第28話 黒ずくめの男
昨日から空を覆っていた雨雲は、地表にポツポツと雨を届け始めていた。頬に小さな雨粒が当たるのを感じる。
まずいな。もう少しで森に辿り着けそうなのに。
本降りになったら身を隠すところがない。
この世界にはろくな雨具がない。マントのフードを被ってそれで終わりだ。大体、雨の日に外を出歩いたりしないのだ。その辺は大らかでいいよなぁと思う。
雨の日や雪の日には誰も仕事なんてしない。
俺が雪で作った雪像を見て、みんな笑ってくれて……首を振ってその光景を頭の中から追い払う。
考えるな。
思い出したら、帰りたくなってしまう。
朝早くから鞍もつけない馬に乗りっぱなしなので、股が擦れてヒリヒリと痛い。
もうほとんど二晩寝ていない。たまにカクンと意識を飛ばして馬から落ちそうになる。
そのたびに俺は遥か先に黒く沈むように見えている巨大な森を見つめた。
一度、足を踏み入れれば帰る事はできないと謳われる、人を阻む伝説の古き森。
森についたらどうしたらいいのかなんて何も考えていなかった。
ただ、辿り着きさえすればどうにかなる。
不安を追い払うようにそれだけを強く信じ込もうとしていた。
もうすでに舗装された道はなくなり、でこぼこと修復もされていない荒れた地面がひたすらに続いている。
雨で濡れてぬかるみ始めている地面は馬でも走りづらい。
村から二時間くらい駆けて、ようやく森の端が視界に入った。
あそこでルナを降りて一人で森に入ろう。
ルナを残していくのは不安だが、人の手の入っていない森に馬で乗り入れるのは無理だ。
賢い馬だから一頭でも、きちんと皆のところに帰ってくれるだろう。
「ルナも今までありがとう」
たてがみをサスサスと撫でる。きっとまた、すぐに会えるよね。そんな気持ちを込めて長いルナの首にぎゅっと腕を回して抱きしめた。
その時、馬に乗った数人の男たちが森近くの岩場の陰から姿を現した。
旅人か?
休憩でもしていたのか?
こんなところで?
疑問は一瞬で吹き飛んでいく。
そいつらの風体が、どう見ても堅気のものではなかったからだ。特に先頭の奴はやばい。
他の数人はチンピラ風だったが、そいつだけは異様な雰囲気を放っていた。
黒を基調とした旅装に、マントが背後になびいている。目鼻立ちはすっきりと整っており、口の下に短い黒い髭を生やしている。
顔だけ見ればちょい悪オヤジ風と言うか、ナイスミドルと言うか、俺のイケメンアレルギーセンサーが反応しかかっている。
髭のせいで年齢は判別しづらいが、四十歳まではいってないだろう。三十代半ばくらいか?
そこまで長くない黒髪を黒いバンダナで覆っているところ以外は普通の旅人に見えなくもないが、眼光が違う。
表情は朗らかに見せかけているが、俺を認めた瞬間、太い眉の下、ほんのわずかに細められた瞳がゾッとするほど冷たかった。
こいつは……きっと人を殺し慣れている。
「キケくぅ~ん、やったね。賭けは俺の勝ちだよ」
男は俺から視線は外さず、にまにまと笑いを浮かべて隣の男に軽い口調で話しかけた。
「はいはい、班長は相変わらず動物じみた勘ですね。まさか、こんなところに一人で現れるなんてね」
黒ずくめの男の側で、一見、物腰柔らかそうな、こちらも三十代くらいの男が答える。
こいつも要注意だな。なんか特徴のないのっぺりとした奴だけど、絶対、一般人なんかじゃない。隙がなさすぎる。
もしかしなくても、こいつらがイグニセムからの刺客か。あとの数人はこの付近で雇ったならず者ってとこか。
くそっ。森まであと、数十メートルもないのに。このまま突っ切れるか?
