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第1話 戦略的撤退

 

 ふわふわと雲の中を漂っているような、そんな不思議な感覚がする。

 おじいさまたちが何か喋っている声が聞こえるが、まったく頭に入ってこない。

 先程まで広間を埋め尽くしていたはずの喧騒は一体、どこへ行ってしまったのか。


 俺は舞踏会の最中、自分の婚約者だと言われた少女から目が離せなくなっていた。

 アイリーンと名乗った、褐色の肌の九歳の女の子。

 豊かな黒髪は真っすぐ背中に伸びて、彫りの深い顔を彩っている。

 背は九歳にしては少し高いだろう。細いが病的と言うわけではなく、年頃の女の子らしい健康美に満ちていた。締まるところは引き締まった、スレンダーな身体という印象だ。


 顔はそう、美人には違いない。異国を思わせるエキゾチックな顔立ちだが、笑うと一気に幼くなって可愛くなる。

 俺に見つめられてはにかむようにアイリーンは、その緑の瞳を伏せた。

 ドキドキと心臓が早鐘のように鳴る。


 俺はどうしてしまったのか。

 足に根が生えたかのように、その場にただ立ち尽くしている。

 この世界に再び生を受けて、こんな風になった事は一度もない。旅の途中に領主たちを相手取った時も、盗賊団と戦った時も、俺はどんな奴だって臆さず対峙してきた。


 それがこんな、まさか。

 まさか、そんなはずがないんだ。

 何度も何度も頭の中で否定するが、状況が全てを物語っていた。

 俺が九歳の女の子に恋をするなんて。

 それは犯罪だ。

 以前、地球で、日本で三十歳半ばまで生きた男の常識がそう言う。


 だがどこか冷静な頭の隅で、俺は今更に納得していた。

 この世界で記憶が蘇ってからずっと、ルーカスは俺で、俺はルーカス自身でしかあり得なかった。

 だけど、たまに混乱するように大人の俺が前面に出て来たり、反対に子供っぽくなったりする時がある。


 その最たるものがこれだ。俺はなまじ前世の記憶があるから思考は大人だけど、心……感情面は年相応の六歳のままなのだ。多分。

 父と母が大好きで、甘えっ子で、年上の綺麗なお姉さんに恋をする。

 それは六歳の男の子としてはとても自然だ。


 遠く、前世の初恋の記憶が脳裏に蘇ってくる。

 年上を好きになるのは身体が変わっても同じなんだな。

 俺は俺ってことか。


 よし、何も今すぐ結婚するってわけじゃない。おじいさまたちも口約束とか言ってたしな。半分、冗談みたいなもんなんだろう。上手く行ったら儲けもの、的な。

 この世界は十五歳が成人だから、アイリーンが十五歳の時に俺は十二歳……それじゃあ、まだ犯罪臭がするから、俺が十五歳の時にアイリーンが十八歳。


 これだ!

