第13話 魔物
こんな状況で寝られるわけないと思ったのに、気づいたら俺はルッツに身体を預けて寝落ちしていた。
感情の振り幅が大きすぎて疲れ果てていたんだろう。
ほとんど気絶に近い。
揺り動かされて初めて自分が寝ていた事に気づいて愕然とした。
今度はまったく夢を見なかった。明るい炎の近くにいたからか、ルッツが守ってくれていたからか。
「起こしてすみません」
ルッツが申し訳なさそうに謝ってくる。
「ううん、何かあった……?」
言いかけて俺は目を見張った。
寝ぼけ眼を向けた瞬間、セインがアレクの後頭部を拳骨で殴っているところを目撃したからだ。
「いッて! どうした、異変か」
「いや、今のところは大事ない」
飛び起きたアレクに、しれっとセインが答えている。
「だったらなんで殴るんだよ! 口で言えば分かるっていつも言ってるだろ!」
「言っても起きなかったからに決まっているだろう」
「ったく、もう少し手加減ってもんを……」
セインは大事ないと言ったが、それなら俺やアレクを起こすはずがない。まだ辺りは暗闇に包まれている。朝は来ていなかった。
それでも夜明けが近い事は予想できた。
夜の間も火が途切れないようにセインたちが焚火に薪をくべてくれていたのだろう。俺たちが集めた薪や木の枝は、ほぼ底をつきかけていた。
俺とアレクは周囲の変化にすぐに気づいた。
あれだけ間近に迫って煩いくらいだった闇がいなくなっている。
日の光が差せば不利だと悟ったからだろうか。
「きょ、今日はもう出てこないのかな……」
「分かりません。しかし嫌な予感がしまして」
フラグを立てるなよ、セイン! お前の予感は当たり過ぎるんだよ!
俺たちは顔を見合わせて、背中に嫌な汗を流した。
「松明を作って出立の準備をしましょう。朝を待たず旅立った方が良い気がします」
誰もセインの意見に反対する奴はいなかった。もともと荷物は少ないし、ほぼ纏めてある。
皆が毛布を手早く丸めて馬の後ろにくくりつけている間に、俺は松脂を塗った布を適当な太さの枝に巻きつけようとした。昨日の夕方、ユーリが出て行く時に作った余りだ。
今度はそんな長時間燃やすわけじゃないから適当でいい。
と思うのに、急ぐあまり俺の手は震えてあまり上手に巻けなかった。途中でアレクとルッツが代わってくれる。
馬が落ち着かない様子でいななきを上げる。
バキバキと木々を折りながら何かがこちらに向かって来る音がする。
「もう、ここはいい! 早く馬に乗れ!」
ルッツが横抱きに俺を抱えて馬へと走る。
アレクが炎をつけた松明を投げ渡してくる。闇の中に火の粉が踊る。
「先に行け! ここで食い止める!」
セインとアレクが馬に乗る様子はない。二人は俺たちに背を向けて、腰の剣を引き抜いた。
「チッ、槍も持って来れば良かったな」
「ない物ねだりをしても仕方なかろう。無駄口を叩いていないで、来るぞ」
二人は焚火の左右に展開した。セインは上段に、アレクは腰溜めに剣を構えている。揺れる視界の中、徐々に二人の背中が遠ざかる。
「それは駄目だ!」
ルッツの腕の中から逃れようと俺は身を捩った。皆で森の道なき道を逃げるより、少し開けたここで迎え撃った方が戦いやすいと言う理屈は分かる。
ましてや夜明け前の、この暗闇の中だ。
だけど二人を置いて自分だけ逃げるなんて!
「離せ、ルッツ!」
「ルーカス様、落ち着いて!」
「どうした、ルッツ、早く行け!」
俺が暴れるものだからルッツはまだ馬に乗れていない。セインがしたように、俺を殴って大人しくさせるような真似がルッツにできるわけがない。
樹木が大きく右に傾ぐ。
車くらいの大きさの何かが森の中から飛び出してくる。
二人は思い切り渾身の力を込めて剣を振り放ったが、ガキンッと金属音に近い音が響いてそれきり腕が止まった。
慌てて剣を引いて、左右に飛びずさる。
「マジか、よ……」
アレクがそれを見上げて、呆然と呟いた。
腹を軸にしてギチギチと牙を鳴らしながら鎌首をもたげるそれは、人より大きなムカデだった。
あの、細長くて身体に足がたくさんついた節足動物だ。地球にいるのと形はそうも変わらない。
異様なのはその大きさと色だった。俺たちを取り囲んでいた闇が全て入り込んで膨れ上がったかのように巨大で、見上げるほどもある。
頭も胴体も足も、どこからどこまでも真っ黒だ。もちろんこの世界にこんな大きな虫はいない。
その長い触覚が何かを探すように揺れる。
「ぎゃああぁぁぁぁ!」
あまりの気持ち悪さに、俺は思わず素で叫んでいた。
「おおおお俺は虫は駄目なんだよおおぉぉぉ!!」
ブルルッと身体に勝手に震えが走り抜ける。敵を前にして致命的だとは思うが、顔を逸らしてギュッと目を瞑ってしまう。
俺は虫と名のつくものは全般、駄目だ。蝶を可愛いとか言う人の気が知れない。蚊も叩けないほどだ。ゴ……のつく例のアレなんか出てきたら逃げ惑う自信がある。
特に足の多いものが苦手で、蜘蛛やムカデなんてもっての他だ。
小さいやつだって近づく事もできないのに!
