第32話 戦闘開始!
その日から俺は何かに憑りつかれたように、ひたすら穴を掘っていた。
穴。そう、落とし穴だ。
あの巨大な熊がすっぽりはまるような大きな穴を掘らなくてはいけない。
場所選びが大変だった。
周囲に高い木があって、ある程度開けた場所で、なおかつ子供の力でも掘れるくらい柔らかい地面じゃないといけない。あまり川から遠くても誘導に困る。
森を巡ってやっと良さそうな場所を見つけた俺は、以前、物々交換で手に入れた鋤でザクザクと地面を掘り始めた。
とは言え、順調に掘れたのは表面だけ。木の根もあるし、すぐに砂利が混じった層が出てきて作業は遅々として進まなかった。
鋤はスコップみたいな形をしているとは言え木製だ。土を掘るって言うよりは、なんかもう削るって感じだ。
一心不乱に穴を掘り続ける俺の近くで、スーはしゃがみ込んで作業を見つめていた。自分の膝の上に肘をついてつまらなそうにしている。
「こんなもの作って、なんになるって言うの、ルー?」
スーは効果に懐疑的だ。それでもできる事は全てやっておかないと駄目だろ。
「いいから穴を掘るのを手伝ってよ、スー。他にもやることはいっぱいあるんだから」
俺たちは毎日、穴を掘り続けて泥だらけで、身体を洗う余裕もない程、疲れ切って洞窟の中で眠りこけた。
イーたちも土を運ぶのを手伝ってくれた。
そこまで頑張って掘ったのに、一週間後、戦いの前日になっても穴はちっとも深くなっていなかった。
せいぜい俺の肩くらいだから一メートルくらいだろうか。想定より浅いけど仕方ない。
蔦で緩く編んだ網を被せて、その上に葉っぱや土を撒いて穴の上部を覆っていく。
「ほーらー! こんなのどう見ても、ここに穴がありますって教えてるみたいなもんじゃん! どんな動物だって、こんなの引っかからないよ!」
スーは穴のある場所を指差して叫んだ。
そこだけなんだかぶよぶよしていて周囲と色も違って、穴があるのが一目瞭然だ。
せっかくの時間を俺が無駄に過ごしたと憤慨しているのだ。
「これはいいんだよ、これで」
今はアホみたいに見えるかも知れないけど、落とし穴がないと他の仕掛けが上手く活きてこない。一見、無駄に見えるものにも意味があるんだ。
……その予定だ。
不安だが、まぁ、なるようにしかならない。
前日は、その他の細々とした事をして過ごした。
剣がないので熊と戦う武器がいる。俺の手にしっくりくる太さの枝を削って、その先にナイフを取りつけて簡易な槍を作った。
こんなものでもないよりマシだろう。
その日は早めに作業を終えて、洞窟へと帰った。
必要な準備は全部したつもりだが、ほとんどが賭けみたいなものだ。
これが人生最後の食事になるかも知れないと思うと、晩ご飯の肉もなかなか喉を通っていかなかった。砂みたいな味のそれを無理やりに噛み砕いて咀嚼する。
疲れ切っているはずなのに、夜になってもなかなか眠れなかった。
間近のスーはむにゃむにゃと、のん気な顔を晒している。俺はあまりの不安に駆られて、頭の近くに放り出されているスーの掌の中に自分の手を滑り込ませた。
スーはもう、アイリーンやマルティスより背が高い。この世界で言うと十二歳くらいの大きさだろうか。
俺の小さな手と比べるとすっかりお姉さんの手だ。
眠っていると思ったのに、野生の獣に近いからか、俺の掌を感じたスーはパチリと目を開いた。少ない光も反射する金の瞳が光る。
きゅっとスーの手が俺を握り返してくる。
「眠れないの?」
「う、うん……スーはなんで寝られるの」
他の狼も寝ているのでヒソヒソと囁く。皆の耳がピクッと動いたような気がしたが、誰も起きてはこなかった。
「だってルーが大丈夫って言ったでしょ」
大丈夫とは言ってないはずだけど。なんでだろう。スーは生まれた時から無条件に俺の事を信じてくれている。
不思議と、スーののほほんとした顔を見ていたら本当に大丈夫のような気がしてきた。
「だから早く寝て」
