第1話 燃える館
炎に包まれるレートの豪奢な別荘。
俺はその光景を一生、忘れないだろう。
この日、俺の幸せな子供時代は終わりを告げた。
わなわなと全身が震える。
後先も考えず大きな軍馬から飛び降りようとした俺を、アレクが慌てて抱え込んだ。
「離せよッ!」
カッとなって怒鳴るが、アレクは腕の力を弱めなかった。
俺たちが帰り着いた頃、まだ炎は屋敷の西側を焼いているだけで、そこまで勢いがあるようには見えなかった。
木造が多い日本と違って、この世界の建築物の基本は石や煉瓦だ。燃えるものは中の調度品しかない。
時刻は空も白み始める早朝。早起きで勤勉なこの世界の人々は、そろそろ働き始める時間帯だ。
侍女は井戸で水を汲んで。
騎士たちが軽装で鍛錬のためにゾロゾロと裏庭に集まったりして。
朝食の準備で調理場には怒号が飛び交っている。
そのはずなのに、誰も、誰一人、屋敷の外に出て来ない。
俺は頭の隅で、火事に気づいていないのかも知れないと、どこかのんきな事を考えていた。
それなら早く教えに帰ってあげないと、って。
なぜ四人が誰も森から足を踏み出そうとしないのか分からなかった。
「かあ、さま……ローズ……」
震える唇から言葉が漏れる。
そうだ、早く助けに行かないと。ローズや侍女たちは護身術くらいは仕込まれているが、それでも力の弱い女性だ。
ましてや母様なんて、重たい剣を持ち上げる事すらできないような人だ。
「エレナ……マルコ……サム……」
明るい彼らの顔が浮かぶ。
俺づきの侍女のエレナは誰よりも早起きだ。俺が起きる頃にはもう侍女服を隙なくぴっちり着込み、タライに水を用意して、タオルを手にベッド脇に立っている。
料理番のマルコや、馬丁のサムだって朝は早いはずだ。
「ワルター!」
なんでお前が一番に飛び出して来てないんだよ。
俺たちの護衛で、分隊の隊長で、この屋敷の警備の責任者はワルターだ。何があっても母様の側にワルターがいると思うからこそ、俺は安心して護衛を任せていられた。
戦いに特化したマーナガルムの屈強な騎士たち。彼らならそこいらのチンピラや兵士の数人に囲まれたところで、一人でも軽く一蹴できる。
そんな奴らが誰一人として姿を現さない。
俺の叫び声は森の中にこだまして消えた。
屋敷の前の方にいるんじゃ……それならなぜ声のひとつも聞こえないんだ……いや、もう避難したんじゃ……それとも俺を探しに行っているのかも。全員で?
ぐるぐると頭の中で、とりとめのない考えばかり回る。
いつしか俺は馬の上でジタバタと暴れて、癇癪を起した子供のように金切り声を上げていた。
「離せっ、離せってばっ! 僕は行く! 母様! 母様を助けないと!!」
「離しませんよ!」
アレクの抑えた怒声がビクリと耳を打つ。
誰もが蒼白な顔で俺を見下ろしていた。
そんな顔、見たくない。
なんで誰も、大丈夫ですって声をかけてくれないんだ。いつものように笑って、任せておいて下さいって、自信満々な表情を見せてくれないんだ。
俺はほとんど泣き出さんばかりに目の中に涙を溜めていた。
それが流れ出てしまえば不吉な予感が現実になるような気がして、泣く事もできなかった。
見かねたセインが、馬上でアレクに抱えられている俺の前に進み出る。
「私が様子を見に行ってきます」
「セイン、俺が……」
ユーリが伝えかけた言葉をセインは遮った。
「いや、ユリアンの技術はこの先でこそ役に立つ。今はルーカス様のお側にいてくれ」
セインの言葉を受けて、アレクが重苦しく尋ねる。
「一人で行くつもりか」
「一人の方が身軽だ」
セインはスルリと馬を降りると、頭にマントのフードを深く被った。心配するなと言うように、自分の腰の剣を軽く叩いて示している。
