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第33話 罠

 

 俺を逃した事に気づいた熊が怒り狂って、一直線に俺たちを追って来る。


『ウオォーン!』


 サンの声が森を割り、俺たちの前にはまっすぐに道ができた。

 若い狼が通り抜けるとすぐに森は何事もなかったかのように道を閉じ、元に戻る。

 しかし熊も障害物など何もないかのように、するすると俺たちの後ろを追いすがってくる。


 同じ森に住む神獣の一族同士。その能力はほとんど同格だと思った方がいい。

 向こうが誇るのは巨体と暴力的なまでのその力。対して、狼族は機動力とチームワークだ。そこに俺の知恵を足す。

 足手纏いがいたから負けたなんて言わせるもんか!


「イー! アル!」


 まずは適度に頭に血を上らせないとな。イーとアルが格下の獲物にするように左右から熊を追い立てる。

 熊は鬱陶しそうに何度か腕や首を振るったが、それに掴まるような狼たちではない。


 アルなんか、たまに後ろから熊に飛び乗って牙を立てようとしているくらいだ。

 分厚い毛に阻まれて、あまり上手くいっていなかったが。


 辺りに熊の茶色い毛が飛び散る。

 アルの鼻づらを熊の爪が掠める。彼は大慌てで兄のイーと同じ位置まで戻った。


『おのれ、ちょこまかと煩い子鼠たちめが!』


 熊が足を止めて、イーとアルに向き直る。

 サンの首の毛を握ってその様子を振り返った俺は、嫌な予感に大声を上げた。


「イー、アルッ! 避けろッ!!」


 熊が片足を上げてドスンと地面に振り下ろす。そこから二匹に向かってメキメキと、地面を伝って衝撃破のようなものが走る。

 しかし俺の声の方が一瞬、早かったようだ。イーとアルはその場から反射的に身を引いていた。


 地面を切り裂き、木にぶち当たった衝撃は、人の手つかずのこの森の巨木を折り砕いた。

 ズズーンと土煙を上げて、二本の木が森の中に倒れていく。

 あれはやばい。当たればただじゃ済まないぞ。

 イーとアルを逃した熊はギリッと奥歯を噛んで俺を睨みつけてきた。


「ハ――ッ!」


 そこへ、いつの間に木の上に登っていたのか、スーがクルクルと回転しながら頭上から飛び降りてきた。熊の頭に蹴りを入れようとする。

 熊はなんなくスーの足を捕えて、その身体を宙づりにした。


「スー!」


 俺は血相を変えて、スーを助け出そうとサンの方向を転換させようとするが、他の兄弟は慌てていなかった。

 スーは片足を掴まれて逆さまにされたまま身を縮めると、勢いよく熊の額に向かって頭突きをした。


「いったぁ~!」


 声を上げたのはスーの方だったが、熊とてノーダメージと言うわけではなかったようだ。

 ヨロリと手の力が緩んだその隙を逃さず、スーは熊の身体を蹴って地面へとスタッと降り立った。


「スーのおでこに勝てる奴がいるなんて……」


 アホな事を言いながらサスサスと赤くなった額を擦っている。

 どれだけ石頭に自信があったんだ。


『貴様らぁ! 二度も三度も我を虚仮にしおってぇ!!』

「お前の相手は俺だろ! 浮気するんじゃねーよ!」


 熊の注意がスーに向かいそうだったので、間に入って鼻先で手製の槍を振るう。

 すぐに燃えるような熊の一つ目が俺とサンの姿を捉えた。


「スー、ここはいいから先に向かってろ!」

「分かった! ルー、後でね!」


 スーが白い髪をなびかせて森の奥へと走って行く。


『そこまで言うなら良かろう。お前から血祭に上げてやろう』


 熊の巨体が俺たち目がけて突進して来る。


「サンッ、行けッ! 走れ!!」


 ここで俺が出来る事など、熊を引きつける以外に何もない。全てサンの脚力に賭けるしかない。

 本当は兄弟の中で一番身体が大きいのも、足が速いのも長兄のイーだ。


