第32話 ある雪の日
それから俺の毎日は多忙を極めた。
朝起きたら筋トレとランニング。少ない時間でガツガツと朝ご飯を食べる。
すぐにやってくるエラムを迎えて昼までは座学。普通の人は昼食なんて食べないが、とてもじゃないがもたないので合間に軽食をつまませてもらう。昼からはマナーの授業か剣の稽古。
マナーって言っても、これがまた体力を使うんだぞ。正しい歩き方や、お辞儀の仕方、はてはダンスまであるんだからな。
「はい、ルーカス殿下。顎を引いて、背筋を伸ばして……なかなかいい姿勢ですよ。そのままの姿勢で踊るのです」
「ちょ、ちょっと……動けないです……」
「できる、できないではなくて、やるのです」
ニッコリとマナーの先生が微笑む。
だからどうして、俺の教師陣はこんなドSばっかりなんだ。
もちろんヒューゴさんが来ない日だろうが、午後のランニングもさぼらない。
さぼったらすぐに分かるらしく、次の稽古でねちねちと苛められるのだ。
前世では何でも三日坊主だった俺だが、継続は力なりとは良く言ったものだ。
一週間もすると走っただけで息が上がるような事はなくなり、その内に走れる距離も伸びて、身体つきもしっかりしてきた。
「ほら、すぐ剣の動きに気を取られる! 全体を見ろって言ってるだろ。さっきから何回死んでんだ、お前!」
案の定、ヒューゴ先生の稽古はスパルタだった。
傭兵の戦い方はなりふり構わない。目潰し、蹴りに噛みつき、金的狙いなどなど、なんでもありだ。
正直、剣同士で戦うなんて最後の手段で、闇討ちや寝込みを襲っても卑怯でも何でもないらしい。
ただし俺は自分の身も守れないと意味がないと、剣技もみっちり仕込まれた。
おかげで擦り傷の絶えない日々だ。
たまの自由時間もオレイン先生と畑で実験を進めたり、エラムに街の様子を聞いて問題点を改善したりと息をつく暇もない。
その合間に母様に会いに行ったり、父様の相手をしたり。
あぁ、アルトゥールにはぜんぜん会えてないなぁ。
そうそう、乗馬の練習も始まっている。この国では、子供はポニーからとかそんなことはまったくなくて、普通にでかい馬に乗る。
日本でお馴染みのサラブレッドより、遥かに大きい馬だ。あんまり馬は見たことがないが、絶対でかい。
いわゆる軍馬だ。
「うわあぁぁ、絶対落ちる、落ちるって!」
「殿下、背筋を伸ばして!」
「むりむり、無理ですー!」
「怖がっているから馬に舐められるんです!!」
馬丁が必死に乗り方を教えてくれようとするが、散々なものだった。俺は乗馬も才能がないようだ。
また騎士団の奴らに小馬鹿にできるネタを与えてしまったぜ。
しかし、そんなこんなでも一応、馬には乗れるようになったのだ。乗っているのか、乗せて貰っているのか分からない状況ではあるが。
馬に乗り始めてしばらくは足腰がガクガクで歩くのもガニ股になってしまったので、ちょっとは身体を鍛え始めていて助かった。
たまに母様が、おつきの人がさした日傘の影の中から俺の様子を見学することもあった。
「何だか最近、逞しくなってきて。ほんとに男の子だったのねぇ」
俺を眩しそうに見つめて、母はそんな感想をもらした。
それは一体、どういう意味なのか小一時間問い詰めたくもあったが、引きつった笑いを浮かべるに留めておいた。
そうしてマーナガルムの短い夏は過ぎ去り、秋が来て、秋祭りが終われば空は雪の匂いをはらんでくる。
北国の長い冬の始まりだ。
冬も本番になるとドカ雪は街を白く染め、人々は雪かきにせいを出す。
俺もわらじを履いて外を歩いてみたが、これがめちゃくちゃ具合いいんだよな。雪の上で滑らないし、暖かいし。
最近では編み方も進化してきて、色つきのものもあったり、遠目にはちょっとお洒落なスノーブーツに見えなくもない。
作って貰ったばかりの真新しい、白い毛で縁取られた青地のコートもとてもふわふわで暖かい。
俺はご機嫌で雪の上を走り回っていた。
前世でも体格のおかげか冬は苦手ではなかったが、この小さな身体も北国にすっかり馴染んで、噂に聞いていた北海道の人みたいに寒さに強くなっている。
「ルーカス様が考えて下さったこれ、めっちゃ便利ですよ!」
門の近くで兵士たちがスコップや雪かきの道具を持って大きく振っている。
そう、この世界、雪かき専用の道具もなかったのだ。
何で雪かきをしていたかというと、船底を横に半分に割ったような形の木の板だ。それをただ単に直接、手で持って雪を掘っていたのだ。持ち手も何もない。
なぜ農具の鋤とかあるのに、それを雪かきに使おうっていう発想が出てこなかったんだろう?
