第5話 ドンチャン騒ぎ
そんな感じでさっぱりした俺たちは、少し早いが宿の食堂へ向かった。
店内に足を踏み入れると、むわっと汗臭い匂いが押し寄せてくる。丁度、商隊が帰ってきたところだったのか、鎖帷子などを着込んで腰に剣を下げたむさ苦しい男の人たちが大量に席を占拠していた。
うわー。どこを見てもおっさん、おっさん、おっさんのオンパレードだ。
彼らは商隊に雇われていた護衛らしかった。長旅から帰って来たのだろう。どの席でも杯を打ちつけ、ご機嫌で中身を煽っている。
「混んでてごめんね。そこの隅にでも座っておくれ」
俺たちの姿を認めたおかみさんが男たちの間を縫うようにしてやって来て、店の隅の席を空けてくれた。
「晩御飯は何にするね。春祭りに向けて牛を一頭潰したから、ステーキもウインナーもあるよ。そこまで金がなけりゃ、豚のハムでも焼こうかね?」
「スー、牛って食べた事ない!」
スーの瞳はキラリンと光った。そうですね。森には牛はいなかったからね。
あぁ、我が家のエンゲル係数はうなぎ昇りだ。
「じゃ、じゃぁ、牛のステーキとウインナーを一皿ずつ……」
こんな大盤振る舞いは今日だけだからな! スーの言う通りに何でもホイホイ頼んでたら、すぐに破産するわ。
無邪気なスーの笑顔と、俺の渋面を見て取ったおかみさんはアハハと大きな声で笑った。
「それならとびきり大きいとこを焼いてもらうよう言っとくよ」
お気遣いありがとうございます。
俺たちは二人とも酒なんて飲めないから、食事が出て来るまで水をチビチビと飲みながら周囲の様子を眺めていた。
まだ日も高いと言うのにおっさんたちは上機嫌で、飲めや歌えの大騒ぎだった。
あちこちから何度目か分からない乾杯の音頭が聞こえてくる。
すでに顔を真っ赤にして、できあがっている人もいる。
「人間って随分、煩いんだね」
人狼のスーは耳がいいからか、大声の人たちを横目で眺めて面白くなさそうに目を眇めた。
「これはたまたまだと思うよ。スーだって長い旅の後で森に帰れたら嬉しくなるでしょ」
「そうかもね」
あまり興味なさそうに答えて、スーは上の空だった。もうすぐ運ばれて来る牛のお肉に思いを馳せているに違いない。
朝のモツ煮が美味しかったから晩ご飯も期待大だな。せっかく張り込んだんだから俺もスーに負けないように食べるぞ!
俺たちが周囲を窺っていたのと同時に、向こうも俺たちをそれとなく観察していたようだ。チラチラと視線を向けてくる人たちもいる。
中でも若くて血気盛んそうな一団が酒の勢いを借りてか、こちらに向かって来る。
「お姉さん、ここらじゃ見ない顔だけど美人じゃん。こっち来てお酌してよー。酒くらい奢るよ?」
ヘラヘラ笑って話しかけてくるが、スーはまるきり無視。というか人間との交流が少ないので、自分が話しかけられていることにすら気づいていないみたいだ。
男たちはムッとしてスーの腕を掴もうとした。
バカ、やめろ! 命が惜しくないのか。
男たちの手が自分に触れそうになった瞬間にスーの髪が逆立って、喉からゥーッと小さな唸り声が上がりかける。
俺は慌ててガタンと椅子を立ち上がった。
男たちの視線が俺へと突き刺さる。
「あ、あの、姉は朴念仁でこういうお誘いに慣れていないのです。もし良かったら、私が歌をうたいます!」
両の拳を握りしめて、俺は力を込めて訴えた。
酔っぱらっている若い男たちは、ふーんと首を傾げて、すでにスーの態度のことは忘れてしまった様子だ。それを見てスーも浮かせかけていた腰を椅子に戻した。
最悪の展開は防げたようだ。こっそり、安堵の溜め息をつく。
後ろのおっさんたちが俺の言葉を聞いて、いいぞー、嬢ちゃん、歌えうたえー、とか煽ってくる。
思わず口にしてしまったが、俺は歌にはまるきり自信がない。
父譲りの酷い音痴だ。
場を白けさせてしまったらどうしよう。
頭が真っ白になって口を開けないでいると、不意に、頭に被っているカツラが顔の横でふわりと揺れたような気がした。
室内のはずなのに、背後から優しい掌のような風が俺の頬を撫でる。
『いいわ。私が助けてあげる。貴方は何も考えずに歌って』
まさか。この声は……。
俺にしか聞こえてないらしき声の主を後ろに、俺はゆっくりと目を瞑った。
歌と音楽を司る、楽神エントール。それは俺の母の出身国であるシアーズ公国を含む山岳連合が信仰する風の女神だった。
もしや女神その人が、俺の元に訪れていると言うのか?
