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第30話 森へ行こう


 ジークは俺に歩み寄ると乱暴にマントの襟元を掴んで引っ立てた。

 どうする。このまま連れ去られたら再び日の光を見る事はないかも知れない。行先はイグニセム。そして、あの新しき神を名乗る少年のところだろう。


 歴史ある大国はさぞや、俺みたいな軟弱者がペラペラと情報を喋ってしまう拷問をたくさん用意しているんだろうな。散々、前世の事を喋らされて、引き出すものがなくなったらゴミくずみたいに殺されるんだろうか。


 ゾッとする。それくらいなら今、死んだって同じじゃないか?

 たった一人ぼっちで敵に囲まれている心細さに弱音を吐きそうになる。

 思えば、俺は記憶が戻ってから一人きりだった事がほとんどない。せいぜい寝る時くらいだ。


 いつも誰かが側にいた。

 俺は甘やかされた子供だった。

 そんな風に皆に守られてきた命を俺一人が諦めていいのか?

 まだ何かできる事があるんじゃないのか。


 ジークの馬の方に引きずられながら、崖下の森を見つめる。

 こんなに近くにいるのに、マーナガルム神はまだ助けに来てくれないのか。いや、奇跡のような神の力に頼るのはやめよう。

 俺が神なら、全力も出し切らず他力本願な奴なんか助けたくない。


 俺はまだ五体満足で自分の足で立っている。

 そうだ。どうせ死んでも同じなら、ここから飛び降りたら森まで行けるんじゃないだろうか?

 よほど運が悪くなければ、この高さでは死ないだろう。せいぜい骨折くらいだ。


 もうなりふりなんて構っていられない。

 セインやアレクやルッツは、あれほど身体を張って戦ってくれたんだ。ユーリはたった一人で異国の地を駆けて行った。

 俺だってそろそろ、命くらい賭けるべきじゃないか?


 俺のマントは若干、身体に合っていなかった。成長期なのですぐに背も伸びるだろうと、最初から大きめに作られたのだ。

 ぬかるみに足を取られた振りをして、マントから頭を引き抜く。

 バシャンと水たまりの中に膝をつく。

 その手に掴めるだけを引っ掴む。


「なにっ?」


 急に軽くなったマントに驚いて、ジークが地面の俺を見下ろした。その時、その場にいた奴らの視線は全員、俺に集中していた。

 俺はと言えば、倒れて顔を上げた木立の先に、信じられないものを認めて作戦を変更せざるを得なかった。


 俺が行くべきは森じゃない。

 急いで膝を立てて起き上がると、泥水の中から掴み取った土砂をジークの顔目がけて投げつける。


「こんの糞餓鬼!」


 立ち上がるついでに、ジークが手にしたままの雨を含んで重たい俺のマントを跳ね上げる。エンリケからの吹き矢を警戒しての行動だ。こうすれば視界を遮れるはずだ。

 俺は全速力で、隠れていた木立の中からこちらへと向かって来る茶色と白い馬の方へと走った。足が千切れてもいい。息が止まったっていい。今だけは、誰よりも早く。


「アレク! セイン!」

「ルーカス様!」


 爆走する馬から身を低くしてアレクが腕を伸ばしてくる。俺も一目散に走りながら大きく腕を伸ばす。

 ドンッとぶつかるような衝撃が走って、俺はすぐさま馬上に引き上げられた。


 俺たちと敵の射線に入り込んだセインの剣が、カキンッと音をさせて何かを弾き飛ばした。エンリケ、あいつしつこいな。さっきは結局、矢を放っていなかったのか。

 そのまま二頭の馬は一気にその場を離脱した。


 本当は崖下に戻りたかったようだが、二、三人がまだ進路を塞いでいるので仕方なくさらに上に向かう事にしたようだ。

 泥だらけの手でアレクの腕を強く握る。

 いまさらにカタカタと身体が震えてくる。


「僕……僕、ごめんね、アレク……」

「いいんです。ご無事で良かった」


 力強い腕が後ろからぎゅっと抱きしめてくれる。まだ危機を脱したわけでもないのに、それだけで俺は心の底から安心を感じた。

 結局、俺の考えなしな行動は二人を危険に飛び込ませただけだ。

 散々、偉そうな事を言って情けない。

 目頭が熱くなってくる。


「ルッツは?」

「あいつはまだしんどそうなので置いて来ました。それよりルーカス様、ちゃんと馬に跨って」


 まだ横座りに腰かけていただけなので、馬上で向きを変えてアレクの前に跨る。

 後ろからは行動の早い数人が俺たちを追って来る音がする。

 いかなアレクでも、俺を抱えていては馬足が遅れがちだ。


「気をつけて! 毒を使う奴がいる!」

「あの吹き矢の奴ですか。厄介ですね」


 セインがチラリと右肩越しに振り返る。ほんのわずかな邂逅だけで、彼らにもあの二人が手練れだと分かったようだ。

 体調が万全な時ならともかく、セインとアレクは二日間、ほとんど寝ておらず、しかも満身創痍だ。この状態で追いつかれたらあの人数に加えて、ジークとエンリケまでは相手にできないだろう。