 サンはいつも無口でおっとりしている。こんな戦いには向いていないんじゃないかと思うくらいだ。

 だが、熊を攪乱するのに俊敏なイーとアルの機動力が必要だった。

 消去法で俺はサンに乗らざるを得なかったのだ。


「熊は俺を狙ってやって来る。俺を乗せるって事は熊に追いかけられるって事だ。下手したら大怪我するかも知れないのに、いいのか?」


 作戦を話した時も、サンはのどかな感じだった。


『いいよぉ。僕はお兄ちゃんだからねぇ。ルーを乗せて走るよぉ』


 そう言って、のそっと俺に鼻面を押しつけてきて甘えてきたくらいだ。

 どっちが弟か分かんないよな、とか思いながら俺はサンの顔を撫でていたのだった。


 けれど、俺を乗せたサンはいつもの穏やかな三男坊ではなかった。

 目を煌々と光らせ、上唇を捲り上げて、一心不乱に先へ先へと進む。足や掌に当たる隆起した筋肉が、サンの全力を告げていた。


 俺と言うお荷物を背に乗せたまま、サンは追いすがる暴風のような熊を寄せつけないほど速く駆けた。

 耳元で風が唸り声を上げる。

 俺はサンの背にぴったりと身を寄せて、振り落とされないようにしがみつくだけで精一杯だった。


『よーし、サン、ルー、よくやった』


 イーの声に顔を上げて見ると、そこは俺たちが予定していた決戦会場……俺が落とし穴を掘った場所のすぐ近くだった。

 怒り狂った熊はいい具合に頭に血を上らせて俺たちの後ろをピタリとついて来ている。

 俺とサンから目を逸らさせるべく、左右に散ったイーとアルが木の幹を使って三角飛びをして、両側から熊へと踊りかかる。


 煩わしいコバエを追い払うかのように、熊が足を止めて、二匹に腕を振るう。

 茶色の毛と銀の毛がそれぞれ、風に乗って飛び散る。

 その隙にサンは落とし穴を迂回して、先へと向かった。

 全力疾走で駆けて来たので、サンはゼェゼェと息を上げている。労わるようにスルリと首筋を撫でて、俺はサンの背から飛び降りた。


『小僧おぉぉ――!! どこへ行った!!』


 怒気を漲らせて巨熊が咆哮する。


「俺はここだ」


 粗末な槍を手に、俺は木の陰から進み出て落とし穴の前で足を止めた。

 ドクン、ドクン、と心臓が跳ねている。

 お願いだ、引っかかってくれ。

 祈るような気持ちで前を向く。


『ほう、ここがお前が死に場所と決めたところか』


 興味深そうに後ろ足で立ち上がった熊がグルリと周囲を見回す。怒り心頭のように見せかけて、熊は俺たちが誘導していた事になど、とっくに気づいていたのだろう。

 俺の前の地面がちょうど、自分の大きさくらいに色が変わっているのを見て、目を細める。


『これはこれは、なにやら小賢しい仕掛けを考えたようだな?』

「俺は非力だからな。考えぐらい巡らすさ」


 一歩、熊が余裕の表情で俺へと近づいて来る。そして、もう一歩。


『だがそれも、愚か者の考えだったようだな』

「さぁ、どうだろうな?」


 俺は強いて平静を装って、ニヤリと口の端を上げる。

 熊は落とし穴が俺の奥の手だと思って油断し切っている。この穴を飛び越えれば俺まで一直線だと思って。

 地面を蹴って跳躍しようと、更にもう一歩、足を踏み出す。


『そのとぼけた面をねじ切ってや……っ、な、なんだ?』

「スー、今だ!!」


 落とし穴の直前で、熊は見事に俺の仕掛けた罠にかかった。

 足の先がはまる程の、ほんの小さなくぼみ。

 そこを踏み抜いて、わずかに身体をよろめかせたのだ。


 そこは俺が一週間前、一番最初に掘った穴だった。

 注意深く土を戻して草も生やしておいたので、一週間も経てばほとんど周囲と同化している。

 よくよく見なければ穴があるとは分からないほどだ。


 これだけ大きな落とし穴があれば、目の前の小さなくぼみになんて目が行かないだろ。

 それだけのために、俺はこの大きな落とし穴を一週間もかけて掘ったんだ。

 その一瞬、たった一瞬で良かった。


