第15話 父はかく語りき(前編)
突然の雷雲は瞬く間に頭上に広がり、大粒の雨を降らせ始めた。
外套はもちろん雨除けの加工をしていたが、長旅の間に擦り切れて、あまり役に立っていない。
すでに下着までぐしょ濡れだ。バックパックの中身が無事な事を祈るしかない。
「おーい、ヒューゴ。聞こえてないのか!」
口の横に手を当てて大声で怒鳴るが、背の高い友人の軽快な声が返ってくる気配はなかった。
俺、フィリベルト・フルグラトスは北方の小国の王族の出だ。
ご大層な名前がついているが、平民出のひいじーさんが勝手に起こした国だ。王族なんて言っても大したもんじゃない。
旅の間はただのフィルで通していた。
小国の跡取りとしての生活に若い俺はうんざりしていた。
口煩い家庭教師のじーさんがいて、毎日毎日、こんな事も分からないのかと嫌味を言われる。
幸い、剣の腕だけはあって、長じてからは俺の相手ができるのは民兵の中で抜きん出ていたヒューゴくらいになった。
俺たちは年も近く気が合った。いつも城の広場で暗くなるまでアホみたいに打ち合いをしていた。
その内、こんな話になったのだ。
マーナガルム内ではもう俺たちに敵う奴はいない。
だが、広い世界ではどうなのか、と。
俺はワクワクした。マーナガルムの外なんて考えた事もなかった。この狭い国で生きて、死んでいくのだと諦めていた。
広い世界にはもっと冒険譚があるだろう。俺たちより強い奴もゴロゴロいるに違いない。
図体だけでかくても、子供だったんだろうな。
雪が溶けるとすぐ、俺たちは計画を実行した。
国境付近の叔父の館に遊びに行ったふりをして、薄暗い夜明けに抜け出し、隣国に向かって駆け出したのだ。
地面の上に国境なんてなかった。
まだ氷のように冷え切った川を夢中で渡り森の中に駆け込んだ時、寒さに震えながらヒューゴと顔を見合わせて大笑いした。
なんて簡単なんだ。
俺たちは一体、今まで何に縛られてきたのか。
旅の間、俺はひたすら自由だった。
楽しい日々だったな。
ほとんど金も持って来なかったので、最初の頃は森の獣を狩って食べていた。
どんな仕事でもした。その獣の皮や肉を売って軍資金にして。商隊の護衛をして次の街について。その街一番の腕自慢に挑んだりした。
居酒屋で飲み明かして。町のごろつきと喧嘩して身ぐるみ剥がされそうになった事もあった。盗賊退治もしたな。
俺たち二人は、赤き狼と金の獅子とか、恰好いい呼ばれ方をして行く先々で噂になりつつあった。吟遊詩人に、俺たちの事を語りたいと声をかけられたりもした。
異国の美姫との燃えるような恋も体験した。
遠く、海の見える港町にも行った。初めて見た海は信じられないくらい大きかった。俺は船ってもんに乗って、この先の大海に漕ぎ出してみたくて堪らなかった。
異国の人々は明るく逞しかった。たまには小狡い奴にも会ったが、そんな奴も毎日を必死に生きていた。
彼らの笑顔はマーナガルムの人々にも似ていて。
なんでだろうな。俺はその頃になると故郷の事ばかり考えるようになっていた。
王位など弟が継げばいいさ、なんて簡単に考えていたのに。
出向する船を見送っては溜め息をつく日々。
あの船に乗れば、きっともう国には帰れない。遠い異国での俺の冒険譚を、いつか父や弟たちは吟遊詩人から聞くだろうか。
俺の内心を知ってか知らずか、ヒューゴはあっさりしたものだった。
「さて、大陸の端も見たし、帰るか」
「は? もうか?」
「家に帰るまでが旅路、だろ」
大剣を背に負って、広い口でガハハと笑っている。
そう、ヒューゴの言う通りなんだろう。俺は城にいた頃は言いようのない閉塞感を感じていたが、何もかも放り出せるほど無責任にもなれなかった。
パンパンッとズボンの埃を払って立ち上がる。
後ろ髪を引かれる気持ちもないわけではなかったが、俺の冒険はここで終わりだ。
国に帰ってなお、父さんが許してくれたら自分の責務を果たすさ。
帰りは、どうせならまだ行った事のない東側を通ろうと言う話になった。
闘技場での俺たちの活躍を気に入ってくれた領主は、俺が北方の名も知らぬ小国の王子だと知ると驚いたが、気前よく通行証を発行してくれた。
そして俺たちはシアーズ公国を通り抜け、帰らずの森の付近へと差しかかっていた。
そうそう、シアーズ公国ではびっくりしたな。壁にかかった絵画かと思ったら、その少女がにこやかに口を開いたのだ。あんな絵から抜け出てきたような子は初めて見た。
病弱であまり外に出た事がないとかで、良く俺たちの冒険譚を聞きたいとねだられたっけ。
ヒューゴは、あれは絶対お前に気があるとからかってきたが、年が離れすぎているだろう。大体、もう会う事もないさ。