 ましてや、セインは片目を失ってまだ半日も経っていない。どうしてもできる死角に対処できるか怪しいものだ。


 セインとアレクは馬上で視線を交わし合った。まるで最初からそうすると決めていたかのように。セインが無表情に小さく頷く。

 もう一度、アレクが俺の身体を後ろからしっかりと抱きしめた。


「このまま止まらず駆けて下さい」


 アレクにしては珍しく、低く囁くような声が耳に届く。


「アレク、何を……」

「ご武運を!」


 アレクは俺から腕を外したかと思うと、鐙にかけた足に力を入れて後方へ飛んだ。背後を覆っていた安心感が遠のいていく。


「アレクー!」

「止まるな、走れッ!」


 俺は咄嗟に馬の手綱を取って方向を変えようとしたが、アレクの馬は主人の願いを聞き届けたかのように俺にはまったく従わなかった。

 くるりと俺たちに背を向けて、アレクは地上で背中の槍を手に取った。向かってくる敵の馬と対峙する。


「アレクセイ・ルフス・バロッズだ! ここの通行料はお前らの命だけでいいぜ!」


 馬鹿な奴が何か馬鹿な事を吠えている。

 アレクの背中は見る見る内に小さくなった。


「セイン! 無茶だ! 引き返せ!」

「アレクセイだとて、ただの馬鹿ではないです。頃合いを見て離脱するはずです」


 セインの冷たい視線が有無を言わさず俺を射る。

 だけど、俺だってもうそろそろこいつの性格くらい分かっている。冷めた口調で冷淡な事を言うのは、相当動揺している時だ。


 俺よりセインの方がアレクとのつき合いは長い。

 それこそ生まれた時から家も近くで兄弟のように育ってきたのだろう。

 セインだとて、アレクを一人、置いて行きたいわけがない。離脱するはずだと、アレクなら出来るはずだと信じて頷いたのか。


 二人にこんな事をさせたのは、俺がアホだったからだ。

 どうして俺は皆を信じなかった。

 全て打ち明ければ良かったんだ。

 何度反対されても、何度だって話し合えば良かった。


「この先に、下に続く道があるといいんですが」

「セイン……森へ行こう」


 俺はアレクの馬の手綱を握って、震える自分の手を静かに見下ろした。

 ここを馬で降りるのは無理そうか。

 もう随分、上まで登って来てしまった。さっきまでとは高さが違う。だが、まだやってやれない高低差ではないだろう。


 セインが怪訝に眉を寄せて俺を見てくる。

 あの時、国を出立する前に、父様はこう言っていた。

 マーナガルム神と、自分の一族が困った時に力を貸して貰う約束をした、と。


 セインやアレクは俺たちの一族ではない。一緒に連れて行って神が姿を現してくれるのか不安があった。

 それもあって彼らを置いて一人でここまで来たのだが、今となってはそんな些末な事に拘っている余裕はない。

 アレクを助けるにはこれしかない。


 神が俺に試練を与えると言うのなら、それに見合った力くらい貸して貰おうじゃないか。

 これ以上、誰も欠けずに国へ帰る。

 俺の望みはそれだけだ。


「森にはマーナガルム様がいらっしゃる。昔、父様が会ったんだ。力を貸していただけるはずだ。だから森に行った方が早い」


 俺は顔を上げて、眼下の森を指差した。瞬きも忘れてセインを見つめる。


「セイン、俺を信じてくれ」


 六歳の振りをして、ずっと皆を騙している俺を。

 なんの力もないのに主君面して、偉そうな事ばかり言っている俺を。

 皆を危険に追い込むばかりの俺を。

 どの面下げて、俺はこんな事を言えるんだ。


 けれど、セインが躊躇う事はなかった。いつだって彼らは即決即断だ。


「勿論です」


 馬の足を緩めて近くに寄り添ってくれる。セインは険しい顔をして右目だけで崖の様子を見て取った。


「馬で降りるのは厳しそうですね。途中で倒れて巻き込まれる危険がある。置いて行きましょう」

「僕もそう考えていた。セイン、怪我は平気か?」


 するりと馬を降りたセインが手を貸してくれて、俺も地面に足をつける。こうして覗き込むと崖の高さは三、四階建ての建物ほどもあって、やたら高く感じた。

 崖を滑り降りて……後は運だな。

 セインを見上げると彼は不敵にフッと微笑んだ。


狼国(ろうこく)の騎士が主を前に膝をつく事はあり得ません」


 知ってるよ。それで平気な振りをして直前まで無茶をして、急に倒れ込むんだろ。だから心配してるんじゃないか。

 とは言え、グズグズしていたらアレクの手を逃れた追っ手が現れかねない。迷っている時間はない。


「よし、行こう」


 俺はゴクリと息を飲んで、隣のセインの手を握ろうとした。

 だが、セインはピクリと何かを感じ取ったかのように振り向いた。俺も気が乗らないながらも、首を回して背後を見る。


 崖を登って来る、死神のように黒い姿。

 昨日まで対峙してきた黒き魔物の色と相まって、ジークの風体は俺の胸をざわめかせた。

 セインが腰の剣へと手を伸ばす。


「あんな奴、放って先に行こう」


 袖を引いて訴えたが、セインはゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。あれを倒さず行けば禍根が残ります」


 セインが鞘からスラリと剣を引き抜いた。



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