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第5話 名前


 その日から、俺はしばらく寝ては覚め、覚めては眠る日々を繰り返した。

 狼はなんの文句も言わずに俺の世話をしてくれた。かいがいしく何度も洞窟の外と往復しては、口移しに水を飲ませてくれる。ドロドロに噛み砕いた獣の肉を与えてくれる。


 それを気持ち悪いと思う感情もなく、俺はただ与えられるがままに飲み下した。

 そうしないと生きていけなかったからだ。

 生きる? なんのために?

 疑問に答えを見出せなくても、人間、案外死なないもんだ。俺は洞窟の隅でだらだらと寝て過ごす日々を続けた。


 何もしたくないと思ったら、何もせず過ごせるものなんだな。

 前世でも、転生してからも俺は気ぜわしい人間だった。昼休憩の間もずっとスマホを眺めたり、仕事の後で疲れていても本を読み漁ったり、とにかく常に何かしていないと気が済まない奴だった。当然、睡眠時間もいつも短くて昼間は欠伸を噛み殺す事が多かった。


 それが、この体たらくだよ。

 ぼんやりと洞窟の一点を見つめ続けても、特になんとも思わない。気がつけば昼が過ぎて、また夜が過ぎていく。何時間寝ても寝足りない感じだ。

 血を失い過ぎ、ダメージを受けた身体の回復に必要だったのかも知れない。


 そんな中でも、さすがの俺も狼が一匹ではない事には早めに気づいた。

 実は最初に見た灰色狼より、もう少し小柄な真っ白の狼もいて、交互に俺の世話を焼いてくれていたのだった。

 白い狼はまったく人の言葉は喋らなくて、フガフガと鼻を鳴らしたり、唸ったりするだけだ。

 俺に寄り添ってくるそのお腹はぽっこり膨れている。お前、メスなんだなと心の中で呼びかける。あの灰色狼と番いなのか。もうすぐお母さんになるのか。


 お母さん。その言葉は俺の胸にズキリと痛みを走らせた。

 前世の母にはもう会えない。先に死ぬなんて最大の親不幸をかましてしまった。こちらの世界の二人の母も俺を置いて行ってしまった。

 悲しい、空虚な気持ちが胸を占める時、俺は日増しに大きくなる白狼のお腹に耳を当てて、ドクン、ドクンと脈打つ心音を聞いた。ゆったりと力強く響くその音は俺を落ち着かせてくれた。


 その内に、お腹の中がもぞもぞと動いたりするのを感じるようになってきた。ふふ。何匹くらいいるのかな。きっと妊娠した母狼に警戒もされずくっつけるなんて、この世界で俺一人だろう。

 白狼は俺の事も子供だと思っているのか、毎日、身体中を舐めて身綺麗にしてくれた。背中の傷痕が引き攣って痛みに呻くような時は、宥めるようにずっと背中を舐めてくれた。ザラザラした狼の舌にもすっかり慣れてしまった。

 眠れない夜にはポツポツと、灰色狼が話し相手になってくれた。


「迷惑ばかりかけてすみません」

『だからそれは気にしなくていいと言ったぞ、人族の子よ』


 冬はすることが少ないのか、狼たちはあまり外に出て行かなかった。時折、灰色狼の方がフラリと外に出て、仕留めた獲物を持って帰って来るぐらいだ。彼らは森を熟知している凄腕のハンターらしく、狩りにもそう時間をかけなかった。

 持って帰って来るのは兎や狐なんかの小さな動物が多かったが、たまには鹿みたいな大きな獲物の事もあった。

 洞窟の中は風も吹き込まないので暖かく、外は見えなかった。薄らぼんやりと土壁や狼たちが見えている時は昼で、真っ暗になれば夜なんだろうなと思うくらいだ。


「俺の名前はルーカス・アエリウスと言います」

『ルー……人の名前は呼びづらいな』

「ルークでいいですよ」

『ではこれからはそう呼ぶとしよう、ルーク』


 それから俺は彼らの名前も聞いてみたが、なんと、狼族には名前などないと言う。まぁそうだろうな。人の言葉を話せるのがこの灰色狼だけなら、人のような名前をつける意味もない。


「では、貴方のことは何と呼べば?」

『お前の好きに呼べばいい』


 好きにしろというのが一番困るんだけどな。しばらく目を閉じて思案する。

 俺の脳裏には幼い頃に読んで忘れていたはずの、とある物語の内容が蘇っていた。巨大な灰色狼と白狼が仲睦まじくじゃれあうのを見た最初の頃からずっと、その本のイメージがあったのだ。

 子供だった俺は、アメリカの南西部を舞台にした狼王の話にドキドキと胸を躍らせながらページを捲ったものだ。

 日本では、きっと誰でも読んだことはなくてもそのタイトルくらい知っている。


「では、ロボ、と」

『ロボ……不思議な響きの言葉だな』

「異国の言葉で狼を意味するそうです」

『そうか。では我は今日からロボと名乗ろう』


 ロボは目を細めて、口の中でウォンと小さな呻き声を立てた。それを聞いて白狼も気安い感じでグルグルと唸り声で答えた。二匹はいつも仲がいい。今のところ、争っているのを見た事がない。

 どんな話をしているのかな。俺にも狼の言葉が分かればな。俺はうっすらと微笑みを浮かべて二匹の様子を眺めた。


『我が連れ合いはなんと呼ぶつもりだ?』

「ビアンカ、ではどうでしょうか?」


 その身体の色通り、白を意味するビアンカ。ロボの奥さんは、やっぱりビアンカだよな。

 もう一度、ロボは今度は少し声の調子を変えてウオォンと唸った。声の響きから、どうも狼の言葉でビアンカと呼びかけたようだ。

 白狼がしっかりとした頷きを返す。


『どうやら気に入ったようだ』

「それは良かったです」


 ビアンカが身重の身体をのっそりと立ち上がらせて俺へ近寄って来る。子狼にするようにペロペロと首元を舐められて、くすぐったくも受け入れる。

 ここにいればなんの心配も不安もない。力強く気高い狼族に支配されているからか、夜になっても黒い魔物は未だに現れていなかった。


 ここが森のどこか知らないが、追っ手の人間も姿を見せるはずがなかった。神が宿ると謳われる、いにしえの森に足を踏み入れるような馬鹿は流石にいない。万が一、侵入して来てもロボが教えてくれるだろうし、すぐに追い返してしまうだろう。

 俺がフフッと笑い声を立てると、二匹の狼たちも満足気に唇を上げて犬歯を見せる。

 そんな風に俺たちは幾日もの昼を過ごし、夜を一緒に寝ていた。



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