第1話 落下
落ちる、落ちる。
三、四階建ての建物に匹敵するほどの高さの崖から足を滑らせて、俺の身体は真っ逆さまに森へと向かっていた。
手足がバタバタと宙を切る。
まずい。このままじゃ、地面に叩きつけられて死ぬ。
ほとんど数秒にも満たない時間の中、俺はグングンと迫りくる森を背後に見下ろした。
どこかの木を、枝を掴むんだ!
それしかない!
水泳で飛び込む時みたいに、大きく息を吸い込んでから止める。
ただひたすらに手を動かして、それが何かに触れた瞬間に力いっぱい握りしめた。
バキバキと木の枝を折りながら、勢いは止まらず俺の身体はどんどん落ちて行く。
一度で足りないなら、二度でも、三度でも!
腕が切れても、指が曲がっても、構わず手に触れるありたっけの物を掴み取る。
「ぐがっ……!」
何度か太い木の枝にぶち当たって、バウンドしながら俺の身体は地面へと叩きつけられた。
肺の中から空気が押し出されるようになくなって、俺はしばらく意識を失った。
それからどのくらい気を失っていたのだろうか。
気がつけば俺はうつぶせで森の中に突っ伏していた。
バラバラと木の葉に当たった雨が背中に降ってきて、ズキズキと痛む。それどころか身体中、どこも痛くないところがないみたいな感じだ。
だけど、痛いって事はまだ生きている。
「ハハ……」
セイン、俺は賭けに勝ったぞ。
痛む首を動かして無理やりに頭上を見上げる。
俺が落ちてきたところだけ枝葉が折れて空が覗いているが、そこから崖の上の様子を見る事はできなかった。
俺は自分が落ちていく寸前のセインの有様を思い出して、顔を曇らせた。
ジークに斬られた左腕はもう、使い物にならないかも知れなかった。そんな。左目に引き続いて腕までなんて。
あんなに出血していたら、命も危うい。
敵の中に一人残されて、セインは無事に逃げ出せただろうか。
それにアレクの事も心配だ。後続の追っ手が来ていなかったと言う事は、まだ戦っているんだろうか。あんな人数を相手に。本当に無茶だよ。
俺一人、こんなところで寝ているわけにはいかない。
「ううううーっ……!」
左腕が変な方向に曲がっているので、右手に力をこめてなんとか起き上がろうとする。
その瞬間に、ドッと背中から血が溢れた。
目の前がクラクラする。
俺も血を失い過ぎているのか。
ジークでも、黒い魔物でもなく、あんなただのチンピラにやられるなんて。
俺には物語の英雄なんて向いていない。
そう言うのは父様とかに任せておきたいものだな。
父の事を思い出した瞬間に、俺は自分がなぜ森に来たのか、その目的も思い出した。
「マーナガルム……様……」
小さく呟いた声は頼りなく森へ消えていった。
ここはもう、帰らずの森の中でいいはずだ。
父は、この森のどこで、とは言わなかった。俺もここに来さえすれば、すぐに神が現れてくれるものと信じていた。
「マーナガルム様!」
声を限りに叫ぶが、いくら待っても反応はない。
ここじゃないのかも知れない。もっと奥に進まないといけないのか。
「ぐ……ぅ……」
わずかに身体を動かすだけで辛い。奥歯を噛みしめて、這うように進む。視界が暗くて、どちらが森の奥なのかも分からない。
ただひたすらに、前へ、前へ進んだ。
背中がやけに熱い。
どれくらい斬られたんだろう。見えない部分で良かった。見えていたら、怖気づいて動く事なんてできなかったかも知れない。
動け、動けよ、俺の身体!
こんなもの痛みの内にも入らない!