この四人はそれぞれ得意とする事が違う。ユーリは斥候や弓術、アレクは馬上での槍捌き、ルッツは体術、そしてセインは剣などの接近戦だ。
確かに一人で行くとしたらセインほど向いている人間はいない。
「セイン、お願い……母様を助けて来て……」
一瞬だけ振り返ったセインは淋しそうに微笑むだけ。その首が縦に振られる事はなかった。
「半時待っても私が戻って来なければ、先に行け」
木立に身を潜めながら、セインはまだ燃えてない東側から屋敷へ近づいた。その姿がさっと建物の中に消える。
俺を連れた三人は、屋敷から見えづらい森の奥へ移動した。
あからさまに敵がいる事を想定した動きで。
待っているだけの時間はジリジリと、まったく過ぎていかないように感じた。
風に煽られて炎の勢いが強くなる。
ここまで熱気が届くような気がする。
早くしないと、もう屋敷の半分くらいが燃え始めている。
きっと、きっとセインは母様やローズを連れて来てくれる。皆、どこかに隠れているだけなんだ。絶対に大丈夫。
それだけを祈るように何度も、何度も考えた。
永遠とも思える時間が過ぎて。
燃え盛る屋敷から、セインが再び姿を現した時、俺は自分の目を疑った。
セインがたった一人だったからだ。
炎を背景に黒いシルエットのようなセインが、一人、足早にこちらへと歩いてくる。
途中、風が長いマントを翻す。
その下に誰かを匿っている事もない。
無言で待つ俺たちの前でフードを取ろうともせず、セインは俯いたまま静かな声で告げた。
「ワルター隊長以下、騎士たちは殉職。その側にローズ殿と……妃殿下も……」
セインが何か差し出してくる。
絹のように細い白金の……糸ではなくて、これは髪の毛だ。母様の髪の毛をセインは一房、切り取ってきたのだった。それはところどころ、赤黒い何かに染まっていた。
「屋敷の全ては見て回れなかったが、恐らく、全員……」
セインがまだ何か伝えている。
けれど、俺の耳にはもはや何も届いていなかった。
差し出されたそれを直視したくなくて、大きく首を振る。
「嘘……嘘だ……」
ガチガチと震えで歯が鳴る。
「嘘だ──────ッ!!!!」
息が途切れるまで叫んだつもりだったのに、自分の口から声が出ているのかすら分からなかった。
喉に何か詰まったようで苦しい。
息ができない。
「離せっ、やっぱり僕が行かないと! 自分の目で見るまでは信じない!!」
「アレクセイッ! 絶対行かせるなッ!」
セインの鋭い声が飛ぶ。
俺は自分が馬から落ちるかも知れない事にも構わず、全力でアレクを殴り、馬へ蹴りを入れた。六歳とは言え、火事場の馬鹿力に等しいその攻撃は、かなりの打撃を与えたはずだ。
いななきを上げて馬が暴れる。片頬を赤く腫らし、手綱を引いて無理やりに馬を制御しながら、俺を抑えるアレクの腕は決して緩まなかった。
「ルーカス様、落ち着いて!」
意味不明な叫び声を上げる俺の口をアレクの手が塞ごうとする。
俺はその手に思い切り噛みついた。
「ぐ……っ」
何に怒っているのかも分からないほど、頭に血が昇っている事にすら気づかず、俺はギリギリと顎に力を込め続けた。
いつの間にかセインが近づいて、俺たちの上に影が落ちた。
炎に照らされた黒く長い影。
「ルーカス様、申し訳ございません」
小さな呟きと同時に腹に強い衝撃が走った。
「セイン、お前……」
崩れ落ちる意識の中で、セインと視線が交差する。
フードに隠されていたその頬は涙で濡れていた。
本当は分かっていた。セインが俺に嘘をつく事などないと。
「申し訳ございません」
それしか言う言葉をなくしてしまったかのようにセインは何度も呟いた。
咽び泣く優しい腕に抱き留められて意識を失った時、俺の頬にも一筋の涙が零れ落ちた。