彼らの左右に目を走らせる。
無理だな。この二人よりは格下とは言え、チンピラたちもただのアホじゃないみたいだ。巧妙に道は塞がれてしまっている。
前にも進めず、さりとて逃げ出したところですぐに追いつかれるだろう。
「キケ~、ダメだろ。今回は親分って呼べって言ったじゃん」
「呼び方の違いになんの意味があるって言うんです、ジーク?」
「俺の気分が違う。せっかく盗賊風を装ってんだからさぁ」
けれど奴らは俺の方に近づいて来るでもなく、なんだか変な事を言い合って揉めている。
後ろのチンピラたちも、ついて出てきたはいいものの、どう反応をしたらいいのか分からず佇んでしまっているほどだ。
この隙に抜けて行けないかな……。
そーっとルナに指示を出すために跨っている足に力を入れる。
その瞬間、瞬きするほどの時間しかなかったはずなのに、二人は即座に馬を進ませて俺の左右に位置取った。
いつのまにか抜かれた剣の切っ先が両側から突きつけられている。
「お静かに。我らとて小さな子供を傷つけたいとは思いません」
「ゆっだんなんねーな。こいつ、ほんとに六歳か? 俺たちを見ても顔色ひとつ変えやしない」
ジークと呼ばれた黒ずくめの男が剣の先で俺のフードをめくった。
細々と降る雨の中に俺の赤い髪色があらわになる。
これでもう言い逃れはできないな。まぁ、こんな大きな軍馬に乗って一人でほっつき歩いてる幼児なんて他にいるわけないから、見つかった時点で言い訳のしようもないわけだが。
セインたちを置いて一人で来たバチが当たったのかな。
俺はむっつりと押し黙ったまま、左横の黒ずくめの男を見据えながらも渋々と両手を上げた。
「ルーカス・アエリウス殿下ですな。大人しく投降頂けると言う事でよろしいのですかな?」
ジークと言うらしきそいつに話しかけられるが、何を聞いても胸がムカムカする。
自分の迂闊さにも腹が立つが、それよりもこいつらはなんでこんなにも平然としているんだ。
お前らが屋敷を襲ったんだろ。
お前らが、母様やローズを……。
俺はもう大切な人に会えないのに、なんでお前たちが平気な顔をして生きている。
身体の奥からドロドロとヘドロのように真っ黒でドス汚い気持ちが湧き上がってくる。俺は自分がこれだけ人を憎めるのだと初めて知った。
怒りでカタカタと歯鳴りして、指先が震えそうになる。
だが、こいつらを怖がっていると誤解されるのは我慢ならない。
俺は無理やりに口角を上げて笑みを形作った。きっと怒りで凄い形相になっていると思うが構うもんか。こんな奴らにどう見られようが、どうだっていい。
侮られなければそれでいい。
「黙秘権と言う言葉を知っているか?」
「モクヒ……?」
「お前らに名乗るべき名も、語るべき言葉もないって事だよ」
俺に真下から凝視されて、黒ずくめの男はピュ~ゥと鬱陶しい口笛を鳴らした。態度がイチイチ、キザったらしくてムカつく奴だ。
「聞きしに勝る胆力ですな。まぁ、その態度ひとつで答えなくても答えになっちまってるわけですが。普通、こんな六歳児、いやしませんよ」
男は剣を片手にひょいと肩を竦める。その切っ先が俺に向かってユラユラと揺れた。
「それはそれとして、大人しく馬を降りて頂きましょうか。その方がお互いに手間を省ける。利発な殿下ならお分かりでしょう?」
俺は内心の憎悪は隠して、わざとらしく深いため息をついた。
「分かったよ。僕だって痛い思いはしたくない。ただな……」
「なんですかな?」
「この大きさだろう? 一人では馬を降りられない」
何を言われるのかと俺の言葉を待っていた彼らは、思ってもいなかった内容に微妙そうな顔をした。
ジークに至ってはプッと吹き出した後、拳で口元を隠してはいるが、クックッと笑い声が漏れてしまっている。
「確かに。あまりの勇ましさに忘れそうになってましたが、そのお小ささではそうでしょうな。エンリケ、手を貸して差し上げろ」
「どうして私が……」
先程からキケと言う愛称で呼ばれていたもう一人の男、エンリケがぶつくさと不満を漏らしながらも、ジークの言葉に従って馬を降り始める。
皆、そうだ。
俺の事を賢い、勇ましいと言いながら、どこか甘く見ている。
そんなところだけは、この容姿も役立っていると言うべきか。
ジークは剣を手にしているが、俺が逃げ出す理由はないと、もはや緩み切っている。エンリケが馬を降りて完全に地面に足をつける。
ここだ。ここしかない。
「ルナッ!!」
両足でルナの背を強く挟み込んで中腰になると、首に巻かれている縄を持って激しく打ち鳴らす。
こいつらは俺がなぜこんなところに一人でいるのか、理由を知らない。
俺の目的は他国に逃げたり、父様と会う事じゃない。
ただそこに見えている、森に辿り着きたいだけだ。
『困った事があれば森へ行け。マーナガルム神が助けて下さる』
旅に出る少し前、父様が俺に伝えた言葉が耳に蘇ってくる。
森まで辿り着きさえすれば俺の勝ちだ。
この二日間、アレクたちの前に乗せて貰って、馬の走らせ方なんて覚えたさ。
鞍も鐙もないなんて知った事か。
森まで数十メートル、駆け通してやる!




