序章 夏休み最後の平日
※本作の登場人物・用語については本章末をご覧ください。
──“男女に友情はあるのか”
それは、長い人類の歴史がまだ答えを見つけきれずにいる問いだ。
だけど俺は信じてない。
だって、友情で済むなら、あの感じ──胸の奥のざわつき──は何なんだ。
◇◇◇
七月二十日。夏休み前、最後の平日。
八時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室中が一斉に息を吐いた。
「えー、ということでな。みんな勉強もいいけど、ちゃんと青春しろよ。高校最後の夏だ。楽しめ」
担任が黒板消しを片手に言うと、教室に小さな歓声が上がる。
椅子が軋み、鞄のジッパーが走る。
窓の外では、真夏の空が午後の白光を抱えている。
俺は机の角を軽く叩きながら、その光の向こうを見つめていた。
「楽しめ、かぁ」
「どうした、浮かない顔して」
背後から声がして、振り返る。
柴崎麗央が教卓に片肘をつき、出席簿で顔を扇いでいた。
「予定がねえんだよ」
スマホを見せると、カレンダーは真っ白だった。
「マジかよ。ウケる」
麗央は肩を揺らして笑い、からかうように続けた。
「更紗ちゃんは? 一緒にどっか行かないの?」
視線を送った先、教室の隅では北条更紗が髪ゴムを巻き直している。
彼女は俺の幼馴染で、小学校の頃からずっと同じ時間を歩いてきた。
「いやぁ、わたしも予定ないんだ」
更紗は頬を掻きながら、曖昧に笑う。
「親が仕事で。犬の世話しなきゃでさ」
「残念。誘おうと思ってたのに」
麗央は少しだけ眉を下げたが、その目には悪戯めいた光があった。
「何に誘うんだ?」
「合宿免許だよ。二人で申し込めば安くなるらしい」
麗央はポケットからパンフレットを出して、俺の机に滑らせる。
印刷の青い文字が、夏の光を受けてかすかに滲んでいた。
「免許か……」
「どうせ予定ないんだろ? 枠、残りわずかだってさ。黄信号だよ」
黄信号。──渡るか、止まるか。
そんな言葉が頭をよぎる。
「わたし、行きたい!」
不意に、更紗が声を上げた。
その声が、教室の空気を一瞬だけ止めた。
「犬の世話は?」と麗央が問う。
「隣のおばちゃんに頼めば、たぶん大丈夫」
「……たぶん、ね」
そのとき、ドアが開いた。
「じゃ、うちで預かろっか?」
松原美玲が立っていた。
陽射しの中で髪が揺れ、表情には少しの棘がある。
「ほんと? ありがとう!」
「別に、母が好きなだけだし。あたしが面倒見るわけじゃないから。」
そう言って、美玲はスマホをひらひらさせる。そこには同じ合宿免許の申込ページ。
「……美玲も行くの?」
「当然でしょ」
麗央が笑いながら俺の肩を小突いた。
「ほら、もう三人も行く気だぞ。お前も来いよ」
パンフレットを指で押さえたまま、俺は少しだけ息を吸う。
そこには“残り枠わずか”の赤文字。
この“赤”ってのが、いつも人を焦らせる。
「……渡るか」
そう呟き、スマホの画面をタップした。
青い光が、掌に小さく反射した。
《登場人物紹介》
○ 葛木大智
本作の語り手。高校三年生。素直で理屈っぽい性格。
幼馴染の更紗とは長い付き合いだが、友情の線と恋の線がいつも曖昧になる。
「男女の友情は成立しない」と信じており、その答えをこの夏に探す。
○ 北条更紗
大智の幼馴染。聡明で自立心が強い。
人の感情に敏感で、誰かの“想い”を察してしまう優しさを持つ。
教習所でも冷静沈着だが、その笑顔の奥に複雑な迷いを秘める。
○ 柴崎麗央
大智の親友。明るく社交的で、柔らかいユーモアを持つ。
常に他人の立場から考えるバランス感覚に優れ、
「男女の友情は成立する」と断言する現実主義者。
しかし彼自身の“好き”には、まだ名をつけられずにいる。
○ 松原美玲
大智のクラスメイト。率直で照れ屋。
思ったことをうまく言葉にできず、つい強がってしまう。
食堂ではよく大智と同席するが、「可哀想だから」と言い訳を添える。
その一言の裏に、まだ本人さえ知らない本音が隠れている。
○ 赤城みどり(あかぎ・みどり)
教習所のベテラン教官。厳しくも筋の通った指導で知られる女性。
その名には〈赤・黄・緑(青)〉のすべてが含まれており、
学生からは敬意と畏怖を込めて“赤鬼”と呼ばれている。
「赤は止まれ」「規則を守れ」を信条とするが、
その言葉の裏には“守るための優しさ”が静かに宿っている。
○ 青木正美
通称“青さん”。穏やかで親身な男性教官。
判断と選択の大切さを説く。「黄信号は、考える時間だ」と笑う人。
赤城とは長年の同僚であり、厳しさと柔らかさの両輪として学生たちを導く。
彼の一言が、物語の“進行方向”を照らす。
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《用語ミニガイド》
・赤:
「止まる」ことの象徴。感情の暴走を防ぎ、他者を守るための静止線。
赤城みどりの教えに通じる色であり、規律と優しさの両面を持つ。
・黄:
「考える時間」の象徴。進むか止まるか、選択の余白を与える。
焦らず迷うことを肯定する、“判断”の色。
・青:
「進む」ことの象徴。合意の上で踏み出す勇気を表す。
青木正美の穏やかな言葉に重なり、友情の“並走”を示す。
・初心者マーク:
不器用さの証であり、成長の証。
失敗を恐れず、学びながら進もうとする姿勢そのもの。
・坂道発進:
焦れば後退し、力を急げばエンストする。
半クラッチの“加減”が問われる動作。
登場人物たちの人間関係そのものであり、
感情をどう繋ぐか──その難しさを象徴する。
・教習所:
運転技術だけでなく、“心の運転”を学ぶ場所。
ルールと自由のあいだで、誰もが一度は立ち止まる。
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※この物語は「友情」をテーマに、教習所という通過儀礼の中で
それぞれが“進む・止まる・待つ”を学んでいく群像劇です。