 俺が声をかけるまでもなく、スーは巨木に仕掛けた丸太の縄を切っていた。

 振り子の原理で勢いのついた丸太は、その上に乗ったスーもろとも俺の頭上を通り抜け、熊へと突っ込んで行った。

 何度も実験して、高さを確かめたんだ。

 狙いはドンピシャだぜ。


「どーんといっちゃえー!」


 その上に乗ったスーの気の抜けるような掛け声とともに、俺たちでやっと持ち上げられる大きさの丸太は熊の顎をぶち抜いた。

 どんな動物だって脳みそがある以上、そこは鍛えられない急所のはずだった。


『グ……お、お……』


 何が起こったのか分からないと言うように熊はグルグルと目を回した。

 何とかその場に踏み留まろうとするが、脳震盪を起こしているのだ。

 鍛え上げた格闘家にだって、それは無理だ。

 ドシンと尻もちをつくように後ろに倒れ込む。


 俺は急いで落とし穴を回り込んで駆け寄った。

 熊の肩を片足で踏んで、その喉元に槍を突きつける。

 後ろでまだ揺れている丸太からスーがピョンと飛び降りた音が聞こえた。


「勝負はついた! 負けを認めろ!」


 まだ焦点の定まらぬ目ながらも、熊はグルグルと唸りながら口から泡を飛ばした。


『負けだと? その針のように小さき刃で、我に傷ひとつでもつけられると思っているのかッ!』

「これ以上、無駄に争う必要はない! お前も名のある一族の長なら潔く認めて身を引け!」

『矮小な人の身で何をほざく! あの犬っころめが何を言っても我は認めぬぞ! 貴様など、我が腕を一振りすれば腕も足も千切れる、か弱き人間ではないか!』


 こんなに体格の違う俺たちに翻弄されて、手も足も出ずにひっくり返っているのはどっちだ!

 これ以上、俺たちが争う必要なんてない。

 俺たちが命の取り合いをする理由なんてどこにもないんだ。


 負けを認めてさえくれれば、俺たちが傷つく事も、俺が傷つける事もなくなるのに!

 神獣の一族の長だと言うからもう少し骨のある奴かと思ったが、話も通じないなんて。

 段々苛々してきて俺は、槍を持つ手にグッと力を込め、目を見開いて熊を見下ろした。


「ならやってみろよ。手足がもがれようが、首だけになろうが、お前のその喉、掻き切ってやるよ」


 どちらも一歩も引かず、ギリギリと目力だけで睨み合う。

 先に力を抜いたのは熊の方だった。

 四肢をバーンッと地面に放り出す。

 どうしたのかと思って眉を寄せていると、アッハッハッハと大きな笑い声が耳を打った。


『なかなかどうして、人間にしてはやるじゃないか。認めよう。我の負けだ。正直、どうしてだか分からんが、実は立てん』


 な、なんだよ……やっぱり丸太のダメージは効いてたのかよ。

 俺に怒鳴ってたのは、ただのはったりだったのか。今更に力が抜けてくる。

 地面に槍を立てると、それを支柱に俺もズルズルとしゃがみ込んでしまった。


『なんだ、今日の立役者が。みっともない』


 熊が目だけを俺に向けてきて文句を言う。

 そうは言いましてもね。こっちは本気で殺されるかと思ってたんだから、気が抜けて当然だよ。


『我を地面に打ち倒した者など、あの犬っころめを含めて、貴様が初めてだ』


 そうなのか。ロボも成し得なかった事を俺たちはやってのけたのか。兄弟たちと、知恵と、道具を使った勝利だけどな。

 けれど、これが人間の戦い方だ。

 力を持たないからこそ、身を寄せ合い、知恵を絞り、工夫をする。


『だからほら、早く勝鬨を上げんかぃ』


 熊に促されて、俺は渋々と立ち上がった。

 様子を窺っていたスーやイーたちが、嬉しそうに駆け寄って来る。


「うおおぉぉぉ――――ッ!!」


 勝ったぞー! 俺は両腕を高々と掲げると、心の底からの喜びを乗せて森に大声を響かせた。


 

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