なんだよ、こんなの反則だよ!
うう。気持ち悪くて吐きそう。
俺が固まって静かになったので、その隙にルッツは俺を馬の上に持ち上げて飛び乗ろうとした。
ムカデが……いや、黒い闇が探しているのは俺だ。
叫び声を聞き取る耳など虫にはないと思うが、振動を探知したのかも知れない。ムカデはさっと地面に身体を戻すと、焚火を迂回して一目散に俺に向かって来ようとした。
「させるかぁッ!」
アレクがムカデの顔らしきところに剣を叩きつけるが、この大きさだ。その装甲は鉄をも阻む。
カンッと音を立てて剣が弾かれるなり、アレクは即座に方針を変更した。ムカデの足を数本、一息に斬り飛ばす。
変な色の体液が地面とアレクに飛び散った。
だが、ムカデは日本語で百足と書くだけあって足の数本を失っても動きは止まらなかった。焚火の方に大きく傾ぎながらも、まだ走り続けている。
セインが反対側から飛びついて節と節の間に剣を突き立てる。それでもムカデは止まらない。
一瞬、セインは力比べをするように力を込めてムカデを地面に繋ぎ留めようとしたが、力の差がありすぎる。不利を悟ってすぐに剣を引き抜いた。
二人はもはや左右からやみくもに剣を打ちつけていた。
俺から見て右側、アレクの方はその足のほとんどを、左側も後方のおおよその足を失いながらも、どんな執念かムカデは俺たちの方に突進して来た。
アレクはムカデの身体に体当たりをして方向を逸らそうとしたが、少し遅かった。
「ルッツ!」
ムカデを逃がしてしまった二人が、俺たちを振り返る。
俺を馬に乗せようとしていたのでルッツはまだ剣も抜いていない。いや、ムカデはルッツなど歯牙にもかけていない。真っ直ぐに俺目がけて──……。
俺の視界を巨体が覆う。
「ぐ……うッ!」
ルッツはムカデの咢を腹に直接受けて、うめき声を上げた。
「ルッツー!」
俺のせいだ。俺が、グズグズしていたから。皆の言う事を聞かなかったから。
しかし腹に食い込む鋭い牙を両腕で掴んで、力を込めながらルッツは笑った。太い二の腕に血管が浮かび上がる。
「大、丈夫。俺はルーカス様を守るのが仕事」
そんなのは仕事じゃない!
この世に命を懸けていい仕事なんてない!
俺が口を開けないでいる目の前で、ルッツは雄叫びを上げた。
「グ、ガアアァァァッ!」
叫び声とともに両腕を一気に振り抜く。まさかと思ったが、ルッツの全力は巨大ムカデの顎の力に勝った。
ガギンと片方の牙が変な音を立てて、あらぬ方向に向く。
ルッツは足でムカデの頭を蹴り捨てた。
その頃には追いついて来たセインとアレクが、ムカデの頭と胴体の節目に剣を突き入れた。
何度か剣で突き刺されて、ようやくムカデは動きを止めた。もわっと、薄黒い闇が節々から立ち上るように消えていく。
それを見て、セインとアレクはやっと剣を持つ腕から力を抜いた。
「ルッツ、大丈夫か!」
「大した事ないです」
シャツは破れ、傷口からは血が流れ出ているのに、軽く腹を押さえながらルッツは平然と答えた。痛くないはずがないよ。だけどそんな事を言ったら俺が気にするから。
俺は馬の上から、間近に見えているルッツの首に腕を回した。
「ルッツ、ごめん、ごめんね!」
「ルーカス様に怪我がなくて良かったです」
小刻みに震える俺の腕を、ルッツがポンポンっと優しく叩いてくれる。
そろそろ森の中にも外より遅い朝が訪れようとしていた。




