第一章 S字、曲げるより戻す
入所式のロビーは、新しい合皮と薄い洗剤の匂いが交じっていた。
名札の紐が喉のくぼみに当たるたび、指で位置を直す。
列は少しずつ進み、受付の係が同じ調子の笑顔で「次の方」を呼ぶ。
横に、美玲がいた。
パンフレットを半分に折ったまま視線を落とし、ページの角を親指で揉んでいる。
声をかけようとしてやめる。胸の奥で、言葉が早発呼吸のように空回りした。
裾をつままれた。
見下ろすと、美玲が上目づかいで短く言う。
「おはよ」
「ああ。……おはよ」
自分でも気づかないうちに、胸のどこかが緩んだ。
それを見透かしたのか、美玲はわずかに唇を尖らせる。
「何よ、その顔」
「別に。……この前は、ありがとな。犬のこと」
「あんたのためにやったんじゃないし。なんか、“可哀想”だったから……」
“可哀想だから”は彼女の口癖だ。
指先が耳たぶをかすめ、すぐ離れた。
赤くなるのは、皮膚のほうが先だった。
「今日のお昼さ。決めてる?」
「いや、まだ」
「じゃあ……一緒に食べない? 近くに、安くておしゃれな店が⸻」
声の最後が小さくなる。視線は紙のままだ。
“可哀想だから”ではなく、誘いが欲しいのだと、ふいにわかる。
「いいな。行こ。」
言った瞬間、美玲はようやく顔を上げた。
「勘違いしないで。別に好きとかじゃ、ないから」
その言葉と反対に、スマホを向ける手が、ほんの少し震えていた。
◇◇◇
午前の講義が終わると、場内コースの白線がひかえめな眩しさで夏を返してくる。
同乗表には、今日の分の名前が並んでいた。
⸻ S字:運転・葛木大智。助手席・赤城みどり。後席・北条更紗。
短髪の女性教官が胸ポケットの赤ペンを軽く叩き、「赤・黄・緑が名前に入ってるから覚えなさい」と目尻だけ笑った。
「学生はね、私を赤鬼って呼ぶの。ブレーキに厳しいから」
顔には冗談の色があるのに、声は真っ直ぐだった。
「S字は“曲げる”より“戻す”。手でハンドルを押さない。返して。目は出口へ」
緊張の指で縁を探りながら、親指を軽く掛ける。
深呼吸。曲げる⸻戻す。息まで同じリズムで出し入れしてみる。
バックミラーに、更紗の横顔が揺れる。
目を戻す。戻し切れないのは、ハンドルではなく視線のほうだ。
⸻“目は出口”。俺の出口はどこにある。
更紗の横顔ではない場所に、ちゃんと据えられるだろうか。
S字を抜けると、赤城が短く頷いた。
「角は、敬いなさい」
「敬う……?」
「ぶつからない距離と、ぶつからない速さ。それが“敬意”。
クランクは角を“よく見る”。視線を逸らしたら、恋も運転も同じところでこける」
言いながら、赤城は腕時計の横ボタンを、親指で一度だけ押した。
それは、教習所にだけ通用する時間ではなく、ここで生きる時間の音だった。
◇◇◇
昼の食堂は、トレーが触れ合う金属音で満ちていた。
ガラスのコップに水が入る音が、暑さの輪郭をほんの少しやわらげる。
「夜の自主練、付き合ってあげてもいいけど。……可哀想だから」
美玲は箸の先で白米を崩し、視線を皿から上げない。
「助かる」
言いながら、胸の内側で小さな棘が転がる。
“可哀想”で救われるのは、格好悪い。
それでも、言葉が照れの衣装を着ていることを、俺はもう知っている。
「だから、勘違いしないでってば」
コップを持ち直した顎が、わずかにこちらを向く。
水面が揺れて、光の輪が指にかかった。
⸻勘違いしないで、は、ときに“勘違いしてもいい”の裏返しだ。
そう気づいた瞬間、喉が乾いた。
◇◇◇
午後、コース脇の待機スペース。
白線の影が、少しだけ長くなる。
走り去った車が風だけを残し、コーンの影が肩口を撫でた。
ベンチの端では、麗央が足先で線を二度ほど踏む。
「……負けない。歩行者優先なんだから」
美玲はヘアゴムを指で弾いて、すぐ戻した。
「何に負けないの?」と麗央。
「更紗が大智の後席にいても、あたしの歩幅で渡る。青になるまで待てる」
「心配いらないと思うよ。あっちは赤だから」
麗央は遠くのS字に視線を置いたまま、やわらかく言う。
美玲は鼻で短く息を抜き、腕を組んだ。
「黄のまま突っ込むと、誰のせいにもできないよね」
「うん。黄は止まるのが原則。進むと決めたら、渡り切る責任」
遠くで歩行者信号が青点滅を始め、ピッ、ピッ、と規則正しく鳴る。
二人とも視線を上げなかった。
音だけが、同じ密度で耳の奥に入ってきた。
◇◇◇
⸻“男女の友情って、本当にあるのか”
⸻松原美玲の答え
成立しない、って昔は思ってた。
だって、“半分こ”で笑えるうちは、本気じゃない。
独り占めしたい気持ちが喉につかえるとき、そこはもう“恋”の領域だから。
でも教本は言う。黄は止まるのが原則。急に止めたら危ないなら進んでもいい。
つまり、“いまは進まない”って決めるのも、あたしの責任。
大智の後席に更紗が座るたび、胸のどこかが青点滅する。
今から飛び出すのは違う。だけど、もう渡り始めた一歩ぶんは、渡り切る。
歩行者優先⸻誰かの恋に割り込むなって意味じゃない。
あたしの焦りに、割り込ませないってこと。
合図は三秒前、って赤城先生が言った。
わかった。青は二人で出す。黄のあいだは並走する。赤なら、ちゃんと止まる。
負けない相手は、更紗じゃない。昨日までの、あたしだ。
◇◇◇
夕方、グラウンドに影が伸び、風が少し冷たくなる。
S字のコース脇で、赤城が最後に言った。
「目は出口。出口は、あなたが決めるほうに置く」
その言葉が、胸の内側で長く反響した。
ハンドルは戻せる。視線はどうだ。
出口を、更紗の横顔ではないところに置く勇気。
それが今日、俺に渡された課題だった。
白線の端で立ち止まると、日差しがわずかに傾いた。
夏の匂いの奥に、夕食の予告みたいな空気の温度が混じり始める。
⸻曲げるより、戻す。
今日覚えたのは、ハンドルの話で、そして、
心の話だった。