早く行かないとセインとアレクが死んでしまう。
あぁ、二人が死んだらどうしよう。俺のせいだ。俺が馬鹿で考えなしだったから。
俺はまた間違えた。
もう一度、もう一度、時計の針が戻るなら、今日の朝からやり直したい。
大人しく村で父様を待っていれば良かった。いや、せめて皆で、四人で一緒に森に行こうと伝えれば良かった。
「セインっ、アレクぅ……!」
痛みのせいか、怖れにか、目に涙が浮かぶ。
でも俺は、父様に会うまで泣かないとアレクと約束したから。
ぐずぐずと滲む涙を拳で振り払う。
大丈夫。
俺はまだ、前に進める。
俺だって生きているのに、あの強い二人が死ぬはずない。
「ルッツ……ユーリ……」
もうユーリとは二日も顔を合わせてない。旅に出て初めてだから、なんだか変な気分だよ。早くユーリの明るい笑い声が聞きたい。
またこんなに無茶してって、呆れた顔で叱られたい。
「父様……」
本当にあの人は酷いな。俺にこんな期待させといて、森に着いたのに神になんて出会えないじゃないか。
森のどことか、ちゃんと指定しといてくれよ。
そう言うとこ、抜けてるんだから。
父様、もうユーリに会って聞いたよね。
母様、死んじゃった……死んじゃったんだよ。
俺を信じて国から出してくれたのに、守れなくてごめんね。俺は誰一人助けられない、不甲斐ない息子だよ。
だからさ、俺なんか後回しでいい。
お願いだから、セインとアレクだけでも助けてよ。
這うように森の中を進む俺の身体は、濡れた苔に手を滑らせてガクンと傾いた。
横倒しに地面に突っ伏してしまい、激しい痛みに襲われる。
そのせいで、またしばらく気を失ってしまったようだった。
うつらうつらと意識が夢の中を彷徨う。
何度も、目が覚めては進まなくてはと思い、またそれすらも夢だったかのように意識が遠のいていく。
これじゃ駄目だ、このままじゃ……。
ギリギリと奥歯を噛みしめて、なんとか目を開ける。
冷たい雨が打ちつけてくる。
薄暗い森の中。
背中の傷は、もう痛みを感じない。
ただ、雨と入り混じってドクドクと流れ続ける血が、洒落にならない量の赤い水たまりを地面に作っていた。
手足はとっくに重く、立ち上がる事ができない。視界もぼんやり霞んでいる。
いよいよやばいのかなと思った。
やばい?
もしかして俺、死ぬのか?
こんなところで?
こんな年齢で二度目の人生も終わるのか?
嫌だ、そんなの!
焦って身体を動かそうとするが、できたのは指で地面をかきむしるだけ。
「カフ……ッ」
急に動こうとしたせいで、背中からさらに血が溢れた。
飲みたくもない自分の血の味のする泥水が喉に入ってむせる。
「いやだっ、嫌だよぉ……!」
一度、死を意識すれば、あとはもうみっともなく泣き喚くしかなかった。
「父様っ、母様! ローズ! セイン……ッ!」
呼んでも誰も来ないのは分かっていた。
「アレク! ユーリ! ルッツ……」
死んでしまったら、みんなにはもう二度と会えない。
それが悲しくて悲しくて。
「かぁっ……さま……」
溢れ出る涙にも気づかず、俺はもがき続けた。
その耳に、ふと、ヒタヒタと押し寄せる何かが聞こえたのは直感だったのだと思う。
ほとんど音もなく地面を踏みしめる複数の何か。
フシューッと、獣の吐息が木立から響く。
な、なんだ?
俺はビクリと動きを止め、視線を恐る恐るそちらへと向けた。
ぼやけた視界の中、確かにそこに何かいる。
そう思わせる一対の金の瞳が煌めいて。
俺が手負いで、もう逃げられないと分かっているからか、木立の中から優雅とも思える動きでノッソリと巨体が姿を現す。
それは、こんな曇天にも見事な銀の毛を光らせる巨大な狼だった。
俺は息をするのも忘れて、その巨体を見上げた。
「マーナガルム……様……?」
ヒタヒタと太い足を動かし、巨大な狼は滑るように俺へと近づいて来る。
俺の呟きに狼は答えなかった。
ただの血の匂いを嗅ぎつけた森の狼なんだろうか?
こんなに美しい生き物なのに?
掠れる視界の中でもはっきりと、光るように銀の毛が輝いて見える。
お前がもし神そのものでないとしても、この森にいるんだ。きっと、神の眷属かなにかだろう。
「マーナガルム様に伝えて……昔、貴方と約束した男の息子が森に来ていると……」
しかし、やはり狼が俺の言葉に答える事はなかった。
琥珀色の瞳がまっすぐに俺を映す。
あぁ、綺麗だと思った。
こんな、いつ死ぬとも知れない傷を負って。
人のいない森の中で。
俺は魅入られたように迫り来る狼を見つめた。
狼に食い殺されるって言うのは、チンピラに斬り殺されるよりはもう少しマシな死に方かな。どうだろうな。
せっかくここまで来てくれたのに、ごめんな、アレク、セイン。
耳元にフガフガと獣臭い熱い吐息がかかる。
捲れ上がった上唇から鋭い犬歯が覗く。
そして。
これ以上、痛くなきゃいいな。
そう考えたのを最後に俺は意識を手放した。




