アンナ・リディングの一日
◇
──アンナ・リディングの朝は早い。
といっても、幽霊は眠る必要はない。
早いも遅いもない。
恩人でもあり娘のように思っているマユラが旅立ってから、マユラ・グルクリム錬金術店にはアンナとルージュと、ニワール鳥たちしかいない。
そのため夜も活動ができるようになった。
古めかしい屋敷の補修、掃除、炊事はいいとして。
やることはまだまだ沢山ある。マユラが帰ってきた時に喜ぶぐらい、素敵なお店にしてあげたい。
そういうわけだから、この日もアンナは夜中はずっと、畑の手入れをしたり家の周りの草むしりをしたり、古くなった床の張り替えをしたり、錬金術店のレイアウトをしたりと忙しなく動いていた。
ニワール鳥の卵を集めようかと思ったが、しばらくマユラは帰ってこない。
孵化させてニワール鳥を増やすことにした。多ければ多いほど卵が増える。もちろん食肉にもできる。
アンナは生前は良妻賢母──賢母にはなれなかったが、ともかく良妻であったので、気をつかえる幽霊である。マユラにはお腹いっぱい食べて欲しい。健やかに元気に育って欲しい。
できれば結婚して欲しい。子供を産んで欲しい。マユラの子供を育てるのが、今のアンナの夢だ。
マユラがいる間は、マユラには睡眠が必要なので、アンナも夜の間は大人しくしていた。
夜の間は基本的には一階にあるリビングの窓辺に置かれた揺り椅子に座って、ゆらゆらしている。
ギィギィ……ギィギィ……と音が鳴ることについて、たまに一階に水を飲みに来るマユラが驚くことがあるが、「なんだ、アンナさんかぁ」と寝ぼけ眼でぼんやり言って、またトントン階段をあがって寝室に戻る。
とても可愛い。そして微笑ましい。
マユラの周りにいる人たちは、マユラがあっさり幽霊やらしゃべるぬいぐるみを受け入れているからなのか、あまりアンナに驚かない。アンナに驚くこともなければ、師匠に驚くことも少ない。
だから、アンナはついうっかり忘れていた。自分が幽霊ということを。
「いらっしゃいませ~」
「ゆ、幽霊が、幽霊がしゃべった!!!!!」
「あらあら、まぁまぁ……! マユラちゃんのお店には幽霊がいるのね。うふふ、楽しい」
「ジュネ様の御身は、このバルトがお守りいたしますぞ!」
「バルトさん、弱いのに……?」
「これでも騎士団長ですからな! お前たち、幽霊だ! 今すぐ祓うのだ、悪霊退散!」
せっかくのお客様。それなのに、アンナが姿を現した途端に童顔の背の低い男が大騒ぎしはじめる。
童顔の割に口調が老成しているので、案外年齢が高いのかもしれない。
その背後に付き従っている逞しい男性たちが「えっ、幽霊を!?」「どうやって!」と困っている。
アンナはふわっと浮かんで騒いでいる男に近づいた。
「お客様、お客様。私、アンナと申します。いらっしゃいませ、お客様。マユラちゃんの代わりに店番をしています、ふつつかな幽霊ですが、お見知りおきを」
「ひぇ……っ」
「バルトさん、怖がりすぎだわ。マユラちゃんの師匠は、中にそれはそれはおろそしい何かが入った、ぬいぐるみなのよ? お店番が幽霊でも、そんなに驚かないわ」
バルトという男の隣にいる非常に煌びやかで妖艶なジュネという名の女性が、鈴を転がすような声音で笑う。
「ゆ、幽霊ですぞ!?!?」
「幽霊ですけども」
「幽霊ぐらい、いるわよ、ねぇ?」
「結構いますよ」
ジュネに同意を求められたので、アンナは微笑んだ。
バルトはうるさいが、ジュネは物わかりがいいタイプだ。なんとなくユリシーズと同じような雰囲気を感じる。
ちなみに幽霊が結構いるというのは本当だ。
だが、大半の幽霊は夜になると光の玉のようにちらちら輝きながら、大地や海に消えていく。
アンナは消えることができない。
──わけではないのだが。
マユラがアンナの未練を断ち切ってくれたので、いつでも成仏スタンバイオーケー状態ではあるのだが、せっかくなのでもう少し今生を楽しみたい(死んでいるが)ので、ここに残っているだけだ。
「結構いるのか!?!?」
「はい。います。私のように友好的な幽霊が殆どですので、大丈夫です。怖がらないで。私、ただの店番のお姉さんですので」
これは嘘だ。だいたい、こうして未練たらたらで人の形を残している幽霊なんて、ろくでもないばかりである。
まぁ、ここはひとつ、嘘も方便、ということで。
あまりバルトを怖がらせるのはよくない。アンナにはマユラの商品を売るという使命があるのだから。
「マユラちゃんのお友達なの?」
