第30話 熊族の長、登場
秋が近づくにつれ、俺はいよいよ国からの迎えはないのだと受け入れざるを得なかった。
マーナガルムで何かあったんだ。
セインたちから黒い魔物や、ジークたち暗殺集団の話を聞いた父様が、俺に救援を送れないほどの何かが。
こんな国と国の狭間の森にいては遠い北の小国の話なんか伝わって来ない。
俺はやきもきと北の方を眺めるばかりで、欝々と日々を過ごしていた。
あんまりにもぼんやりしてスーたちの話を聞いていないなんて事も多く、プリプリ怒られる始末だった。
旅立ちに必要なものはほぼ揃っている。
体力だって充分戻った。
ここから一番近い国、サラクレートに向かうのはそう難しくない。帰らずの森からの旅人なら通行証は必要ないのだ。
最初の街で入国税を払う必要があるが、まだ行った事のない南の方の村で肉などを売ればいいだろう。
だが、俺はまだ旅に出る踏ん切りがついていなかった。
子供だけで何国も越えて旅ができるものか?
いや、そもそもスーたちを連れ出していいものなのか?
もし敵に見つかったら、今度こそ打つ手がない。
それになんらかの理由で迎えが遅れているだけで、すれ違いになってしまったらどうする?
そんな風にうだうだと思いあぐねている間に、事態は思わぬ展開を迎えた。
なんとロボを訪ねて熊族の長が森の西側にやって来たのだ。
ある日、ふと顔を上げたロボが眉間に皺を寄せ、低い唸り声を上げた。いつも冷静沈着なロボがこんな風に怒るところなど見た事がない。
『あの熊公めが……我が領域に足を踏み入れるとはどう言う了見だ?』
不機嫌そうに唸るロボの言葉に俺も眉を寄せる。
熊? 熊ってあれか? 森の東側に住んでいる、神獣バルベール様の血を引くっていう熊族の事か?
熊族は狼族とは不仲なので、森の中央を分断する大河を挟んでお互いの領域には不可侵と言う協定が結ばれていたはずだ。
ロボはすっくと立ち上がって、駆け出す前に不意に俺を振り返った。
『ルークも共に行くか?』
「俺が? 部外者なのについて行ってもいいんですか?」
『人間はおかしな考え方をするものだな。我らは一緒に暮らす者を部外者とは呼ばない』
これって、ロボが俺の事を認めてくれてるって考えてもいいのかな。俺はテレッと、傍目には気持ち悪いかも知れない笑みを浮かべた。
「じゃあ、遠慮なく」
神獣の血を引く他の獣族に興味があったので、俺はロボの背に乗せて貰って皆で揃って出かけた。いつも遊んでいる支流とは違う森の中央の大河へと向かう。
ロボたちは風のように駆けて、数刻もしない内に森を分断している大河に辿り着いた。
彼の御仁は川の側の岩に悠々と腰かけていた。
その姿を見た途端、俺はついて来たのを早速、後悔し始めた。
一般的にでかい熊と言うと、ヒグマやグリズリーを想像するのではないだろうか。大きな個体になると三メートルを超えるものもいると言う。
しかしその熊は四メートル……いや、五メートル近い体高があった。全身が茶色の毛で覆われている。
動物園で見る穏やかそうな熊とは違い、野生の険しい顔はギラギラと殺気立っていた。右目には縦に鋭い傷痕が走っている。
どこで傷ついたのか、隻眼なのか。こんなでかい熊に傷をつけられるものがいるなんて想像もできないけど。
それから筋肉隆々の肩に、太い腕と足。人の頭など丸飲みにできそうな大きな口には鋭い歯が並んでいる。
なんて言うかね、あれです。人間で言うならやくざのおっさんですよ。熊だけど。
『ようやく現れたか。鈍重なる煤色の犬っころよ』
『抜かせ。図体がでかいだけの狸めが。我が縄張りに何の用だ』
顔を突き合わせた途端、俺を乗せたままなのにロボと巨熊は唇を捲り上げてグルルルと唸りながら舌戦を開始した。
あわわわわわ。こんな巨大獣対決に巻き込まれたくないよ。
俺がそーっとロボの背から降りようとしているのを見咎めて、巨熊は目を血走らせた。
『なぜ人間がここにいる! おのれ、矮小な灰色鼠めが! 人間を森に招き入れるとは、神獣の一族としての誇りまで失ったか!!』
いきり立って立ち上がる熊に、俺は何も返せず固まった。
駄目だ。
これもう死ぬやつだ。
