第三章 赤で守り、青で進む
教習コースの外周。
坂道で車が止まっている。運転は更紗、助手席には男性教官⸻青木正美。
穏やかで、目尻に笑い皺がある。学生たちは親しみをこめて“青さん”と呼ぶ。
俺と美玲は、日陰のベンチでその様子を見ていた。
「更紗、緊張してるかな」
「してるよ。でも、青さんが“黄信号の説明”してくれてる。
止まるのが原則、止まれないと危ないなら進行可、って」
「……俺らも、黄と付き合うしかないんだな」
「青はさ、二人で同時に出すやつだから」
美玲の声は、風に溶けるように柔らかかった。
その横顔は、午後の光に輪郭を少しだけ失っていた。
◇◇◇
「半クラ、そのまま。駆動、来てる。……いい、サイド下ろして」
青木の声は穏やかだった。
更紗の手が震え、呼吸が整う。車体が少し沈み、次の瞬間ふわりと浮くように坂を上がる。
「黄信号はね、判断の練習なんだよ」
青木は続けた。
「止まるのが原則。でも、止まれないと危ないときもある。
大事なのは、どちらを選んでも自分の責任でいること」
「赤は赤城先生に任せよう。私は青と黄しか持ってないからね」
笑みとともに、言葉が風に流れた。
車は滑らかにカーブを抜けていく。その軌跡は、確かに弧を描いていた。
◇◇◇
「……負けない」
美玲が呟いた。
「誰に?」
「あたしの焦りに」
信号を顎で指し、「青点滅で飛び出さないって決めたから」と言う。
その目は、もう少女のものではなかった。
“待つ”という勇気を、自分の手で掴んだ人の目だった。
◇◇◇
夜がやわらぎ、風が花火の煙を運んでいた。
合宿所の駐車場。アスファルトには火薬の欠片がまだ散らばっている。
花火の残り香は、終わりの合図のようで、少しだけ寂しかった。
「……更紗」
呼ぶと、彼女は髪を耳にかけた。
その仕草を、俺は昔から何度も見てきた。けれど、今の一度が、なぜか遠い。
「今日さ、ずっと考えてた。
男女の友情ってさ、結局、どっちかが本気になった時点で終わりなんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、俺は更紗のこと……」
舌が乾き、言葉のハンドルが切れ込みすぎる。
沈黙が花火の残光みたいに落ちた。
「⸻ごめん。今の、赤信号だった」
更紗はほんの少し笑い、首筋に触れた。
「ここは赤。止まって。……今のわたしには進めない。
でも、止めるのはあなたを“嫌いだから”じゃない」
その声は、誰よりも優しく、誰よりも強かった。
俺は膝の力を抜いた。
止まる選択を、尊重する。
それが今の、俺の“合図”だった。
◇◇◇
⸻“男女の友情って、本当にあるのか”
⸻北条更紗の答え
友情は、成立する。
……そう言い張ってきた。
“幼馴染の彼女候補”という看板の外側に、自分の居場所を作りたかったから。
守られるのは楽。でも、守られてばかりじゃ選べない。
わたしの“好き”は、わたしが決めたい。
だから今日、赤を選んだ。
止まれ。赤鬼の声が背中を押す。
誰かが「行け」と言っても、進まない自由はわたしのもの。
それでも胸の奥では、青点滅が鳴る。
過去に踏み出した半歩を、どうやって終わらせるのか。
青木先生は言っていた。
「途中で立ち尽くすのが、いちばん危ない」
友情は成立する。
けれどそれは、境界を引いたあとの友情だ。
赤で守り、黄で考え、青で合意する。
順番を間違えなければ、きっと壊れない。
◇◇◇
翌朝。
校門前の歩道で信号が青点滅を始めた。
ピッ、ピッ⸻という電子音の間隔が、昨夜の会話の呼吸と同じだった。
「行かないの?」と麗央。
手すりに腰を預け、視線は横断歩道の先。
「……今から走るのは違う気がする」
「うん。じゃあ、止まる責任を持とう」
信号が赤になり、二人で白線の手前に足を揃えた。
切り替わりよりも静かな時間。
麗央の横顔は、いつもより少しだけ年上に見えた。
「僕さ。大智のこと、好きだよ」
心臓が一段、深く落ちた。
「でも直進の“好き”じゃない。右折したり、合流したり、ときどき一時停止もする。
……そういう“好き”なんだ」
俺は頷くかわりに、歩幅を合わせた。
言葉で返すより、その一歩の方が誠実だと思った。
「合図、受け取った?」
「受け取った。……俺もちゃんと、ミラー見るから」
二人の影が路面で少し重なり、すぐに離れた。
車間は二秒。
友情の距離として、それはちょうどいい。
◇◇◇
⸻“男女の友情って、本当にあるのか”
⸻柴崎麗央の答え
友情は、成立する。
なぜなら、“好き”は名前じゃなく中身だから。
直進だけが愛じゃない。右折も合流も、一時停止も、全部“好き”の形。
親愛の情が大きくなるほど、近くにいるほど、それが友情か恋愛かは揺れる。
けれど、どちらも「相手を守る気持ち」では同じだ。
呼び方が違うだけ。
僕がこの感情に名前をつけるなら、今は“友情”と呼ぶ。
でも、合図は出す。
黄で待ち、赤で止まり、青は二人で出す。
それが、僕の誠実さのルールだ。
◇◇◇
⸻“男女の友情って、本当にあるのか”
⸻葛木大智の答え
ずっと、成立しないと思っていた。
優しさは恋の前段で、友情は待合室だと。
いつか必ず青になると思っていた。
けれど、赤で守られ、黄で待たされ、青を二人で出す練習をして分かった。
坂道発進に似ている。
半クラで力をやわらかく伝え、サイドを下ろすタイミングは自分で決める。
焦れば後ろに下がり、強引に繋げばエンストする。
赤鬼の「止まれ」。
青さんの「判断」。
麗央の「黄と付き合う」。
美玲の「待つ勇気」。
更紗の「自分で決める」。
それら全部をミラーに入れて走ると、
友情は“成立するもの”じゃなく、“成立させるもの”だと分かった。
境界を尊重し、合図を出し、責任を引き受けることで。
だから今は言える。
成立する/しない、じゃなくて、
どう成立させるかの運転を、これから覚える。
◇◇◇
夜の終わり、空気が透明になっていく。
誰もがそれぞれの信号を持っていた。
そして、その順番を間違えないように、ゆっくり運転を覚えていく。
赤は、守る色。
青は、進む色。
黄は、その間で揺れる心の色。
それを全部抱えて立ち止まること。
それが、俺たちの“友情の教本”だった。