黒き魔物に襲われた時に現れた愛の女神セレスティン。死にかけていた俺を癒した医神ウレイキスに続いて、三柱目の神の出現だ。
本来であれば魔法も神の力も失われたはずの世界で有り得ない確率なのだろうが、俺は不思議と落ち着いていた。
ここで俺の歌が受け入れられるのが、神が力を貸す程、大切な事なんだろうか?
奇妙な程、冷静に考えながら口を開く。
何を歌おうなんて考えていたわけではなかった。
だけどハンカチを入れている胸ポケットの部分に、ぽぅっとした温かさを感じて。
俺の脳裏にはいつしか、この辺りに伝わる民謡が浮かんでいた。
「♪~遥けき山を越えて、歌声は渡っていく。どこまでも。
瞳を閉じると目に浮かぶ、故郷への家路。明かりの灯る窓辺。
私を待っている父さんと母さんの元へ、今すぐに走って行きたい……」
俺の声が響くなり、店内はシンと静まり返った。
今まで騒いでいたおっさんたちも、いきり立っていた若い連中も、おかみさんも、厨房の親父さんも、口を噤んで固まったように俺を見つめている。
その歌は、故郷への思いを歌ったものだった。俺の心そのものだったから、感情を込める必要すらなかった。
朗々と歌声が店内に響き渡る。
とてもじゃないが俺の声とは思えない。まさに女神に愛された風の神子の歌声に等しかった。
次第に、そこかしこからグスッと涙を拭うような音が聞こえ始める。
俺の歌が終わっても、誰も口を開かなかった。こんな人数がいるとは思えない程、静寂に包まれている。
「……もう娘とは一年くらい会ってないんだ」
誰かがポツリと呟いた声が、やけに大きく店内に響いた。
「俺もだ。随分、大きくなっただろうな」
「なんかずっと帰ってなかったけど、両親に顔を見せに行きたくなったよ」
ポツポツと、皆が語り始める。
もう大丈夫ね、と言うようにツンと俺の頬を突いて、風が去って行く。
俺は店内の人々の顔を見回して、ニッコリと笑顔を浮かべた。
「なんだかしんみりさせてしまいましたね。すみません。今度は陽気な歌にしましょうか」
おっさんたちの顔がパァーッと明るくなっていく。
「いいぞ、いいぞー!」
「おい、誰か楽器持って来い」
「親父ぃ、酒、どんどん追加だ!」
それから店内は異様な盛り上がりを見せ、陽が暮れるまで飲めや歌えの酒盛りが続いた。
スーはと言うと、肉がなかなか出てこないのでしばらくムスーッとむくれて面白くなさそうに俺たちを眺めていたが、おかみさんが、
「いい歌聞かせて貰ったからね。これはサービスだよ」
と、ドンドンドーンとテーブルに料理を並べると、途端に機嫌を直してガツガツと食事を貪り始めた。
「お、姉さん、いい食べっぷりだね」
「こっちの飯も食べなよ」
それから色々な席に呼ばれて、最後には酒も飲んでいないのに皆の中心で人一倍、騒いだり踊ったりしていたくらいだ。
悪ノリしたおっさんが、俺を抱き上げてテーブルの上に乗せる。
誰かがリュートなんか弾き出して、俺の下手くそな踊りはおっさんたちの大爆笑を誘った。あちこちから調子っぱずれな合唱が聞こえるが、誰も音程なんて気にしていない。
その日はいつまでも陽気な音楽と歌と笑い声が、宿の食堂から響き渡っていた。




