第25話 長い一夜⑦
ついさっきまで少年の形をしていた黒い闇は今や大人ほどに大きく、もぞもぞと立ち上がっていた。
目などないと思うのに、俺の前に立ち塞がるセインとアレクの二人を射殺さんばかりに睨みつけている。
『厄介だな。この短期間で眷属化しているのか……やはり殺すか』
眷属? 俺の? それでわずかなりともアレクの攻撃が通ったのか?
いや、そんな分析をしている暇なんてない!
「駄目だ! 二人とも逃げてくれ!!」
あらん限りの声で叫んだのに、アレクとセインは微動だにしなかった。
「嫌です」
迷う素振りも見せず、セインが即答する。俺を掴んでいる左腕がワナワナと震えている。
「私はもう、心を偽って生きるのはやめる。貴方がいない世界で生きても仕方がないのです!!」
あれほど感情を見せるのを潔しとしていなかったセインが、俺を背後に庇って大声を上げる。その身体はまっすぐに闇に立ち向かって揺るぎもしなかった。
セインの横にアレクが並び立って、闇に向かって槍を向ける。
「よく言った、セイン。俺たちの主を連れ去りたかったら、俺たちを倒してからにして貰おうか、この化け物ふぜいが」
挑発するように軽く上下に動かされる槍の穂先を、闇は憎々しげに睨みつけている。
急いで戻って来たルッツもセインの隣に立って拳を構える。
「先輩、お伴致します」
やめろ、やめてくれ。
ルッツ、さっきまったく敵わなかったじゃないか。
どうしてこんな中で心を折らずに立ち向かえるんだ。
俺に三人が命をかける価値なんてない。ないんだよ。何度も言ったのに。どうして言う事を聞いてくれないんだ。
俺だって……皆を失ってまで生きていたいなんて思わない。
闇はもはや俺たちよりも、ルッツよりも大きく膨れ上がって怒鳴り声を上げていた。
『たかが人間が! 僕と対等に戦えると思っているのがおかしいよね! そんなに一緒にいたいんだったらさぁ、手足をもいで連れて行ってやろうか! その目で、自分たちの主人が闇に堕ちるところを見る?』
キャハハハハと薄気味悪い子供の笑い声が響き渡る。
さいってーだ。
こいつなら本当にやりかねない。
残酷な子供が蝶の羽をむしるような手軽さで、人の命や心など何とも思っていないんだろう。
その言葉に嫌悪を催して、俺は思わずギリッと闇を睨み上げた。
『なんだよ、その目。気に入らないね。まさか本気で、こんな奴らがこの僕に渡り合えると思っているわけじゃないよね? 僕も見くびられたもんだね』
少年の怒りに押されるように空の雲が途切れ、切れ目から覗くだけだった青白い月が徐々に丸い姿を現す。
それに合わせるように俺たちを取り囲む闇が濃く、黒さを増す。
松明の明かりも、燃え始めていた焚火も、もはや俺たちに明かりを届けてはくれなかった。
周囲が真っ暗闇に包まれる。
『この僕こそが新しい世界の神だ。人間共よ、絶望を知るがいい。この攻撃を耐えきった奴だけを楽しいショーに招待してやるよ』
少年の言葉を皮切りに、辺り一面からグッ、ガッと皆の叫び声が上がり始める。
な、なんだ?
何が起きている?
真っ暗過ぎて何も見えないが、最悪な事態な事だけは確かだ。
神を詐称する少年は、猫が瀕死のネズミをいたぶるがごとく、致命傷は与えず皆を次々に攻撃しているようだった。
「ルーカス様!」
セインの腕の中に強く庇われる。
「ぐっ……うっ!」
ガツンと音がして、セインの兜がどこかに吹っ飛んでいった。頭を覆うような形状の頑丈な兜が。
ドスドスと、身体を通して、その背や腕に何かが当たっている衝撃が伝わってくる。
暗すぎて見えないが、俺の顔にボタボタと降ってくるのはセインの血なのか?