あの腕で一発、パーンって殴られただけで破裂して死ねる自信がある。
しかしロボは俺の前に進み出ると、不敵にニヤリと口元を笑ませた。
『人間? お前の鼻にはドングリでも詰まっているのか? 流石、脳みそもドングリサイズなだけあるな。そのひとつしかない山椒のごとき小さな眼を見開いてよく見てみろ! ここには我が誇り高き狼族の者しかいない!』
ロボの宣言を、俺はその後ろに突っ立ってぽかんと聞いていた。
俺はロボに認められているなんてもんじゃなかった。一族の一員として数えられていたのだった。
『この子たちは冬に一族に加わった我が子たちだ』
ロボは自信満々に言い切っているが、ギリギリ嘘はついていないにしろ詭弁に近い。狼族でも、嘘でなければ相手に誤解させるような言い方は構わないんだな。嫌いな相手だからかな。
俺の隣にすっとスーが寄り添う。スーもまた自分の何倍もある巨熊を見上げて、尻尾をけば立たせ、目を爛々と光らせていた。
ドゥンと地面を揺らして、巨熊が一歩を踏み出す。
辺りに舞い散る土埃にも構わず、狼族には誰一人、退く者はいない。
俺も震えそうになる奥歯をグッと噛みしめて、何とかその場に留まった。
勇敢なる狼族の一員として数えられているのなら、こんなちっぽけでひ弱な俺だとしても後ろを見せるわけにはいかない。
『戯言をほざくなぁッ! どう見てもそいつらは人間ではないか!!』
『おやおや、由緒正しき熊族ともあろうものが、人型に化けられる者がひとりもいないと? どちらが始祖の血が濃いか、これだけでも分かろうものだな』
挑発するロボのクスクスと笑う声が聞こえてきそうなほどの口ぶりだった。怒り狂った熊がグガアアァァと咆哮する。
『この秋の忙しい時期にわざわざ足を運んでやったこの俺に向かって、ふざけた事ばかりぬかしよって! よほど一族の血を絶やしたいようだな!』
『フン。その一つ目を盲目にしたいと言うなら、受けて立とう。よもや前に我に負けた事を忘れてはおらぬよな?』
『ハッ、負けただと? よく言うわ。こんなかすり傷しか負わせられない短き爪しか持たない犬っころめが!』
両者は一歩も引かずに、火花を散らして睨み合う。
そうか。この熊の目に傷をつけたのはロボだったのか。そりゃそうだよな。この森で熊族に敵いそうなものなんてロボしかいない。
巨熊は視界を埋め尽くさんばかりに両腕を広げて、歯を剥き出しにしながら低い声で唸った。
『それほど言うなら覚悟は出来ているのだろうな?』
『無論だ。だが、此度は貴様の相手をするのは我ではない』
ロボはそんな事を言って、急に俺たちの前から身を引いた。
俺たちを隠していた巨体がいなくなったので、必然的に俺と、その隣に立つスーが熊の真正面に位置する事になる。
『この子たちが相手をしよう』
今度こそ俺は、あんぐりと口を開けて間抜けな面を晒すはめになった。
ちょっとロボさん、今なんて?
え? 俺? 俺ですか? 俺がこんな高さだけでも四倍以上もある、しかも怒り狂った巨大熊と戦うの?
いやいやいや、無理無理無理無理無理無理! 絶対無理だって!!
そう思ったのは俺だけではなかったようだった。
アッハッハッハッと熊の高らかな笑い声が森の葉を揺らす。
『犬っころにしては面白い冗談だ。こやつらが俺の相手をするだと? こんな子供を捻っても自慢にもならんわ』
そのひとつしかない目で巨熊は俺たちをジロリと睨みつけてくる。
『それはそうよな。こんな年端もいかぬ子供に負けたとなれば、うすのろの一族と言えど長など続けられまい。それで臆しているのだろう』
『俺が……俺が臆病だと!? 言うに事かいてこの俺が臆病者と!!』
ロボの挑発に、もはや熊は怒髪天をつく勢いで頭に血を上らせていた。
勝手に話がどんどん進んでいって口を挟む隙がない。
『そこまで言うならいいだろう。貴様の血を根絶やしにしてやろう』
巨熊はガッシンガッシーンッと自分の両腕を打ちつけて、俺たちに焦点を合わせた。めっちゃ、やる気満々じゃん!
こんな事態……どうすればいいんだよ。
俺は青ざめるばかりで、開きっぱなしの口からはなんの言葉も発する事ができなかった。




