五十八話
クリムガルド砦は騒然としていた。
急に馬に乗って現れたアクアマリン王女はまっしぐらに冥府へ飛び込み、止めようとした皇帝も巻き込まれてしまった。
国の緊急事態にアーノルドが駆けつけていたが、為すすべはなかった。友人としてはすぐにでも救助に向かいたかったが、宰相としてその判断は下せない。冥府に足を踏み入れるのは自殺行為に等しいからだ。国の大切な財産である騎士たちを無駄死にさせられるわけがなかった。弟同然の友は絶対にそれを許さないだろう。
「陛下……っ! くそっ!」
無力な自分に腹が立ち、砦の石壁に拳を打ち付ける。
騎士たちはみな「命は惜しくありません。陛下を助けに行かせてください!」とアーノルドに嘆願するが、膠着した時間が流れていた。
そんなとき、月が遮られて砦に大きな黒い影がさす。一陣の強い風が吹いた。
「……?」
空を見上げたアーノルドと騎士たちは瞠目する。
「だっ、ダークドラゴン!?」
「奇襲だ! 迎撃準備!」「なぜここに!? 皇城方向から飛来したぞ!」
素早く持ち場に散る騎士たちだったが、アーノルドが叫ぶ。
「――待て! 背中に誰か乗っているようだ!」
最強種の背に乗ることのできる人間など、一人しか知らないが――。アーノルドはぶるりと背が震えた。
ブラッキーの背に乗ったルビーは砦を見下ろし、アーノルドを見つけると大きく手を振った。
「陛下を助けに行きます! ブラッキーは冥府で生まれたそうなので案内できると言ってます! 必ず連れて戻りますから、皆さんはここで待っていてください!」
「ルビー殿下……」
ルビーは長い髪をなびかせて砦の上空を旋回し、騎士たちに向けて安心させるように笑ってみせた。
正面を向き直ると真剣な表情に戻り、ブラッキーに指示を出す。
「いくわよブラッキー! 陛下とアクアマリンのもとに連れて行って!」
「キュイーッッ!!」
ブラッキーは加速し、ふたりは真っすぐ冥府の闇に突っ込んでいった。
嵐のように現れ、風のように去っていったふたり。あっという間の出来事だった。
「皇妃殿下……」
ぽかんとした表情の騎士らとアーノルドだったが、しだいに歓喜の渦に包まれる。
「見たか? 皇妃殿下はダークドラゴンを使役していたぞ!」「なんと頼もしい」「俺達はここでご帰還を待とう! 魔物の出現が増えるかもしれないから気を抜くなよ!」
望みは繋がれ、砦の士気は一気に上がる。
高まる騎士たちに気づかれないようにアーノルドは物陰に移動し、目元を拭った。
「ルビー様。陛下の友として、心よりお礼申し上げます」
◇
冥府に突入して比較的すぐに、湖のほとりでセオドアの姿を発見した。
「陛下! ご無事ですか!? 助けに来ました!」
ひらりとブラッキーから降りたルビーは驚く夫のもとへ駆け寄る。ぺたぺたと全身を触って確認し、怪我がないことが分かると涙を流して喜んだ。
「よ、よかったぁ……! 報せを聞いたときは心臓が止まるかと思いました……」
「……俺のために来てくれたのか」
「もちろんです! わたしは陛下の妻ですから、どんな運命も半分こですよ。絶対に見捨てたりしません」
嬉し涙を流して自分を見上げる妻に、セオドアの胸はきゅっと締め付けられる。たまらなくなって小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。俺の妻は愛情深いだけでなく勇気も備えている」
幸せな気持ちで応じるルビーだったが、あることに気がつく。
「あれっ? 陛下の首と顔が赤くなってます。――えっ、腕もです!」
身を離して確認するセオドア。ルビーの言う通り全身の肌が炎症を起こしていた。
「……この湖に落ちたからか。強い瘴気を含んだ水を浴びてしまったようだ」
「すぐに解毒しますね。瘴気よけの結界も張ります。そこに座りましょう」
解毒を行いながら、ルビーは妹のことを思い出した。
「アクアマリンとは一緒ではないのですか?」
