No.30 死して命を救う者①
――十秒。
ぶしゅっ、と水音が連続する。
その音をすでに遠くなりつつある聴覚で辛うじて拾いつつ、クリストは血塗れの顔で苦笑した。
「はは……まったく。何やってんだか、俺」
もう力の入らない右腕でガリガリ、ガリガリと地面を傷付けながら剣を引きずり、ふらつきながらも一歩ずつ、輝く魔法陣を踏み付けるようにして進む。
体感にして、数分にも数時間にも感じる。
病魔に犯されているように全身が酷く熱い。それに、時々視界が霞む。体内を荒れ狂う魔力の奔流が内側から体内を破壊していくのも鮮明に感じ取れた。
――二十秒。
とんだ役回りだな、と自嘲気味に吐いた。
クリストの体は死ぬくらいの損壊なら問題ないとはいえ、なにも無制限というわけではないのだ。
「やべぇ……手足の感覚も消えてきてんじゃねぇか……。こりゃさすがに血を流しすぎたか……?」
まるで着の身着のまま極寒の雪原に放り出されたように、歯の根が噛み合わず膝も笑う。冷たい――いや、この体は冷たさに鈍くなって久しいから、寒いってヤツか?とノイズの混ざる脳みそで思考する。
心臓の鼓動はめちゃくちゃなリズムを刻んでいるし、肺が妙な痙攣を起こしているのか否応なしに呼吸が浅くなる。もしかしたら中で血管かなにか弾けたかもな、ともどこか他人事のように思った。
――三十秒。
と、無意識のうちに数えていた歩数が十五歩目に達したところで、クリストの手の届くもう少しの範囲へ二層目の魔法陣が来ていた。
足元に広がる黄金色の魔法陣、『魔力増幅陣』から常時莫大な魔力を供給されて成り立っている2層目の魔法陣。クリストがわざわざ自分のを呈してまでここまで来た理由が、そこにはある。
すなわち、その二層目の魔法陣とは、
「――解析不能」
クリストの第一階梯である魔力を可視化する『眼』とその脳内に眠る膨大な知識を持ってすれば、大抵の異能は看破できる。だがしかし、今現在目の前に広がる銀色の魔法陣は、その例外にあたる。
そこから導き出されるのは二つ。
『クリストが知らない未知の法則に従う異能』なのか、それとも『新たに創り出された既存の法則に従う異能』なのか。
だが、前者は無いだろうとクリストは事前に切り捨てていた。その理由は至極単純、クリストが未だに知らない異能は存在しないからだ。
とある事情から――その事情は本人ですら知りえないのだが、クリストは記憶喪失者である。そのポッカリと空いた記憶の穴を埋めるように、かつてのクリストはそれはもう狂ったように知識収集へ手を出していたことがあった。
来る日も来る日も、春も夏も秋も冬も、朝も昼も夜も。眠りを放棄して、食事を煩わしいと跳ね除け、片っ端から目に付いた本を読み漁って、得た知識をすぐさま極めるまで実践して――それが、何百年も続いた。
身を置いていた環境の影響もあっただろう。かつてクリストが居た場所には、”常世全ての知識が集う”と呼ばれる空間への扉があった。ゆえに、全てを失ったクリストがそこに惹かれたのも無理はあるまい。
常世全ての知識が集うなら、きっと自分に空いた穴を埋めてくれるモノもあるはず。何にも縋れなかった少年がとっさにそう考えてしまったとして、一体誰が責められようか。
その永劫にも思える時間と恵まれすぎていた環境は、全てを失い空っぽだった凡才の少年を、『凡才ながらに天才へと至った者』へと押し上げた。その過程にあった、死と血と挫折に彩られた苦悩の年月を踏み台にして。
――四十秒。
「魔法陣を、見るに……解除方法は用意されていない……。下手に手を出せば……ごぶっ、精神干渉中のソラミアまで……ぶっ壊れちまう可能性が高いな……」
せり上がってきた血塊を派手に吐き出して、クリストはそう答えを出した。だが、それはつまり、最初から正答が用意されていないテストのようなものだ。
――お手上げ。
――打つ手がない。
――手の施しようがない。
そう、誰もが思う答え。
だがしかし、クリストは血にまみれた凄惨な顔で不敵に笑う。上げる手も、打つ手も、施す手もないけれど。伸ばす手ならあるだろう、と――
「……正解が無い?ハッ、生憎だったな。……げほっ、こちとらハナから正々堂々正面からやり合う気なんざ……さらさらねぇんだよ……。求める物のためなら……なんだってやってやるって、そう決めたんだ……!」
――五十秒。
カチャリ、と音がした。
内側から弾けズタズタになった右腕が、それでも離さなかった紅黒の片刃剣の感触を確かめるように握り直した。そして、その腕がゆっくりと頭上へ掲げられる。
「さあ、行くぜ――吉を出してくれよ、俺の運!」
鼓舞するように叫んだクリスト――その頭上へ掲げられた剣の漆黒に塗れた刀身が陽炎のように揺らぐ。いや、違う。一極集中された膨大な量の魔力が漏れだし、周囲の空間を歪めているのだ。
その剣を、クリストは振るう。
空中に浮かぶ銀色の魔法陣を斬り裂いて床に突き立つ袈裟斬りが一閃。全身の損壊に加え大量出血もあって、その一撃はとても目の当てられない、それこそ剣の道をかじった物が見れば一様に嘲笑するであろう酷いもの。
だが、しかし、
その一撃が通り抜けた瞬間――その銀色の魔法陣が、硬質な音を立てて跡形もなく砕け散る。そして、遅れて地面に展開されていた『魔力増幅陣』の魔法陣も同じ末路を辿った。
正答がないなら、例外でねじ伏せるまで。それは、何百年の苦悩の末に凡才の天才が辿り着いた、法則の上に成り立つ全ての異能を撃滅する例外法則に支えられた渾身の一矢。
不完全で不格好で不自然、そして分不相応。
天才のステージへたどり着くために必死の思いで創り上げた、使う度に自分自身を傷つける”出来損ないの天才もどき”。
第二未満――『干渉分解』。
そのクリストの魔法が、ソラミアを戒めていた魔法陣から解放して見せたのだ。
それと同時に、クリストの左肩から胸にかけて一筋の赤い裂け目が開いたかと思うと、まだこんなに残っていたのかと驚くほどの血液が吹き出す。それはびちゃびちゃと床を濡らし、血溜まりを作っていく。
「が、ふぁ……やべ、力入んねぇ……」
砕けた金銀の破片が雪のように降り注ぐ中、クリストの体が血溜まりの上へ崩れ落ちる。明らかに致死量を超えた出血、弱まりつつある心臓の鼓動はもうすぐ止まる。
己の死を間近に感じながら、クリストはもぞもぞと自由にならない体を動かして頭を上げた。その金銀に煌めく雪の向こう、意識が覚醒する前兆として小さく可愛らしい呻きを上げた少女へ視線をやる。
「ははっ……どうよ……レイク。お前の娘……救ってやったぞぉ……?」
それを遺言とするかのように、がくりとクリストの体から力が抜けた。眼から生気が消えていき、命の鼓動が希薄になる。それは、紛うことなき死というものだった。
そして――六十秒。
少年の秒針が、転廻する。