スーは俺を抱き寄せると、お姉さんぶって肩をポンポンッと叩いた。
やばい。あんまり近づくと胸に顔が当たる。俺はギシリと身体を固まらせた。こんなの反対に寝られないよ。
それでもバカな事を考えて緊張がほぐれたからだろうか。俺はいつとも知れず、眠りに落ちて行ってしまっていたようだった。
明け方、ロボの唸り声で揺り起こされる。
『来たぞ』
何が、と聞く必要はなかった。俺以外の狼たちは、すでに颯爽と起き上がっている。
眠い目を擦りながら起き上がると、まだ外は薄暗闇の中だった。あの熊のおっさん、ほんとに短気だな。夜も明けてないのに来たのかよ。
「朝ご飯、食べる暇もないですね」
『フン。朝飯前の腹ごなしに丁度いいだろう』
ロボのこの自信はどこから来るんだろうな。俺があんな熊に立ち向かえると本気で信じている。
ここまで来ても誰もやめようなんて言わない。
俺はすっかり豆だらけになった自分の掌を見下ろした。
やるべき事はやった。
あと必要なのは一歩を踏み出す勇気だけだ。
ギュッと両の掌を握り込む。
セイン、アレク、ユーリ、ルッツ。俺に力をくれ。アイリーン、マルティス。君たちに会いに行ける勇気を。
「さぁ、行きましょう」
手早く保存食を口に放り込んで、用意した武器を手に、外に出る。
今度も、川辺まではロボが乗せて行ってくれた。よく手入れされてフカフカの彼の毛をそっと撫でる。
最初に出会った時、俺はロボを神かと思った。けれど今ではかけがえのない家族の一人だ。
ロボがいなければ俺は今、生きていなかった。
「有難うございます」
『なーに、礼には及ばん。家族は助け合うものだ』
そうだね。俺たちの間に遠慮なんて必要ないんだ。
俺は今や堂々とロボの背に跨っていた。
熊は川辺の同じ場所に腰を下ろして俺たちを待っていた。やって来た俺たちの姿を目に止めて、巨体がのっそりと立ち上がる。
『尻尾を巻いて逃げ出さずに、ここまで来た事は褒めてやろう』
グアオォォと熊が吠えると、風が撒き上がって俺たちの後ろへと吹き抜け、森の木々をビリビリと揺らした。
一瞬、雰囲気に飲まれて心臓が縮み上がりそうになる。
しかしそれより早く、ロボがウオォォーンと雄叫びを上げて熊の声の振動を打ち消した。
他の狼たちもグルルルと喉を鳴らして、ハシッハシッと尻尾を打ち鳴らしている。
危ない、危ない。
相手は神獣の一族。獲物の身を竦ませる能力を持っているのかも知れなかった。
もう勝負は始まっているのだ。
俺とスーは地面に降り立って、巨熊に向かい合った。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
俺が深々と頭を下げるのを、熊は戸惑ったように見下ろしていた。
だってそうだろう。お前は中ボスですらない。熊族は俺の敵じゃないんだ。これは、ちょっとした朝食の前の運動だ。
稽古をつけてくれる者に挨拶をするのは当然だろう?
ロボがおかしそうにクッと口の端を上げる。
熊は俺の態度をあざけりと受け取ったようだった。カッと瞳に怒りの炎が踊る。
『その余裕ぶった態度がいつまで持つか、見てやろう!』
ドスンと地面に四足をついて、熊が俺たちへと突っ込んで来る。早いなんてもんじゃない。その巨体に見合わず、熊は機敏な動きを見せた。
まるで弾丸特急だ。
狼たちは散開したが俺だけ出遅れて、乗せて貰う予定のサンのところに辿り着けていなかった。
このままでは俺たちが熊の餌食になると思ったのか、イーが踵を戻し、引き返して来る。飛び上がったイーは熊の鼻づらを前足で叩いて注意を引いてくれた。
さすが頼りになる長兄だな。
『森へ向かえ!』
イーが鋭く吠える。
やっとの事でサンに飛び乗って、頷きを返す。
熊はイーを掴まえようと腕を振るったが、それより前に彼は飛びずさって距離を取った。
イーに攪乱されて俺を逃したと気づいた熊は怒りに震え、俺を乗せて走り出したサンを一直線に追って来た。