だからスコップや、テレビで見た事のあったスノーダンプを職人に作って貰って兵士たちに配ると、さっそく使い始めた彼らは泣いて喜んだ。
鍛冶師も俺の無茶ぶりにはもう慣れたものだ。
俺の隣には久しぶりに自由時間を取れたアルトゥールがいて、一緒にわらじの履き心地を試している。キュッキュッと雪を踏みしめて、興味津々だ。
「な、なんだか感触がふわふわしてて落ち着かないけど、これは機能的だね」
「まぁ、実はブーツが買える層にはあまり意味がないんですけどね。材料費がタダで自分で作ろうと思ったら作れるので貧しい人向けにと思ったんですが……なんだか国中で流行っちゃって、反対にわらが足りなくなってるっていう本末転倒ですよ」
「中流階級以上には購入の制限を出しておけば良かったね」
「発案者不明ってことで情報を流しちゃいましたからね……そうだ、今からでも兄上が考えたことにします?」
「だからそれは無理があるでしょって!」
懲りない俺の態度に、呆れてアルトゥールは声を張り上げる。
「ルーカスは僕を弟の手柄を取り上げる、悪辣な王子にしたいのかな!?」
腰に手を当てて目くじらを立てられ、俺は雪の中をえっちらおっちらと逃げ出した。背後から雪の玉が迫ってきて、俺の後頭部に当たって砕ける。
「やりましたねっ!」
俺は走りながら雪をすくい上げると、ほとんど固めていないそれをアルトゥールに向かって投げつけた。
「そっちこそ!」
中庭に二人分の笑い声がこだまする。
相変わらず俺たちが二人で遊んでいる時は、ほとんど誰も近寄ってこない。腫れ物に触らないように、アルトゥールのおつきも、俺の方も見て見ぬふりをしているのだ。
しかし今日は、そんな派閥とは間違いなく関係のない人物が現れた。
「お前ら、二人だけで楽しそうなことしてるじゃないか!」
「父様!」
「父上……」
渡り廊下で無駄に偉そうに胸を張っている父。
相変わらず唐突な登場だ。
「俺も混ぜろよ」
父様は腕まくりをして俺たちの方に寄って来ようとしたが、背後から一人の男に呼び止められた。
「まぁ、待てよ、フィル。お前がどっちに味方しても角が立つだろ?」
今日も今日とて、剃り残しのある顔でニヤニヤと笑っている義足の大男、ヒューゴさんだ。
若かりし頃、一緒に武者修行の旅をしていたとかで、この二人はかなり仲がいい。類友だな。
今も、中年男二人で何の悪さをしていたんだか。
後ろから父の襟を掴んで引き止めたヒューゴ先生は、俺たち二人に向かってニヤッとウィンクしてきた。
なーる。そういうことね。
「というわけで、どうしたらいいか分かってるな、王子様方!」
「え? え?」
「さぁ、いきますよ、兄上!!」
戸惑いを隠せない父と兄を置き去りに、俺は手の中の雪玉を大きく振りかぶった。その瞬間にヒューゴさんはちゃっかりと父の背中に隠れる。
狙いたがわず、俺が投げた雪玉は父の顔をべちゃっと白く染め上げた。
「ル~カス~?」
「わぁ、兄上、助けてー!」
父に狙われて、笑いながら兄の後ろに駆け込む。
「え、あ、ルーカス? え、え?」
生真面目な兄は事態についていけておらず、まだ俺と父を見比べている。そこに父の投げた雪玉が当たって、初めて状況を理解したようだ。
ユラリと、アルトゥールから不穏な気配が立ち上る。
「父上? 息子に当てられたからって、大人げないですよ?」
アルトゥールは俺には向けたこともない寒々とした視線で父を射た。
ヒィッと父が竦み上がる。
どうやら、城で一番怒らせてはいけないのはアルトゥールのようだ。
そんな中、俺は空気も読まずにせっせと雪玉を作って兄に手渡した。
「さ、兄上、どうぞ」
渡された雪玉を、兄は頭より上に振りかぶる。
「ま、待て。話せば分かる!」
「問答無用!」
二人の集中砲火を浴びて、父は全身、真っ白なスノーマンのようになってしまった。ブハッと雪を払って白い息をついている。
「こーいーつーらー!」
「きゃー、父様に襲われる!」
「逃げろ、ルーカス!」
俺たち二人は父に追いかけられ、キャハハハと笑いながら雪の上を走り回った。
「二人がかりとか卑怯だぞ!」
「ハンデですよ、ハンデ」
「っていうか、ヒューゴ、お前も加勢しろ!」
「いやー、冬は足が痛むんで、無理ですわ、陛下」
ヒューゴさんはと見ると、廊下の壁に寄りかかって、どこから取り出したのか薄い筒型のスキレットを煽っている。あの中、絶対酒だ、酒。
最終的に俺たちは二人とも父に捕まり、グルグルと振り回されて雪の上に放り投げられる事となった。
外壁の前に纏められた雪の山に腰かけて、俺もアルトゥールも息を上げたまま、顔を見合わせて笑い合った。
もう一度、子供時代を過ごすってのも、こういう時は悪くない。
頭上を見上げると窓から母様が、凄く羨ましそうな顔をして口を尖らせて俺たちを見下ろしていたので、軽く手を振った。
後で小さい雪だるまでも作って見せに行こうかな。
遠く、西の塔の上にツツェーリア妃の姿が見えたような気もするが、気のせいかも知れなかった。
そしてこれが俺の、家族全員で過ごした少年時代の最後の思い出になった。




