幕間 アクアマリンの執着
ベルハイム王国王城。最上階にある贅を凝らした聖女アクアマリンの私室では、一人の男が項垂れるようにひざまずいていた。
「――それで、一度追い払われたからと言ってのこのこ帰ってきたというの? 魔術師団長が聞いて呆れるわね」
椅子に頬杖をつき、つまらなさそうな表情のアクアマリン。彼女の左右には侍女が立ち、大きな扇子でかれこれ一時間は主を扇ぎ続けている。その額には汗がにじんでいた。
ジークハルトは彼女の尊大な態度に困惑しながらも、哀れっぽい声で弁解する。
「いっ、いえ……。その後何度も襲撃を試みたのですが、ルビー元王女のところにたどり着く前にすべてセオドア帝に返り討ちに遭い……。これまで対峙した誰よりも強い男です」
「言い訳は聞きたくないわ。結局逃げ帰ってきたのだから同じよ。これでは公爵位への格上げ推薦もおあずけね」
「それは……! どうかなにとぞ……アクアマリン殿下……っ。わたしたちの関係は……!」
「あなたとは利害の一致で手を組んでいるだけよ。頼んだことをしてくれないのなら見返りはないわ。一度寝たくらいで勘違いしないでちょうだい」
「そんな……わたしは本気で貴方様のことを……っっ」
「冗談を本気にする男が一番嫌いなのよ」
アクアマリンは自分の美しく磨かれた長い爪を眺めていて、必死に説明するジークハルトにはちらりとも目を向けない。
「公爵位を持つ魔術師団長ともなればあなたの地位は盤石になる。わたくしは身の程をわきまえないお姉様に現実を教えて差し上げられる。そういう取引だもの」
「公爵位をいただいて、結婚するという話では……!?」
「いつわたくしが結婚と言ったかしら? いずれにしても貴方では力不足よ」
ふんと鼻を鳴らしたアクアマリンはサイドテーブルから一通の手紙を取り出した。
「なんだと思う?」
「手紙……でしょうか」
「見れば分かることを言わないで。これはお姉様からなの。……呑気もここまで来ると鬱陶しいったら。すごく不愉快な内容なのよ……」
端整な顔を歪めるアクアマリン。嫉妬渦巻く醜悪な顔を見て、ジークハルトはぎくりと身体をこわばらせた。
「セオドア陛下は親切? ――哀れまれているだけでしょう」
びり、と読んだ部分の手紙を縦に破るアクアマリン。
「ラングレー皇国はいいところ? ――汚らわしい」
びりり。
「あなたも一度遊びに来ては? ――気味の悪い毒使いのくせに馴れ馴れしくしないでよっっ!」
わずかに残った便箋を狂ったようにびりびりに破り捨てる。宙を舞う紙吹雪のひとひらがジークハルトの頭頂部に乗った。
「――あぁ、ほんとうに気分が悪いわ。お父様にはこき使われるし、食事はどんどん粗末になるし。聖女として当たり前の生活水準すら贅沢だとなじられるなんて。なんにも楽しくないわ」
はあ、と深い溜め息をついて椅子の背に背中を預ける。
父王の命令で国内各地の浄化に派遣されたものの、地方での質素な滞在が気に食わなかったアクアマリンは適当に祈りを捧げて済ませていた。それはまだマシなほうで、アクアマリンの服や髪飾りを贅沢だと糾弾した住民がいた町は見捨てて帰ってきた。報告書は侍女に偽造させた。
聖女である自分の暮らしは最優先で保証されるべきだし、そのために国民が汗水たらすこともまた当然。自分を大切にしない国民は、せいぜい困ればいいと思っていた。
「早く素敵な殿方を見つけて結婚したいわ。セルディオ殿下は結局女狐が奪っていってしまったし。ああ腹立たしい」
アクアマリンが参加できなかった夜会のホストを務めたオパール公爵令嬢は、賓客だった隣国の王太子セルディオと親しい交流が続いているらしい。
不愉快なのでぶち壊しにしてやろうかと思ったが、父王から「おまえにはもっといい相手を見つけるから」と言われてしまっては仕方がない。格下令嬢のお古と付き合うのもプライドが許さないので、最近は割り切った遊びに興じているのだった。