 これくらいなら前世の俺にとっても、かろうじて犯罪ではない。

 いや、待て、俺。ちゃんと落ち着け。初対面の女の子相手に何を考えているんだ。まだ相当混乱しているようだ。


 とにかく早く何か答えなくちゃと思うが、焦れば焦るほど何も浮かんでこない。

 口を開こうとして、奥歯がカチカチと震えている事に気づいた。

 なっさけねーな、俺。

 ちょっとしっかりしろルーカスと、自分自身に活を入れる。


 こうなったらアレだ。アレしかない。

 その場しのぎにしかならないが。

 戦略的撤退だ。

 俺はまだ負けたわけじゃない。

 必ずこの戦線に帰ってくる。一時的に退却するだけだ。


 多分、笑顔は保てていると思うが、どんな顔をしているのかさっぱり分からないまま俺はジリジリと後ずさった。


「おじいさま、すみません。ちょっとお手洗いに……」


 こっそりと祖父だけに囁く。


「なんじゃ、ルーカスは。今からがいいところなのに……仕方ないな。早く行って来い」


 最低な理由でその場を辞してしまった。聞こえてないといいけど。

 向かうのはもちろんトイレではない。朝からあまり飲み食いしていないので、それはない。

 まだ皆の姿が見える場所ではゆっくりと、遠ざかってから猛ダッシュで中庭に走り出る。


 目指すは立食会場の中、一番美味しそうなものが置いてあるテーブルだ。

 お腹が減っているわけではない。

 さっきまでは減っていたが、今は妙な圧迫感に押し退けられてそれどころではない。


 俺がこの国でこんな顔を相談できる相手なんて限られているのだ。

 比較的、年が近くて友人になれそうだと思っている、はとこのマルティスの姿を探す。


 丸々と小太りの三兄弟(本当は四兄弟だが長男は広間にいる)の姿を探すんだ。どうせ揃って同じところにいる。その一番小さいのがマルティスだ。

 信じられないほど狭くなっている視野の中、やっとのことでマルティス……マルの姿を見つけて駆け寄る。


「マル、マルティス! どうしましょう! 僕は一体、どうしたらいいんですか!?」

「どうしたルーク、ちょっと早くないか……うぐっ!」


 最後のは俺に詰め寄られたマルティスが、襟を絞められて上げた呻き声だ。

 手に皿を持たせたまま、中庭の隅にマルを引っ張って行く。旅の間も鍛えていたからか、火事場のクソ力か、ぽっちゃり系のマルをまったく重く感じなかった。


「落ち着け、ルーク。放せ、放さないかっ、苦しい……っ!」


 やっとのことでマルは俺の手を振り払う。後で聞いたところによると、俺は血走った目をしていて相当怖かったそうだ。


「た、大変なんです! 僕に、僕に、こんにゃくしゃが!」

「だから落ち着けって。なんか訛ってるぞ?」


 それからの俺の説明は支離滅裂だったが、マルは何とか状況を把握してくれたようだ。

 肉が山盛りになっている皿を片手に、もう片方の手を目の上に当てて、広間の中を見通すように背伸びする。


「あぁ、アイリーンか。バルド様のとこの孫だったか……確かにおじいさまの性格だと、そう言う話が出てもおかしくないな」


 そうなんだ。

 まったく、お茶目なおじいさまだよ。

 呼び方をじーさんに格下げしてやろうかな。


「それで、僕はどうすれば?」


 ちょっと走っただけなのにやたら息苦しく感じる。俺は大きく息をついて、縋るようにマルを見つめた。


「どうって、嫌だったのか?」

「え、それは嫌とか、そんな事はないですけど……」


 俺が首の後ろに手を当てて気持ち悪く照れ始めたのを見て、勘のいいマルはハハーンと目を煌めかせた。弟がクラスメートの女の子と一緒に帰っているところを見かけた兄のように下世話な顔になっている。

 どれだけ経験があるのか知らないが、マルは得意満面、俺にアドバイスを始める。

 後で冷静になって考えたら、マルはどう考えても花より団子。経験なんてあるはずがない。


「嫌じゃないなら良かったじゃないか。アイリーンは美人だし、お淑やかで非の打ちどころのない貴族の娘だ。子息会ではけっこう狙ってる奴もいると思うぞ」


 なんだって。

 そりゃそうか。あれだけ可愛かったら懸想してる奴の一人や二人、いてもおかしくない。


 九歳と聞くと前世の感覚だと、言っても小学生でしょ、って感じだが、こっちの世界だと身体も精神年齢もかなり大きい。おおよそ中学生くらいの感覚だ。

 俺も六歳とは言え前世の日本人に例えると背丈は小学二~三年生くらいはある。

 こっちの世界の同年代の子と比べるとちょっと小さいが。それは今だけだ。多分。


 なんだかこの会場にいる同年代の男の子が全てライバルに見えてきてイライラする。

 だけどそうじゃない。

 そうじゃないんだ。


「けど、僕はまだ婚約とか考えられないんですよ。シアーズには来たばかりですし、いつ国に帰るとも知れないですし」

「ならルーカス、お前のすべき事はひとつだけだ。このままアイリーンを婚約者と認めたくないなら、広間に戻った後は無視しとけ」

「そんな! そんな可哀想な事できませんよ!!」


 無理やり祖父に王宮に連れて来られて。知らない他国の王子、しかも年下のチビの婚約者だと言われて。まさかその相手に無視されるだなんて!

 アイリーンの悲しそうな顔を想像するとジワッと涙が滲んでくる。



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