「お友達でしょうか? 私はマユラちゃんのお母さんのつもりですね」
「ずいぶん若いのね?」
「色々ありまして……」
「まぁ! 色々、聞きたいわ。あぁそうだ、私、マユラちゃんにお祝いのお花を持ってきたの。錬金術師のジュネ・ジョイスよ。よろしくね」
「アンナともうします。よろしくお願いします」
この煌びやかさ。そして品のよさ。おそらくは貴族だ。レオナードとよく似た育ちのよさを感じる。
生前は高級レストランで働いていたアンナである。
そういったことには結構敏感だ。
「俺は、バルトだ。騎士団長をしている」
「レオナード君の?」
「レオナードを知っているのか? まぁ、それもそうか。レオナードとマユラは知り合いらしいからな。レオナードが除隊してから、騎士団長になったのだ」
「レオナード君なら、最近マユラちゃんと一緒に暮らしていますよ」
「同棲か!? 恋人なのか!?」
「あら、レオナードも隅に置けないわね」
──そういうわけではないだろう。
まぁいいかと、アンナは詳しく説明しなかった。
それにしても。怯えるのをやめた途端に偉そうに胸をはりだしたバルトもまた、多分貴族だ。
ジュネとはまた違う、貴族らしさを感じる。
生前働いていた店にもたまに来たのだ。貴族だから特別扱いしろ! と、偉そうにして、葡萄酒の銘柄を連れの女性に語る貴族。なんとなく同じ匂いを感じる。
ジュネは何人かの男性に、豪華な蘭の鉢植えを店の中に運び込ませた。
見るからに高級そうだ。アンナはマユラの分までお礼を言った。花がひとつあるだけで、店内は途端に明るくなる。花はいい。アンナは花が好きだ。
「それで、アンナさんには何があったの? もし時間があるのなら、聞かせて欲しいわ。私、退屈しているの。幽霊の身の上話を聞くなんて、滅多にないことだもの。アンナさんが嫌じゃなければ、教えて欲しいわ」
「お、俺は」
「バルトさんもどうせ暇でしょう?」
「い、いや、その、まぁ……」
アンナは少し考えて、二人に椅子を運んで来た。
ふわふわ浮かせて一人用の椅子を運んで、二人に座ってもらう。
部屋の中に案内するのはやめておいた。あくまでここはマユラの家なので、勝手なことはできない。
アンナが身の上話をし終えると、ジュネは瞳を潤ませた。その潤んだ瞳を、ジュネの周りに寄り添い扇で扇いだり飲み物を差し出したりしている顔のいい男たちが、丁寧にハンカチをあててふきはじめる。
アンナは、貴族ってすごいのねぇ……と、感心した。
レオナードも女性をこんな風に侍らせていたのだろうか。
アンナの中でマユラの夫レースの順位が、レオナードは一段階下がった。
今のところほぼ全員底辺である。レオナードは呪われているし、師匠はぬいぐるみで、兄は兄だからだ。
「うおおお……っ、な、なんて、なんて不幸なんだ、なんたる不幸だ……っ」
ここに来てからずっと大騒ぎしているバルトが、またもや大騒ぎしている。
アンナの話を案外真面目に聞いており、途中からアンナの元夫に怒り、マユラがアンナの恐らくは遺体の腹の中にいたのだろう子が魔物になったのを退治してくれた──というくだりあたりで、大泣きをしはじめた。
正直、ちょっとうるさい。
「そうか……マユラ、そうか……なんて優しいいい子だ……」
「バルトさん、浮気は駄目よ」
「そうではない! 俺は全面的にこの店に協力しなくてはいけない気がしてきた。ここにある商品を全部買い取ろうではないか」
椅子から立ち上がり、気合いが入った声で言うバルトに、アンナはわたわたと両手を振った。
「こ、困ります。結構人気なんですよ、マユラちゃんのポーション。団長さんが全部買ったら、他の人が困ってしまいますから。あぁ、そうだ! もしよかったら何か注文いかがですか? ほら、奥様へのプレゼントなんていかがでしょう? マユラちゃん今度、媚薬を作るっていってたかしら、確か」
「び、びや……っ」
「あら、いいわね、バルトさん。奥様も喜ぶわ」
「ジュネ様まで! 俺の妻をなんだと思ってるんだ!」
今のは小粋な元人妻ジョークである。
顔を真っ赤にして慌てているバルトは、結構いい人なのかもしれないなと、アンナは思った。
結局バルトはポーションを妻の分と自分の分、そして護衛二人の分の四缶買って、ジュネは自分の分と付き人たち美男子四人の分を買って帰っていった。
代金を箱の中にしまうと、アンナはルージュに話しかける。
「はじめて売れたわ!」
「ぴ!」
この調子で頑張ろう。きっとマユラが帰ってきたら、とても喜んでくれるだろう。