ため息をついたアクアマリンが傍らの侍女に手で合図をすると、侍女は部屋の扉を開く。すると、見目麗しい美男子がぞろぞろと入ってきて彼女の周りに侍った。
ひざまずいたまま呆然とした表情で見上げるジークハルト。その視線で彼の存在を思い出したアクアマリンは、道端の石ころを見るような顔で言う。
「――あら? まだいたの。もう話すことはないから帰っていいわ。二度と会うことはないでしょうね」
◇
翌日は定期的に行われている王国会議があった。聖女の微笑みを貼り付けていつものように聞き流していたアクアマリンは、とある老臣の報告で一気に目を覚ます。
「陛下、大変なことが明らかになりました。在ラングレー皇国大使からの報告で、どうやらルビー王女殿下には瘴気を払うお力があるそうです」
「なんだって!? それは誠か!」
「非公式情報とのことですが、その能力が訪問先で話題になり、大使の耳にも届いたと。より詳細な報告を求めておるところです」
「いったいどういうことなんだ?」
国王は血相を変えて唾を飛ばした。会議に参加している重臣たちも一斉に「あのルビー殿下が?」「毒使いではなかったのか?」と驚きの表情を浮かべる。
「――陛下。これは一大事です。我が国の瘴気が増し作物に影響が出始めたのは殿下が嫁いだ時期と重なります。これまで原因不明とされていましたが、ひょっとするとこれが理由では?」
「瘴気を人間にとっての『毒』と捉えれば、毒使いの力で操ることもできるということなのか……? ああ、なんということだ……」
頭を抱える国王。真偽がはっきりしたわけではないが、この話が本当ならば、惜しいという言葉では言い表せないものを手放してしまったことになる。
「我が国の瘴気を払いきれぬアクアマリンと、冥府に近いラングレーの瘴気を払えるルビー。どちらが上かは明白だ……」
呆気にとられていたアクアマリンだが、父王のこの言葉で一気にはらわたが煮えくり返った。
(お姉様のほうがわたしより上ですって!? そんなことあり得ない! わたくしは完璧な聖女なのよっ!?)
八年間も塔に幽閉されていたのだから、毒使いの力など大して知らないはずだ。対して自分は聖女として七年も経験を積んでいる。どちらが上かなんて明白ではないか。大使の報告は大げさだし――あるいはルビーが嘘を吹聴して回っているのだろうと思った。
(よく知りもしない聖女の真似事をしているだなんて、どこまで恥知らずなのかしら)
――みっともなくて可哀想なお姉様。
でも、わたくしの地位を脅かして後ろ足で泥をかけるような真似をするのはいただけないわね。だって、この国の一番はわたくしだと最初から最後まで決まっているんだもの。
(お灸を据えなければいけないわ。自由を得たお姫様の物語はおしまいよ)
扇子の影で口元を歪めるアクアマリン。
わざとパチンと大きな音を立てて扇子を閉じると、ざわついていた皆の目が一斉に注がれる。
「お父様。わたくしに妙案がございます」
「おまえが発言するとは珍しいな。申してみよ」
国王が促す。
「もうすぐラングレー側と約束した年に一度の聖女派遣です。その際にお姉さまを説得して共に帰国するのはどうでしょう。もともとはお姉さまが結婚するはずではなかったのですから、同額で買い戻すと言えばセオドア陛下も断る理由がありません。間違って売ったものを買い戻すのはベルハイムとして当然の権利です」
「おお、それは良い考えだ! おまえが迎えに行けばルビーも戻りやすいだろう。ラングレーなど聖女がいなくてもやってこれたんだ。そんなところに置いておくより祖国の窮状を助けるべきだからな」
臣下らも異議なしと口々に述べ、あっという間に話はまとまった。
アクアマリンは再び大きな扇子を開く。その陰で盛大に顔を歪めた。
(目立ちたがりなお姉様が悪いのよ。わたくしの管理下に置いて、いつまでもわたくしに尽くしてもらうんだから)




