演じる四阿の周りは人影がなく静かだった。男が跪き見上げる王女は長く伸ばした髪をゆるりとおろし、おとぎ話の姫君になりきっている。王女が騎士ごっこをするために作らせたドレスはおとぎ話の挿絵を忠実に再現していた。ずるずると長く引きずる陰鬱なつくりで子どもらしい平坦な体つきを貧相に見せて滑稽だった。
そう思っていたのに。
四阿の日よけから繊細に透ける光と影を浴び目の前に立つ王女はうつくしかった。なめらかな頬。丸みを帯びたなだらかな曲線。大人になる準備が始まる直前のあどけなさと色めいた危うさが身のうちにひとつに溶ける、童女から少女へうつろう独特の美。王女本人に自覚のないその美は清らかで神懸かり――男は年下の貴いひとのうつくしさに圧倒された。
伏せた目がゆっくりと開き玉のような瞳が男を射貫く。花のような唇がほころぶ。
目の前の姫君は賢くうつくしく家来たちの尊敬を集める人で、今日騎士となる自分にとって唯一無二の君主だ。ごく自然に男は頭を垂れた。鍛錬用の剣の鞘が肩をたたくのを待った。いつものように王女が厳かに問う。
「わたくしにちゅうせいをちかいますか」
ああ、そうだった。これは騎士ごっこだ。男は急激に冷めた。冷めてしまってさっき、ずるずるしたドレスに身を包みおとぎ話の姫君になりきって喜んでいる子どもっぽい王女をうつくしいなどと、唯一無二の君主だなどと、ちらりとでも考えたことが猛烈に恥ずかしくなった。
「誓いません」
馬鹿馬鹿しい。来年には士官学校への進学準備を始めるというのに自分はいつまでこんなごっこ遊びにつきあわなければならないんだ。男は王女の顔を見ず一礼するとその場を去った。どうせいつものように大げさに泣きわめくに違いない。庭園を後にする男は茶器や菓子を携えた女官たちとすれ違った。
「おや、今日はもうおしまいですの」
「ええ、まあ」
母親に近い年齢の女官にやわらかく問われ男は口を濁した。背後から王女の同情を誘う泣き声が聞こえなかったことに男は気づかなかった。