「彼女は先に進んでしまった。……魔王に会いに行くと言っていた」
「魔王に? 罪を償うのが怖くなって逃げ出したのではなかったのですか?」
「……実は、そうではないんだ」
――あんな妹でもルビーは大切に思っている。その気持ちを尊重してきたが、もう潮時だろう。
やむなくセオドアは最低限の説明をした。
アクアマリンはずっとルビーのことを妬ましく思っていたこと。ルビーが身代わりとしてラングレーに嫁いだのも悪意から仕組んだことで、ジークハルトを差し向けたり無理やり連れ帰ろうとしたのも幸せな様子が気に食わないからだろうとも。すべてに失敗して罪を負うことになったため、魔王をそそのかしてラングレー皇国ごと滅ぼそうとしていることも。
「まだ明らかになっていない部分も多いが、一つ確実に言えるのは、王女は君のことをよく思っていない。君が差し出した好意を平気で踏みにじる人間だ。……危険を冒してまで助けに行くのか、よく考えてほしい」
「……わたし、嫌われてたんですね。そうとは知らず無神経なことばかりしてしまったかも」
ルビーはしょんぼりとして肩を落とす。セオドアは優しく抱き寄せた。
「君は悪くない。世の中には勝手な人間がいるのだ」
「……ありがとうございます」
大きな腕の中でルビーは考える。自分は妹とどう向き合っていくべきなのかと。
もう会わないほうがいいのだろうか。助けに行っても拒絶されるのではないだろうか。そんな考えがぐるぐる頭の中を巡っていたが――。
「……でもやっぱり、わたしは行きたいです。アクアマリン本人の口から気持ちを聞きたい。それに、本当に魔王をそそのかしているのなら皇妃として止めねばなりません」
決意した表情のルビーを見て、セオドアはふっと口元を緩める。
「そう決断すると思っていた」
「すみません。わたしはこの先に進もうと思います」
あまり悠長にはしていられない。魔王の返事によっては国の危機が迫っている。
ルビーが立ち上がると、セオドアも腰を上げた。
「あっ、陛下はここで待っていてもらえますか? 見たところここは安全そうですので」
「君が行くなら俺も行くに決まってる。……それが夫婦なのだろう?」
きょとんとしたルビーはやがて相好を崩す。「そうでしたね!」と言ってセオドアの手を取り、ともにブラッキーの背に乗り込んだ。
「ブラッキー、アクアマリンの居場所はわかりそう? 魔王の元を目指しているみたいなの」
「キュイッ! キュキュキュッ!」
「なんと言っている?」
「魔王の棲む城ならわかるそうです。ひとまずそこに行ってもらいましょう!」
「魔王城か……」
セオドアは腰に佩いた剣にそっと触れる。魔王は知性の高い魔物だと言い伝えられているから、いきなり交戦状態になることは考えにくいが、侵入者に対する牽制はあっても何らおかしくない。
「ブラッキー。攻撃には十分注意してくれ。君の主人であるルビーに危機が迫ったらすぐに離脱したい」
「キュキュッ!」
頼もしい返事をしてブラッキーは飛び立った。
長い洞窟を瞬く間に抜けると、うっそうと茂る黒い森をはるか下に見ながら空を滑る。妖しくそびえ立つ魔王城はもうすぐそこに迫っていた。
鋭利な塔の先端に接近していくと、ルビーが声を上げる。
「あっ、あのドレス! 中にアクアマリンが見えます!」
「正面には男がいるようだが……あれが魔王か?」
セオドアが剣を抜いたその瞬間、部屋の窓ガラスが内側から勢いよく弾け飛ぶ。ブラッキーは翼をかざして背中の二人を守った。
塔の周りを旋回しながら内部の様子をうかがう。
「何が起こっているんだ?」
「アクアマリン! 聞こえる!?」
ルビーが叫ぶが、声は届いていないようだった。そうこうしているうちにアクアマリンに対峙している男は大きな鎌を手に取った。
「あっ、危ない! やめてっっ!」
ギラリと鎌の刃が光る。無慈悲に振り上げられたそれは、一抹のためらいもなく振り下ろされる。
ルビーの意思を理解したブラッキーは、勢いよく部屋に突っ込んだ。




