第二章 半クラッチの角度
夜の教習コースは、街の明かりよりも静かだった。
照明塔の白がアスファルトを薄く塗り、路面のラインが紙の折り目のように浮かび上がる。
「坂道発進のポイントは、半クラッチです」
スピーカーから聞こえるアナウンスを、誰もが聞き流していた。
練習車の窓の内側では、別の鼓動が鳴っていた。恋と友情、その両方の中間のような鼓動。
運転席に俺、助手席に麗央。
夜風が少し湿っていて、クラッチの踏み込みに力が要った。
「半クラ、丁寧に」
麗央が言った。膝の上に置いた手が、指先だけで“脈”のようにトントンと刻む。
「急につながない勇気って、覚えておくといい」
「勇気?」
「焦らない勇気。……いきなり繋がないで、合図を出す勇気」
クラッチの震えが、胸のざわめきと重なる。
金属のこすれる音が、まるで息の擦れあいみたいに聞こえた。
「なあ、大智⸻」
「ん?」
「男同士の恋愛って、どう思う?」
ハンドルを握る手に、汗が滲む。
「わからない。……嫌じゃない。怖くもない」
「ありがと」
麗央は、ほんの少しだけ肩を落とした。その声が、ウィンカーの“カチ”に似ていた。
小さく、でも確かに進む音。
言葉を交わしただけなのに、呼吸が変わる。
クラッチをゆっくり上げる。
車体が、夜の闇をすべるように進む。
踏み込みすぎないための距離が、ようやく測れた気がした。
◇◇◇
更紗と美玲は、その頃、休憩スペースで缶ジュースを飲んでいた。
夜風が、髪を軽く揺らす。
自販機の光だけが二人を照らしていた。
「更紗、麗央と仲いいよね」
「うん。……落ち着くんだ」
「好きなの?」
美玲の声は、少し挑むように響いた。
「わかんない。たぶん、好き。でも、あの人にはもう誰かがいる感じがする」
「大智のこと?」
「違う。……でも、大智のことも嫌いじゃない」
更紗は笑ってみせたが、目の奥はどこか寂しげだった。
美玲は視線を横にずらした。
遠くで車のライトが曲がり角を照らす。
白い線が、夜の中で細く続いている。
「……半クラッチって、難しいね」
「え?」
「止まりたいけど、止まりきれない。進みたいけど、踏み込めない。
なんか、恋と一緒だなって」
更紗が笑ってうなずいた。
◇◇◇
次の車では、美玲が運転席に座っていた。
俺は助手席。ハンドルの頂点を軽く握り、彼女は深呼吸して発進する。
ベンチから麗央が、手のひらを上にして“少しだけ”の合図を送った。
それを見て、美玲が小さく笑う。
ライトに照らされた頬の輪郭が、夜の白に溶ける。
「半クラって、黄信号の技みたいね」
「黄信号?」
「焦らず、でも止まりきらないで。今は進まないって、自分で決める感じ」
「……俺たちも、それかもな」
言いながら、自分の声が思ったより柔らかいことに気づく。
つなぐ勇気よりも、待つ勇気のほうが難しい。
車体が滑らかに動き出す。半分だけ繋いだ、その中途半端さが心地よかった。
◇◇◇
待機列のベンチ。
更紗と麗央が紙コップのコーヒーを手に、静かに会話していた。
距離は腕一本分。だが、その隙間にはいくつもの“もしも”が揺れている。
「今日の黄、どうだった?」と麗央。
「止まれたよ」更紗は言った。「……“いつかは”って言い方に、一回、停止線を引いた」
「えらい」
「でもね、青点滅みたいな気持ちもある。もう渡り始めてるものを、どうやって終わらせればいいのか」
「急に走らない。途中で立ち尽くさない。それがいちばん安全だよ」
更紗は頷き、髪を耳に掛けた。
「ありがとう、麗央」
「いいよ。……更紗の“好き”がどういう意味か、僕はわかる。僕も、同じだから」
麗央は照れ隠しのように耳の後ろを掻いた。
会話の最後に、風が一度だけ吹いた。
それだけで、互いの沈黙が理解の形になった。
◇◇◇
消灯後の相部屋。
ベッドフレームが、夜の湿気に小さく軋んだ。
虫の声が遠くで連なっている。
「……今日、嬉しかったり、悔しかったり、ぐちゃぐちゃだった」
俺は胸の上で指を組んだり、ほどいたりしていた。
「美玲がさ、“可哀想だから”ってよく言うだろ。あれ、突き放しじゃなくて照れ隠しだって、いまさら気づいた」
「うん」
「S字のとき、赤城に“目は出口”って言われたんだ。俺、ずっと更紗を出口にしてた。
ハンドルは戻せても、目線は戻せなかった。その自覚が、悔しかった」
「うん」
「それから、男同士の恋愛って聞かれて。怖くないって言ったとき、もう答えは決まってた。
言葉にした瞬間、少しだけ楽になった」
「うん」
麗央は寝返りを打ち、枕に顔を半分埋めた。
「信号は一色じゃないよ。交差点ごとに違う。……今日の大智は、“黄で待つ”を選んだってことだ」
「黄と、付き合う……か」
「僕も同じ。名前のない“好き”を、そのまま置いておく。それでいい」
小さな呼吸の間に、外の青点滅が消えた。
闇が、やわらかく部屋の形を変えていく。
半クラッチのまま、心が進むか止まるかを選ばずにいた。