そんなわけで俺たちは国に帰るべく、テクテクと森の横を歩いてたわけだが、見込みが甘かった。
「腹減ったな……」
「あぁ、減ったな……」
口数も少なく呟き合う。
帰らずの森の近くには街がないと聞いてはいたのだが、こんなに民家のひとつもないとは思わなかった。
運悪くサラクレート方面に向かう行商人がいなかったので二人だけで出発したのだが、こんな事になるなら商隊に出会うまで待っていれば良かった。
俺たちの用意した食料は残り少なく、毎日、少しばかりの干し肉と、小麦や木の実を固めた携帯食を食べるのみだった。
「真横に森だぞ、森。食べ物は幾らでもあるだろうに」
「ヒューゴ、さすがにそれは」
「あぁ、言うな。俺だってそのくらいは分かってる」
今もまだ、神が残ると言われる帰らずの森。
あまり神なんて信じてなかった俺とヒューゴだが、旅の間に神子と呼ばれる不思議な青年にも出会った。
彼が薬草集めで山に入った際、その地の守護獣とも思えるほどの大きな猪に追いかけられているところを助けたのだ。
あんなに大きな猪は見たことなくて正直、ビビったな。
木を薙ぎ倒しながら向かってくる姿なんて、まさに神の使役する神獣と言われても信じそうだった。どうしても殺したくなくて、諦めて山に帰るよう手加減するのに苦心した。
その時に負った傷を治してくれたのも、その青年だった。
年の頃はまだ十五歳にもなっていないくらいだったろう。俺たちに症状を聞きもせずテキパキと、外れた肩を嵌めたり、傷に薬草を貼ってくれた。
その御業はまさしく神の手と呼ぶに相応しく。
翌日にはもう痛みもしない肩に驚いて、グルグル回してまた痛めそうになって、怒られたのもいい思い出だ。
青年は小さな村の自分の家を、ほとんど温室のように、至るところで薬草を育てていた。
そして、家に泊めて貰った翌朝に俺たちは見たのだ。
まだ日も明けやらぬ早朝に、人に向かって話しかけるように薬草鉢に話かける彼が、月の光でも日の光でもない淡い輝きに照らされているのを。
俺たちに気づいたためか、ふわりと立ち消える女神の姿が見えたような気がした。
青年は自分では気づいていないのか振り向くと、薬草に話しかけているなんて恥ずかしいから黙っていてくださいねと笑った。
そんなわけで今ではヒューゴも俺も神を信じている。
神はいる。
俺たちの勝手で神域を汚すわけにはいかない。
どうして神が消えてしまったのか、一部の人にだけ力を分け与えるのか、凡人の俺には分からないが、愚かな行為で神を怒らせたくなかった。
今まで俺たちを助けてくれた、たくさんの人のためにも。
「いっそ引き返すか?」
「いや、もう半分以上は来たはずだ。先に進んだ方が早い」
どうせお互い気心は知れている。短い会話だけで頷き合って、俺たちは黙々と歩き続けた。
悪い事は続くもので、遠くにゴロゴロと真っ黒な雷雲が近づいてくるのが見えた。
そうこう言っている内に、土砂降りの雨が俺たちを襲った。
マントのフードを深く下ろすが、ほとんど役に立たない。もはや数丈先も見えず、泥水に塗れた道は川に近かった。
「おい、フィル」
ヒューゴが親指で肩越しに森の方を指さす。
俺は一度は首を振ったが、続く言葉に説き伏せられた。
「中に入るわけじゃない。ちょっと森の端で雨宿りするだけだ。森の恵みを荒らすわけでもないし、それくらいお目こぼしいただけるさ」
森の中に駆け込んだ俺たちはマントを固く絞って水を出したが、絞っても絞っても続く雨にその内、諦めた。
「いつまで続くんだ、これ」
「さぁな」
「留まっていても仕方ないし、先に進むか。左に道が見えてたら大丈夫だろ」
きっと俺たちは強い雨に打たれて疲れて、空腹で判断能力を失くしていたんだ。
時折、煌めく雷鳴に照らされながら、下草で歩きづらい森を進む。
高い木立の連なる森は昼でも薄暗く、それに雨雲が拍車をかけていた。
重なる葉が少しは遮ってくれるが、身体をぐっしょりと濡らすほどには雨が降り続く。
深くフードを被って下を向いて歩く俺は、やがてとんでもない事態に気づいた。
いつの間にかヒューゴがいないし、左手に道も見えない。
「おーい、ヒューゴー!!」
まだそんなに離れていないはずだ。声を限りに怒鳴るが、雨音にかき消されたのか答える声はなかった。
俺の叫び声は木立に消えた。
左だ。左側が道のはずだ。
ひたすらに進むが、いつまでたっても森が終わる気配はなかった。
「なんてことだ」
あぁ、悪友の口車になんか乗るもんじゃない。
俺は足を踏み入れれば戻る事ができないと言われている帰らずの森で迷子になってしまった。