「ぐあぁっ……!」
「うぐ……っ!」
間近からアレクとルッツの呻き声も聞こえてくる。二人は目には見えないながらも闇の攻撃を槍で、拳で捌いていたようだが、なし崩しに被弾してしまっているようだ。
村の人など、最初からただの的だ。
このままじゃセインが……皆が死ぬ。
「この手を離せ、セイーン!」
「嫌だ、絶対に離れません!」
なんとか身を捩って逃げ出そうとするが、セインの腕は頑として緩まなかった。
耳障りな甲高い笑い声が辺り一面に響き渡る。
『いい気味だね! 僕に逆らうから、こうなるんだよ。死んでもちゃんと覚えててね!』
「あ、悪趣味だぞ! 俺を……俺だけを連れて行けばいいだろう!」
『君たちが悪いんだよ。僕を怒らせるからさぁ』
機械のように感情のこもらない冷たい声。怒った振りをしながら、こいつはどこか楽しんでいる。
かわいそうな奴だ。
誰も、していい事と悪い事の区別も教えてくれなかったのか。
誰もお前を愛してくれなかったのか?
『そ、そんな目で僕を見るな~~~~!!』
闇の中で見えるはずがないが、苛立った少年が放った怒気のようなものが俺に向かってくるのが見えたような気がした。
頭に血が昇りすぎて、俺を殺さず連れ帰ると言う目的すら忘れてしまったようだ。
とっさにアレクとルッツが俺たちの前に飛び出たようだった。セインの力強い腕の中に痛いほどに抱きしめられる。
俺の……俺たちの運命がここまでだとしても、俺には一緒に笑ったり、泣いたりしてくれる人がこんなにもいた。
今、ここにいない人たちもきっと俺の事を想ってくれている。
そんな人がお前には一人もいなかったのか?
俺だったら、誰もが死に絶えた荒野で神になんかなりたくない。
たった一人ぼっちのかわいそうな神様。
そう思った瞬間、一気に闇が掻き消えて、俺の周囲は夕焼けに照らされているようなセピア色に染まった。
さっきまで真っ暗闇だったのに、セインが、アレクが、ルッツが、村の人たちが動きを止めているのが見える。
怒り狂って叫んだまま、こちらも動きをピタリと止めてしまっている真っ黒な姿をした少年も見える。
その後ろに、ふわりと光に包まれて女の人が立っていた。
寒さの増している初冬の夜にも関わらず、風になびく真っ白なサマードレス。
長い白金の髪が揺れる。
「かあさ……」
最後まで呟く前に、俺は違いに気づいた。
優しく微笑むその顔は母様そっくりだったが、きっと俺は見たいものを見ているだけだ。
薄く透けるホログラムのような、光の粒子だけで作られた外見。
「セレスティン……様?」
彼女はふわりと宙を滑るように少年を通り越して、俺へと光の両腕を伸ばした。
『ルーカス・アエリウス……貴方の大いなる愛が皆の心に届きますように』
愛の女神、セレスティン。
俺の額にキスをするように彼女の顔が近づいてきて、そして触れるか触れないかのところで霧散する。
『そして、どうかあの子たちを助けて……』
囁きながら消えていく声とともに、光り輝く優しさに包まれる。
その瞬間、世界が元に戻った。
ぼやぼやしている時間はない。
闇から伸ばされた無数の棘が皆の数ミリ先に迫っているのがはっきりと見えた。
呪文なんて唱えた事もないけれど、身体の中に漲る力が、どう言えばいいのかを教えてくれた。
「光よ、来たれ!」
空に向かってできるだけ高く腕を伸ばして叫ぶ。
周囲の闇に吸い取られていた光が、球体の形で俺の掌の上に集まる。少年が驚愕に顔を歪ませたのが分かった。
『ま……さか』
爆発したのかと思うほど、カッと眩しい閃光を迸らせて光の球は周囲に強い力を放った。
『セレスティーン! また貴様か、貴様らが僕の邪魔をー……!』
断末魔を上げながら、少年を含む闇は光の中に消えて行った。
強い光が一瞬で掻き消えると同時に、俺の身体は倦怠感に襲われた。伸ばしていた腕が落ちて、ぐったりと倒れ込みそうになる。慌てたセインに抱き留められる。
「ルーカス様……」
そのまま意識を手放してしまわないように、俺は怪我をしている方の左手を握りしめた。
広場は怖いくらいの静寂に包まれていた。
誰もが畏怖するように俺を見つめている。闇が去っても、俺の身体が夜を照らすようにほのかな光を発していたからだ。
よろける足を踏みしめて、どうにか一人で地面に立つ。
セインはまだ心配そうだったが、平気だからと手を上げて制す。
「みんな、もう大丈夫だよ。セレスティン様が助けに来て下さった」
微笑んで伝える俺の前に、人々は一人、また一人と傷ついた身体を地に伏せた。
最終的にセインたち三人以外の村人は全員、俺を拝み始めて、彼らを立ち上がらせるのに苦労するはめになったのだった。




