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第18話 風の中で


 四匹の若い狼たちはいつも騒がしいほどなのに、俺がずっと黙り込んでいても静かなままだった。彼らも俺の様子から何かを感じているのだろうか。

 ずっとそのままでいるわけにもいかないので、サンの背からスルリと降りる。

 街道の方に向かいかける俺の背に、イーが声をかけてきた。


『俺たちはここから先に行かない方がいいだろう。スー、ルーについて行ってやってくれ』

『しょうがないね。ルーは一人じゃ危なっかしいからね』


 スーがまた、ポンッと人間の姿に戻る。俺はそっぽを向いて、籠から出したシャツを手渡した。背後でゴソゴソ着込んでいる音がする。

 俺って、スーたちの中でそんな評価なんだ。完全に出来の悪い弟扱いだ。納得いかないが、いまさらどうしようもない。俺はむっと顔を曇らせるだけで黙っていた。


『あまり遠くまで行くな。ここで待っている』

「うん。すぐ戻ってくるよ」


 振り向いて答えると、すでにアルがフンフンと鼻を鳴らしながら、辺りをうろつき始めていた。仕方ない奴だな、と言わんばかりに兄さんのイーはやれやれと首を振りながらアルの後をついて行った。

 少しだけ振り向いたイーに、お前らは早く行けと言うように顎をしゃくられて、俺とスーは森の端へと向かった。


 木々が途切れてそこから急に地面が剥き出しになっている道を、俺は不思議な気持ちで見つめた。

 以前、通った時には街道なんだからと気にもしなかったが、よく考えればあまり人通りのないはずの道に草のひとつも生えていないのはおかしい。

 ここまでが神獣の住まう森で、ここから先は人間の世界と決められているかのように森の緑はこの場で断ち切れていた。

 俺は森の端に立って向こう側の世界を凝視した。


 正直、森から出るのは怖い。ここから一歩、踏み出せばまた魔物が湧き出して来るのではないのかと身が竦む。

 グズグズ躊躇う俺と違って、スーはスタスタと気楽に歩いて森から出て行った。

 特に結界とかあるわけじゃないんだ。

 拍子抜けして、俺もスーの後をついて行く。


「スー、こっちだよ」


 興味津々にあちらこちらを眺めているスーを呼んで、俺はあの日の自分の足跡を辿った。

 ジークたちが潜んでいた岩場。その近くの崖への坂道を上る。それからルナが倒れた場所。そこは俺がジークと対峙した場所でもあった。

 あの時、落とした剣は残っていなかった。ジークに持ち去られたのか、アレクかセインが回収してくれたのか。それともはたまた、偶然見つけた見知らぬ人に拾われたのか。


 さらに先へと進む。アレクと別れた場所。セインが戦った場所。

 少し怖かったけれど、二人の遺体があるなんて事はなく、痕跡や血痕なんかも残っていなかった。

 崖から眼下の森を望む。

 春を迎えた森は緑に満ちていて、見下ろしても俺が落ちたところがどこか、まったく分からなかった。

 なにも……俺たちが必死に走って、あがいて、戦った日の痕跡は何ひとつ残っていなかった。


「ルー、ここに何があるのー?」


 殺風景な岩山と、どこまでも続く森だけの風景にスーは早くも飽きてきたようだった。


「俺はここから森に来たんだよ」


 多分だけど、俺が斬られて落ちて行った辺りにしゃがんで地面に手を触れる。

 セイン、ありがとう。お前のおかげで俺はまだ、この世界に生きていられる。

 早く面と向かって伝えたいよ。アレクも。ユーリもルッツも。みんな、今、どこにいる? 俺はここにいるよ。


 前世みたいにさ、携帯とかメールがあればいいのに。

 風に乗って俺の気持ちが伝わって行けばいいのにと、空を見上げる。

 立ち上がって横を見ると、スーは眉尻をうんと下げて、口を引き締めた変な顔をしていた。


「スーたちの家は洞窟だよね」


 スーは真剣に俺を見つめていた。陽の光を反射して、薄い琥珀色の瞳がキラリと光る。


「前にも言ったよね。俺の家はずっとずっと北の方にあるんだよ」


 延々と続く森の更に向こう、遥かな先を指差す。


「スーたちのママとパパはビアンカとロボだよね!」


 何かを悟りかけて、スーは嫌々をするように首を振って、悲壮な表情になった。

 そうだったら良かったね。

 俺は五匹目の子狼で、力強いお父さんと、優しいお母さんの元に生まれて、何ひとつ心配事なんてなくて。

 兄弟たちと森を駆け回る。そんな一生も楽しかっただろう。


 だけど俺はもう、自分の人生を諦めないと決めたんだ。

 セインたちや、父様……そして、アイリーンと共に生きていきたい。

 どれだけ長く険しくて、細過ぎて先がないように見えても、俺はその道を見つけて歩みたい。

 俺は決意を込めてスーに微笑みかけた。


「俺は狼族じゃない。人間だよ」

「でもでも、ルーはスーの弟だよね!」


 シャツの端をギュッと握りしめて、スーは縋るような視線を向けてきた。春の終わりの風が真っ白なスーの髪を揺らす。

 その指を一本、一本外してやって、俺は両手でスーの手をやんわりと握り込んだ。

 俺と同じ、ほんのり白っぽい肌色の掌。

 この子のひたむきさが俺をここまで連れて来てくれた。いつだって楽しく、毎日を飽かずに生きる姿が俺を立ち直らせてくれたんだ。


 アイリーンとはまた違う、奇妙な絆を俺はいつもスーに感じていた。

 いいよ、認めよう。スーが産声を上げたあの瞬間から、俺はスーの弟で、スーは俺のお姉ちゃんだ。

 どうせ俺のお兄ちゃんズだって、精神年齢は俺よりずっと下だ。

 この上、年下の姉ができたって構うもんか。


「もちろん、俺はいつまでもスーの弟だよ」

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

「ほんとのほんとだね?」

「どこにいたって、何をしてたって」


 俺たちは崖の端っこで優しい風に囲まれて約束をした。

 俺の赤い髪とスーの白い髪が同じ方向に揺れる。

 ピンと立ったスーの耳。ふさふさの尻尾。

 姿形が違っても、種族も越えて俺たちはこの日、魂の兄弟になった。

 ほとんどおでこがくっつきそうなほど間近で、べそをかきそうになっていたスーの顔がほころぶ。


「よかった。じゃぁ、早くウチに帰ろっ。パパに怒られるよ」


 現金なスーはすぐに機嫌を直して、先に立ってタタッと駆け出した。俺も足を踏み出して、来た道を下る。

 先を行くスーの耳はピクピクと忙しなく動いて、尻尾は軽やかに左右に揺れている。

 単純なスーは今、俺たちに起こった事をよく分かっていない。

 俺はスーまでも死地に向かわせようとしているのかも知れない。


 いなくなってしまった神。

 墜ちた月。

 厄災をその身に引き受けて人の世を救った始祖様……俺たちの敬愛するマーナガルム神。

 今は安らかな眠りについた神の子孫を、俺は戦いの旅に連れ出そうと言うのか。


 いや、そうならないためにも俺は早く国の人々と合流しなければ。

 俺がなぜこの世界にやってきたのか、どんな役割があるのか、未だに謎だらけだ。

 それが分かるのは、もうしばらく時間が必要だった。

 この時の俺はまだ気楽に、迎えはすぐに来ると信じて疑っていなかったのだ。


 

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