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第4話 大狼


 聞こえてきた足音に、期待と不安のこもった視線を向ける。

 けれどそこにいたのは人ではなかった。狼だ。人間の大人より一回りも二回りも大きな、巨大な狼……。


「ヒッ……」


 本能的に恐怖を感じて俺は思わず、その場から逃げ出そうと身体を動かした……つもりだった。

 だが、言うことを聞かない俺の身体は意図に反してピクリと身じろいだだけだった。

 視界を埋め尽くすほど巨大な灰色の狼が近寄って来る。


 狼の個体の違いなんて判別できないが、多分、こいつは崖から落ちた俺の前に現れた狼と同じ奴だよな。こんな大きな狼が他にもいるとは思えない。

 結局、俺はこいつに助けられたのか。それとも非常食代わりに巣穴に連れ帰られたのか。

 琥珀色の瞳が静かに、俺を真正面に見下ろす。

 狼は何かを考えるように幾ばくか首を傾げて、黒っぽい口元を開いた。


『ようやく目を覚ましたか、人族の子よ』


 しゃ……べった……。

 今のは、この狼の声だよな。

 喋ったと言うのは少し違うな。直接頭に響くような不思議な感覚だ。今まで出会った神々や、黒き少年の声の聞こえ方と似ている。


『あの傷では、まだ身を動かすこともできぬだろう。ゆっくり寝ていて良い』


 狼が穏やかに瞬くようにゆったりと目を細めた。最初に目に入った時は凶暴そうだと思ったその瞳は、落ち着いて見返すと優しげにも見えた。

 いつまでも答えない俺に怪訝そうに狼が首を傾げる。


『どうした? 我の言葉は伝わっているか? なにせ人語を口にするのは十数年ぶりだからな』


 では、やはりこの狼が父の会ったという神なのか。

 いと気高き、我が国の守り神。


「マーナガルム様……」


 しかし狼はフッと淋し気に笑うように口の端を上げた。


『あの方は疾うに逝ってしまわれたよ。お前たちがマーナガルムと呼ぶ、我が一族の始祖様は……我はその血を引く誇り高き狼族の末裔だ。そして、人語を解する最後の狼族でもある』


 なんだって?

 俺は耳に聞こえてきたと言うか、頭に響いた狼の言葉を理解するのに手間取って、黙り込んだ。

 その可能性は考えていなかった。

 だって父様がマーナガルム様に会ったって言うから……そうだ。父様の話の中でもマーナガルム様かと問いかけた時、狼は肯定していなかった。


 伝承でだって、月を飲み込んだ大狼は没してその魂だけが天に昇ったと言われている。そうだよ、とっくに死んでるんだ、マーナガルム様は。

 どうして彼の大神が倒れたと言われる故郷の地、エストナ山脈を遠く離れて、この帰らずの森でまだ神が生きていると思ったのか。


 なんだよ、全部、あの人の勝手な思い込みだったのかよ!

 なんの為に俺は命を懸けたのか。

 そんなことの為にセインとアレクは……激しい憤りを感じて、俺の頭は煮えくり返った。身体が動かせたら強く地面を叩きつけていただろう。

 段々、感情がコントロールできなくなってきている。昨日からカッとし過ぎだ。

 いや、昨日とは限らないのか。俺はどのくらい寝ていたんだ。


 もう父様のおっちょこちょいなんていいよ。あの人は昔からそう言う人だった。それを計算に入れてなかった俺が悪いんだ。

 強いて胸の内の怒りを抑える。

 急激に激しい感情が沸き上がった後、無理やりに抑え込んだものだから、なんだか乾いた笑いが込み上げてくる。

 まだ動揺しながらも、俺はどうにか口を開いた。


「助けて下さってありがとうございます」

『なに、礼には及ばん。そう言う約定だったからな。お前の父親は面白い男だった』


 あーぁ、そうでしょうね。あの人よりおかしな人はなかなかいないだろう。森で出会った狼を神と思い込むなんてね。今度会ったら、けちょんけちょんに笑い者にしてやる。

 まぁ、でも仕方ないか。人の言葉を話すこんな巨大な狼がいたら、誰だって神か魔物かと見間違うだろう。

 俺だって、ついさっきまで神様だと信じて疑ってなかったんだからな。


「俺はどのくらいここに?」

『そうだな。人の暦の数え方は知らないが、月が二度、満ちて欠ける程の期間だ。そう言えば分かるか?』


 狼の答えに、さらなる衝撃が俺を襲う。

 ふた……月も……まさか。あの日から、もう二ヶ月も経ったのか?

 そう言われれば、この身体の様子も納得できる。二ヶ月も寝たきりじゃ、筋肉が衰えて身動きできないだろう。


『その間ずっと、お前はここで光をまとって横たわっていた。いつ死んでもおかしくない状態だったが……細々とだが、光が途切れることはなかった』


 狼が伝えてくる続きを俺はほとんど聞いていなかった。

 そんな。狼の言葉が本当なら今は一月の半ばくらいだ。故郷の地は深い雪に閉ざされている。さしもの父様もそこまでは待っていられず帰ってしまっただろう。

 国か息子かと天秤にかけた時、俺を選ぶ程、父様は甘ったれた人じゃない。

 セインたちも一緒に帰ってしまっただろうか。あの酷い怪我だ。一旦、連れ帰られた可能性は高い。

 俺は……俺はこんな異国の地に、たった一人ぼっちだ。


「うわああぁぁぁ……!」


 いきなり糸が切れてしまって、俺は自分でも気づかず叫び声を上げていた。ろくに動かせない指で地面を掻きむしる。

 気づかず伸びていた爪に土塊が食い込んだ。


 何も考えられない。一人は、一人は嫌だ。母様たちがいなくなってしまった時も、四人がいたから耐えられた。父様が迎えに来てくれると信じていたから必死の思いでここまで来たんだ!

 こうなってはもう、シアーズにも戻れず、故郷にも帰れない。

 俺はこれからどうしたら……。

 あの日から何度、絶望を感じてもその度になんとか奮い立たせてきた心が、ポッキリと折れてしまった。


「あああぁぁぁ……」


 虚ろな目に何も映さず、ただ呻き続ける俺へと狼が近寄って来る。

 うっすらと濡れた鼻面がソッと俺の顔へと押しつけられる。


『今は何も考えず、ただ休め、人の子よ』


 ふわりと身体全体がその巨体に覆われる。

 暖かい……もしかしてお前、俺が眠っている間も、ずっとこうして温めてくれていたのか。

 ちょっとだけ指を動かして間近の毛を撫でる。

 その温もりは俺に心地よい安心感を与えてくれた。


 乱気流のような極端な感情の浮き沈みは、思ったより病み上がりの俺の心身をすり減らしたのだろう。いつしか、ふかふかな狼の身体をしっかりと抱きしめて俺はウトウトとした眠りへと誘われていた。

 大きくて暖かい舌が毛繕いするように俺の頬を優しくペロリと舐めた。



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